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Ⅱ.異変

【加虐的な語り手による贅言】

 Kはその日、[08:00]に目覚めた。何故ってその日は日曜日。勤め先のお役所は休みだった。休みの日で多少寝坊しても彼の朝は変わらない。水と酢を飲んで、それから平日以上に念入りなストレッチをした。だけど、その日も結局自分の顔を踏むことは叶わなかった。

 それに、Kは最近ストレッチに価値を見失いつつあった。毎日毎日、日ごとのコンディションで多少の波はありつつも、彼の足裏は顔に近づいている。このまま続けていけば確かに自分の顔を踏むだろう。

 ただ、毎日毎日、近づいた足裏を自分の力で以て顔に押しつけていたら、なんだか心が求めているものはこれじゃないような気になってきた。言ってしまえばKは、もっと自由に踏みつけたい。踏む自分と踏まれる自分が独立していたいって、そんな風に思ったんだ。

 どうしてそこまで、って君は思っているね。そんな事を聞いてはいけないよ。何故って?もうじき、同じ問いがKに降りかかる。ここから先はもう日常ではないんだ。Kと言う男の内面を踏みつけるように、丁寧に読んでやってくれたまえよ。


【異変】

 Kは、日曜日の部屋で考え事をしていた。ラグの上であぐらをかいて座っている彼の視線の先には、例の汚れたキャンバスがあった。幾枚目かの自画像は、未だ下書きの段階で止まっている。

 彼は欲求の矛先を探して立ちあがると、キャンバスの奥の壁に乱雑に重ねられた、没になった自画像から一枚を抜き取った。床に置いて、右足で踏んでみる。画用紙に皺がつくまでぐりぐりと押してみると、自分が滑稽に思えて少し気が晴れた。ただ、それはほんの少しだった。

「そうだ」彼は学生時代によく通った喫茶店を思い出した。あそこに久々に顔を出してみよう。彼としては、それなりに純粋な思いでそんな発想をしたはずだった。だけど、顔を洗って服を着替えた後には、ラグを黒いマットに敷き変えてから家を出たんだ。


 電車で30分ほど行くと、数年前まで通っていた大学の最寄り駅に着く。そこから更に二駅進むと、町は郊外の住宅街らしい様相を呈する。やっぱり、電車で来て良かったな。車だと運転が面倒そうだ、Kは歩行者と自転車に阻まれてノロノロ進む車を見ながら考えた。

 改札を出て、大通りから右に逸れるように少し歩くと、狭い道が迷路のように交差していく。見える景色は多少記憶と違っているが、道の形は変わりがない。足に任せて数分歩くと、Kの記憶通りの場所に店はあった。

 住宅地の中に、一軒浮いて建っている喫茶店。山奥のバンガローのような見た目をしている。昔通ってた時から、「吹けば飛びそうだ」と思っていたが、そのまま飛ばずに建っている、Kは少し感動した。店先のプランターから伸びたゴーヤが化け物じみているのも変わらない。

 看板には「美術喫茶 白眉」の文字。白眉を自称するだけあって、辺鄙な場所にあっても尚、店は今日も賑わっているようだった。

「いらっしゃい」

カランコロンと鳴るドア付きの鈴に合わせて、店主の声が飛んでくる。流石に覚えてはいないだろう、と思いながらもKは店主に微笑んだ。大柄で白髪頭に白髭の店主は、一瞬眉間に皺を寄せてから破顔した。

「あ~、ええと、君、久しぶりだよね?俺、君のこと知ってるよね?なんだっけな、名前が出てこないけど。あれだろ?M大学の学生さんでさ、なんだったかな頭の良い学部に通ってるってのに、年中店に顔出して絵の話ばっかりしてたんだよ、そう、何だっけな名前、」

両手の平を前に突き出して、Kの事を制しながら店主は必死に思い出そうとしていた。Kも自然と笑顔になりながら、先に答えを言ってしまった。「中村ですよ。中村。」

「ああ、そうだそうだ、中村君だ。俺は君の描いた絵、割と好きだったんだよ。なんだっけ、あのマゾッホの…」

「ああ、『毛皮を剥がれたヴィーナス』ですね。あの絵、もし良かったらもらってくださいよ。実家に置いてありますが、みんなに悪趣味だと言われていてね。物置の中で埃を被ってます。もう捨てるだけの絵ですから、押しつけるのも申し訳ないようですがね。」

