Ⅰ.日常
部屋の内にあって住人の特徴を示すものと言えば、汚れたキャンバスが置かれているくらい。その他には中型の薄いテレビやシングルサイズのベッドなど、一般的な家具が並んでいる。落ち着いた色彩でまとめられた小さな部屋。
男はその部屋で目を覚ます。今が朝の６時１４分だということは体感で理解している。するりと身体を起こすと、ベッドサイドのテーブルに置いてある目覚まし時計に手を伸ばす。アイボリーの少しざらついた質感。スクエアのデジタル時計の表面を撫でて、スイッチを切る。チラとみると[06:14]が[06:15]に切り替わった。男はいつもの朝にほっと息を洩らす。
キッチンでグラス一杯の水を飲む。それから、酢と水を１：４の割合で混ぜたものを作って、これも飲み干す。
リビングルームの床、毛足の長いブラウンのラグに直立する。深呼吸を２、３度してから、膝に手をあて屈伸運動を始める。膝の関節が滑らかに溶けていくイメージ。膝の裏の筋が柔らかくしなるように。これは十回。終わったら一度直立の姿勢に戻って、伸脚運動へと移る。
左足を身体の横へ真っ直ぐ伸ばし、右膝を曲げるのに合わせて左膝に掌で体重をかける。足の筋がぐいと伸ばされて、ゴムのようにしなって戻ってくるように。これは、右足にも同じ事をする。左右五回ずつ押し伸ばすことを２セット。再びの直立姿勢。単純な伸脚運動でも、少し心拍が上がり、足先に血が廻って温もってくる事を感じる。
今度はアキレス健を伸ばす。伸脚同様左足から始める。右膝を突き出し、左足をぐいと後ろに伸ばして、下方向へ体重をかける。筋という筋が悲鳴を上げだしたところで数秒の停止。これも、右足にも同じ事をする。左右五回ずつ押し伸ばすこと２セット。
ぴたりと直立に戻って、長く細い息を吐く。それから大きく深呼吸を二回。後ろを振り返って時計を見る。いつも通りに[06:25]を示すデジタル表示を一瞥してから、男はストレッチを次の行程へと進めた。
＊＊＊
「住民票には、世帯票と個人票の二種類ありますが、どちらになさいますか？」
「そんなの知らんよ。会社から持って来いって言われたんだ。」
カウンター越しの客は眉間に皺を寄せて面倒そうな顔をしている。赤らんだ色黒の顔に、やや薄くなった白髪交じりの頭髪。おそらくは、この年でリストラに遭い、縁故のある企業に拾われたか何かだろう。そう男は想像する。
「会社から、というとそうですね。多くは住民事項記載証明書というものを提出するのですが、これは住民票からお客様の方で選んだ情報のみを載せるような書類でして、やはり必要な情報が分からないと、こちらではなんとも言えませんね。」
客はカウンターに両肘をついて身を乗り出し、顔を突き出してすごんでみせた。男は視線を合わせたままそっと身を引く。
「あのさあ、お前は毎日毎日ここでその紙っぺらを発行してんだろ？俺はよ、ついこの間まで、ちょっとした工場の重役だったわけだよ。お前みたいに適当に働いてても税金で喰っていけるやつには分からないだろうが、仕事をするってのはプロじゃないといけないんだよ。自分が分からなくて、客の方には分かるはずだなんてそれはちょっとプロとしておかしい話だと思わないかい？」
客はじっとりと男を睨んでいる。どうしてこうも、クレーマーというのは似たような説教をするのだろう、クレーマーの手引き書か何かが世の中には存在するのだろうか。男はそんな事を考えた。
「申し訳ありません。私どもの方で出来る事としましては、複数種類全てのパターンを用意してお渡しするか、もしくはお客様に必要な形式を定めていただくかのどちらかになります。お手数おかけしますが、お客様の会社の方に一度電話で確認していただくのが一番安全な方法かと存じます。」
客は数秒の間じっとりと男を睨み付けて停止した。男は薄い微笑みを浮かべた顔で視線を受け止め続けた。この手の客は、男性の職員相手に手を出してくることはまずない。男は高を括っていた。
「ふん、お前名前なんて言うんだ。」
「私は、中村Ｋと申します。」
「電話してくるからちょっと待ってろ。」
「次のお客様の対応をさせていただきますが、お電話終わったら私の方にお声がけください。再度順番札を取っていただく必要はありません。」
Ｋは綺麗な笑顔を浮かべて頭を下げる。
次の客が目の前に現れた頃には、Ｋはもう先の住民票親父と相対していた自分を捨てて新しい顔をしていた。
Ｋは、丁寧な男だった。面倒なクレーマーにも怯えず引かず喧嘩もせず、必要な処理を穏やかにこなすし、落ち着いた客には淡々と仕事をする。多少昇進しても、繁忙期には窓口に立ちっぱなしになるのは、彼の客の扱いの上手さにあった。
「君もよく疲れないね。大人しいお客だけならまだいいが。今日も殴りかかってきそうな親父に絡まれていたじゃないか。」
Ｋの上司にあたる課長が、深いグリーンのフレームをした眼鏡を右手の薬指でクイとあげながら言った。
「仕事ですからね。若い女性職員相手だと手を出す輩もいますし、ノイローゼの身内が増えるのは私にも嫌です。」
Ｋは、いつもの定型文のリストから一つを選ぶようにして答えた。
「確かに、君が面倒事を引き受けてくれるのは、僕としても有り難いがね。あんまりストレスに強いものだから、僕なんかは君が余程のマゾッホなんじゃないかなんて思ってるよ。」
課長は少しだけ顔を上げてニヤリとした。分厚いレンズに蛍光灯の光が反射して目の表情は窺えない。
「私相手ですからまだ構いませんが、若手やお客様相手にそんな冗談を言うとセクハラになりますからね。気をつけて下さい。」
Ｋは意識的に柔らかい笑みを作って言った。
「おお、そうか。ダメか、どうも僕は冗談が古いらしいな。…君今日はもう上がるんだろう？」
「ええ、お先に失礼します。」
「うん、お疲れ様。」
Ｋが歩き出しても、課長は何事かむにゃむにゃと呟いていた。
Ｋはもう働く自分をさっぱりと洗い流している。大理石張りのお役所をコツコツと革靴で歩きながら、帰ってから何をしようかと静かに思索した。
＊＊＊
ぴたりと直立に戻って、長く細い息を吐く。それから大きく深呼吸を二回。後ろを振り返って時計を見る。いつも通りに[06:25]を示すデジタル表示を一瞥してから、Ｋは次の行程へとストレッチを進めた。
まずは、足の爪先を揃え、両手を合わせて高く掲げる。ローマ数字の“Ⅰ”よろしく、身体は一直線に伸びる。下半身にぐっと力を込め、姿勢を安定させてから、上半身を前後にしならせる。腹筋と背筋を中心に、上半身が伸びて柔らかくなるように意識する。先に飲んで置いた酢が身体に廻って組織をゴムのように作り替えるような妄想をしながら、ぐねぐねと前後に揺れた。前後に振って1回として、10回が基本である。
10終わったら、揺れた身体を直立に止める。そして、息を吐きながら両手をするりと下ろす。肩から順に、長い息を吐きながら全身の力を最低限まで抜いていく。脱力、そして脱力である。力が抜けきったら頭の中でうなぎを想像して、また深呼吸。ゆっくりと二、三度吸って吐いてを繰り返したら、肺の中に充ち満ちた空気を一瞬止めて、一気に吐き出しながら上体を折り曲げる。余裕を残したままに、指先がしっかりと床を撫でたら、そこで一時停止。それから、ぬるりと引き上げるように直立に戻る。身体を楽にしたまま、今度は上体を後ろへそらして、再び前に折り曲げる。これは少しずつ曲げの度合いを上げながら5回ほど入念に繰り返す。最後の五回目は、足先を掌でぎゅっと握り込んだまま停止して10秒。
Ｋの動きは随分と慣れたものだった。家のベッドで目覚めた朝には決まって行う柔軟体操は、この数ヶ月ずっと続けている習慣だ。脱力を確かめるように、上半身を左右に振りながら、再び時計を確認する。時刻は現在[6:32]、普段より1分早いなと思ったところで、デジタル数字が切り替わる。
「よし」
Kは腰を下ろし、最後の行程へと移ることを決めた。毛足の長いラグに、両足を伸ばして沈める。Lのような姿勢で深呼吸をした。
＊＊＊
カーテンが閉められた部屋の中を、薄橙の光と、くぐもったうめき声が満たす。
床には、黒いエナメル質のマットが敷かれ、いつもの茶色のラグは取り払われている。ＫはYシャツ姿でベッドに座って、淀んだ目で床に伏せた裸の女を見つめていた。時折、右手に持ったグラスを傾けて、琥珀色の液体を喉へと流し込んでため息を吐いたりしている。