Kの申し出に、店主は顎に手を当てて少し考えた。

「そうだな。…どっちがいい?あまり高額で買い取る事は出来ないがねえ、10万なら出そう。もしくは、いくらでもコーヒーをご馳走しよう。」

「はは、ありがとうございます。お金をとるような絵じゃないですが、コーヒーはご馳走になろうかな。今度持ってくるので、その時は代金を絵で払いますよ。絵で払うなんて、僕も一端の画家みたいだ」

「今回からご馳走したっていいが、まあいいや。何飲む?」

「じゃあ、グァテマラをください。」

店主がコーヒーの用意を始めたのを認めて、Kは店内に並んだいくつかの丸テーブルを見渡した。どこの席にも、一癖ありそうな人間が2、3人で座って盛んに会話をしていた。いくつかの席では画集やクロッキーが広げられている。

 一番奥の机で、何かを撫でるような動作をしている老人の姿を見とめると、Kはその席を選ぶことにした。

「はじめましてこんにちは。この席いいですか?」

 Kは石膏像の事を聞いてみたい気持ちから、久方ぶりに店を訪れたのだった。


 コーヒーの香りと、盛んな議論と、それから紙の擦れる音。店は芸術家から、美大生、趣味で美術をやるもの、全てが分け隔てなく語らう場として存在していた。Kは大学で法律を学び、現在は役所勤めだが、幼い頃から絵が好きだった。大学生の頃には暇を見つけては油絵を描いたものである。


 石膏でマスクを作る方法を一通り教えてもらい、カップの中も殆ど空になったところで、Kはそろそろ帰ろうかと考え始めた。その時、丁度店のドアがカランコロンと鳴った。なんとはなしに振り返ると、一人の客が帰る所だった。

 Kが顔の向きを戻す途中で、先に出て行った顔がガラス越しにチラと目に入る。その顔をKが無視するわけにはいかなかった。何故って、その顔はKにそっくりだったのだ。

 窓枠の外へ消えてしまった、ほんの一瞬だけ見えたその横顔がKの頭に焼き付いた。落ち着け、彼は反射的に自分に言い聞かせる。膝がそわそわと揺れ、熱いほど頭に血が上る。そしてKは、結局のところ簡単に呑まれてしまった。

 同席の客に慌てて礼を言って立ちあがり、それから店主に礼を言いながら急いで会計を済ませた。財布ごと投げて店を飛び出てしまいたい気持ちだったが、生来の丁寧な性質が邪魔をする。

 店から一歩出た途端に、Kは走り出した。日々の柔軟体操の賜だろうか、いきなり走り出しても身体はついてきた。窓越しに見た自分の顔を追いかけて走る走る。顔が駅の方に向かってくれればまだ良かったものだが、窓を通り過ぎた方向からして、どうやら町の奥に向かったらしい。迷路のように入り組んだ住宅街を、Kは奥へ奥へと入って行った。


 30、40分ほど、走りっぱなしで必死の捜索を続けたが、結局顔を見失ってしまった。Kは膝に手をついて止まろうとしたが、慣れない運動にフラフラして道路脇の電柱にもたれかかった。自動販売機で、500mlの水を一本買って喉を潤すと、やっと落ち着いてきた。周囲を見回してみると、どうやらKは知らない町に迷い込んだらしい。どの家も正方形のコンクリート建てで、狭い道から見える景色はどこもかしこも灰色一色だった。

 見失った顔を求める心を宥めながら、頭を廻らせる。まずは、白眉に戻って店主に聞いてみようと思った。あの喫茶店は大抵の客が常連だ。聞けば何か分かるかもしれない。Kは来た道を引き返そうとして、それから困ってしまった。行けども行けども、灰色の町はどこまでも迷路を極めて行った。

Kだって、そうすぐに焦ったりはしなかった。白眉にすぐに戻れない事への苛立ちはあったが、兎に角真っ直ぐ歩いて行けば大きな通りに出るだろう。仕方なし今日は帰宅してもいい。そんな風にして歩こうとするKを、迷路は許さなかった。真っ直ぐ歩く事を拒む道が、彼の足を奥へ奥へと誘っていく。引き返そうにも、気がつけば知らない道に出る。段々とKは恐ろしくなってきた。時計を見ようと思って取りだしたスマートフォンでやっと思い出して、地図アプリを起動するのだが、どうやらこの住宅街の中の細かい道は地図に表示されていないらしい。巨大なひとかたまりの灰色が映っている。とりあえずは、これの外に向かえば良いだろう。そう思って歩き出すが、どうにも灰色の外に近づく度に行き止まりである。Kは流石に疲弊していた。それでも立ち止まる事がなかったことには、彼は興奮状態であったのだ。


 時計を確認してから更に30分ほど経った頃だろうか。彷徨い彷徨った彼の視界に、ついに一つの異物が現れた。灰色の土地の中心近くに位置するそれは、オレンジと緑のストライプのひさしを道に向かって伸ばしていた。

 どうやら何かの店らしい。Kは、帰り道も店員に聞けば分かるだろう、と中に入ってみることにした。ひさしの下には、額入りで[何でも作ります AB工房]とあった。ガラス張りの戸を押し開けると、店内にはおあつらえ向きに井上陽水がかかっていた。

 招き猫、積み上げられた画集、布袋様、小ぶりのギロチン、バレリーナが踊る壁掛け時計、ビリジアンの蛇皮の財布に、赤ん坊が遊ぶようなモビール。高く積まれた透明な衣装ケースの中では、プラ皿に載せられた果物がぐちゃぐちゃになるまで熟れていた。甘く汚い嫌な空気が暴力的に肺に流れ込んでくる。あまりの不快さに、Kは顔を顰めた。

 ポケットからハンカチを取りだして、鼻口を覆ったり、額の冷や汗を拭ったりしながら、Kは奥へ進んだ。店は外観からくるイメージよりずっと長く奥へと続いた。両脇をがらくたが埋め尽くすので幅の広さは伺い知れない。

 ガラスケースの中には、パイプと巨大なナナフシの標本、シノワ趣味のティーカップ。価値があるんだかないんだか分からないなと考えて、やっとKはこの店には一つも値札がないことに気がついた。右手には、黒地に黄色と白の文字が力強く筆書きされた宗教看板がいくつも雑多に重ねてある。どこの国かも分からないアーティストたちのレコード盤の山からは、パブリックエネミーだけがKにも知った名前だった。

もう数分は歩いている気がする、この廊下はどこまで続くのだろうか。そう思い始めた時、頭上にフクロウの剥製が現れた。身を屈めて通り過ぎたのだが、どうも徐々に天井が低くなっていたらしい。Kはそのまま身を屈めて歩くことになった。

 いい加減諦めて引き返そうかと思った所で、突然右側にピンク色のドアが現れた。おもちゃのような板に、金の豪奢なノブがつけられ、「作業中」の札がかけられている。ここまで来ておいて、引き返すわけにも行くまい。Kはドアを二度ノックした。中で作業をしている人間がいたとすれば、さぞ驚かせる事になるだろうと思っていたのだが、「ちょっと待ってくださいね-」普通の返事が返ってきた。

 金のノブががちゃりと捻られ、部屋の中に引き込まれる形で開いた。中はそれなりに広いらしい。身を屈めているKの視界に最初に見えたのは、部屋の主の黒いエプロンを着た胸元だった。「どうぞー」その声は妙にKの耳に馴染んだ。

「すみません、失礼します。」

 

 ***


 Kは、椅子に座っていた。

 白い土壁の、割に広い部屋。天井に二箇所据えられた換気扇がごうごうと音を立てて回ってる。この部屋も変わらず匂いが籠もるが、甘く腐ったあの嫌な感じではない。Kにとっては懐かしさすらある、特有の油の匂いがした。

 本当はもっと部屋を観察したいのだが、今の彼にその自由はなかった。視線の先にはやっぱり白い壁。ところどころに鮮やかな染みが跳ねている。

 固い毛が、布地を擦るざりざりした音を聞きながら、Kは言葉を選んでいた。今Nの前に置かれたキャンバスには、どんな顔をした自分がいるのだろう。


「ごめんね。突然。」

Kは声の主を横目で見た。ちらと見ただけで、ひやりとするほど似ていた。

「…お名前、伺っても良いですか?」

「私は、門野N」

顔は、そう名乗った。Nの声はKの声より少しだけ高いように感じられたが、自分と他人の声を比べる感覚もよく分からず、Kにはその推量に自信がなかった。

「僕は、中村Kと言います。色々と聞きたい事がありすぎて、何から聞けばいいか分からないな」


 Nの返答の代わりに、筆の動く音が聞こえた。求めた顔の持ち主がやりづらい相手だった事に少々落胆しつつも、Kは丁寧な自分を取り戻そうとした。

 しかし、彼の視線はちらりちらりと横にいる顔を舐める。不思議だった。生まれてこの方、自分の顔にこんなに強い気持ちを持ったことなどない。別段醜さに頭を抱えた記憶もないが、鏡を見る度に「もう少し整ってたらなあ」と思う程度の顔。…けれど、けれど今その顔が見たくて仕方がない。欲しくて仕方がない。

 KはNに気づかれない程度に、ほんの少し前屈みになって深呼吸を繰り返した。


 Nは「ふう、」と一つため息をついた。右腕で軽く額を拭う。どうやら何か落ち着いたらしい。Kは、その様子を確認して、あまりの気分を誤魔化そうとポケットのスマートフォンを取りだした。

「あ」Nは突然慌てたように声をあげた。思わず視線を向けてしまってから、Kはどぎまぎした。

「今、何時?」

「今?ああ、[17:26]だけど。」

「あ-、やばいな。ぎりぎりだ。…でも間に合うか。」Nはほとんど独り言のようにもごもご喋った。

「どうかしたの?」Kは少しだけ言葉を選んだ。

「ああ、これからお兄さんと約束があってさ。ごめん、こっちから引き留めておいて申し訳ないな…、ここまでだね。」

「お兄さんと約束、ハハ、デートかい?」

KはNの方へと歩いて行った。黒塗りのイーゼルに載ったキャンバスには“煩悶“を体現するような気難しい表情の自分がいた。

「まあ、そんな所か。どうでも良い重要な約束。」

「じゃあ、後れる訳には行かないね。この絵は完成かい?」

「ううん、まだなんだけどなあ。Kさんの写真でも良いんだけど、なんかそれだと自分でも良い気がするんだ。今更だけど、本当似てるね?私たち」

Nは身体に巻かれた黒のエプロンをはぎ取ると、Tシャツをたくしあげながらピンクのドアの外へ出て行った。ちらと見えた背中は、薄く背筋が盛り上がり、男性的な硬さがあった。それから二組、歪んだ楕円形の赤い点線。下着は見えなかった。 

上半身にオーバーサイズのTシャツを身につけ、下半身には複雑に布を重ね合わせたスカートだかズボンだか分からない何かを引き上げながら、Nはすぐに部屋に戻ってきた。

「なあ、もし良かったら。またここに来ても良いかな。君の描く僕の顔。最後まで見たいんだ。」

キャンバスを見つめながらKは言った。丁度良い理由だ、誇らしささえ感じながら振り返ると、“顔”が目の前に現れた。

「何それ。下心?」


 ***


 Nに促されるまま、狭い廊下をもう少し進むと今度は左側にピンク色のドアが現れた。おもちゃのような板に、金の豪奢なノブがつけられ、「出口」の札がかけられている。

 ガチャリと開けば、視線の先に「美術喫茶 白眉」があった。

 Nは「じゃあ、また!」と右手を振ると、ぴょこぴょこと駅の方へ消えて行った。


 一人になったKは、ぼうっとする頭を抱えてよろよろと歩き始めた。鏡にガラスに水たまり、映り込んだ自分の顔を凝っと見ては、Nの事を考えた。顔は彼のものではなくなっていた。いや、Nが彼の一部になったのだろうか。

 あの顔、あの顔は僕の顔だ。うり二つなんて話じゃない。あの顔は僕の顔なんだ。あの顔は…、踏まれた時にはどんな表情を浮かべるのだろう。僕の足は何を思うだろう。「自分で自分の顔踏んだらどんな顔するんだろう。」頭の中で響く声は、Nのものになっていた。

 先程までのNの姿が頭の中でフラッシュバックする。ああ、出来れば苦しんで欲しい。辛そうで惨めに歪んだ顔をしていて欲しい。Kの口から垂れたどろりとした涎が、水色のシャツに染みをつけた。


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