男の落ち着きと対照的に、四つん這いに床に伏せた女の息は荒く、時折身体をびくりと震わせていた。緩くウェーブした茶髪はめちゃくちゃに乱れており、やや肉付きの良い背中には青い痣が二つ。足首と手首には黒革のベルトが巻かれ、自由を奪われた身体はうねるようにしか動かない。目元には黒い布が巻かれ表情は窺えないが、Ｋには手に取るように分かった。口元にリング上の口枷が噛まされているせいだろうか。女が喋る事はなく、ただ荒い息と、それからうめき声に似た苦しげな嬌声が、自制の許されない唾液と共に床に零れる。
マゾヒズムの象徴のような女に何かするでもなく、Ｋはただ酒を飲んでいた。この女の息づかいは耳馴染みが良いなと、Kが考えるのはそのくらいだった。
その時、Ｋの足につっと何かが零れる。彼はそれを確認するために、足の上に覆い被さった女の顔を足でどかした。Ｋの足の甲から、どろっとした唾液が、床につうと垂れていった。
Ｋはその足で、器用に女の顎を掴んで上を向かせるとアイマスクをじっと睨んで、「汚い」と言い捨てる。アイマスク越しの怯えた目を想像すると、Kには少しだけ楽しい気持ちがした。女の顎に添えた足を、頬をなぞるように丁寧に離す。そして、一息に女の頭を踏みつけた。
被虐癖の女も手慣れたものである。口枷に自由を奪われてまごつく口で、必死に謝罪の言葉を繰り返している。「ごめんなさい」と言いたいのであろうその声は部屋に低く響いた。
Ｋは想像する、目の前の女が昼間普通に働いている姿を。きりりとしたメイクで、落ち着いた服を纏って、整えた髪を揺らして。真面目な女と、目の前の踏まれて鳴いている女を二重写しに見ている内に、Ｋの身体には血が廻っていくのが感じられた。
Ｋはおもむろに足を外し、わざと音を立ててグラスを置いてから立ちあがった。女から少し距離を置いて周囲を歩き、女の顔が足音を追って動くのを楽しむ。それから、やっと女の横で立ち止まると、四つん這いの女の腹を足の甲で押すようにして、仰向けに転がした。Ｋはもう、自身の顔が破顔している事を取り繕おうともしない。女の下腹を踵で押すと、腰が跳ねる。それからKは、自分の右足の裏を女のぬらぬらした性器にこすりつけるようにして汚した。
Ｋは何度も何度も繰り返し見てしまう好きな映画のワンシーンが、目前に迫ったような気持ちでいた。何が起きるかも、それがどの程度の感動でどの程度の昂奮かも、既に知っているのに、惰性にも似た行為だと言うのに、それでも心が動いてしまう。Ｋは女の体液で汚れた右足を、じっくりとその味を楽しむかのように女の顔に沈めた。
「…ああ……」
夜の住宅街を、淡いブラウンの軽自動車が走り行く。
「Ｋくんって、相変わらず歪んでるよね。」
女は助手席で楽しげに笑った。
「でも君、歪んでる僕の事好きだろ？」
Ｋは顔の左側だけで笑った。それから、ルームミラーに映った自分の右目があまりに冷ややかな事を見て嫌な気持ちになった。
「まあ、それはそうだけどさ。…Ｋくんがそんな風にＳになったのって何かキッカケとかあったの？そういえば聞いたことなかったよね？」
女の言葉に、Ｋは寒気がした。その日は何か疲れていたのかもしれない、丁寧な彼らしからぬ怠惰があった。
「ううん、…なんだろうね。何って言えるほど目立った記憶はないかもな」
「案外、心の底ではドＭなんじゃない？」
女は自分で言ってからゲラゲラと笑った。Ｋはそっと、頭の中で今連絡がつく女の数を数え始めた。
「君が僕を踏んでくれるのかい？」
「ううん、Ｋくん私に踏まれて喜んでる顔が想像出来ないなあ、見てみたい気持ちはあるけど。」
赤信号が進行を止めた。Ｋは固いブレーキペダルを踏みつけた。まだアクセルの方が感触がいいな。青信号を待った。
無言の内に、ヘッドライトの先の景色が住宅街に変わった。もうじき女の暮らすアパートに着く。これで今夜の遊びは終わりだ。薄ら寒い会話に辟易していたＫは安堵した。
「…Ｋくん、自分で自分の顔踏んだらどんな顔するんだろ」
アパートの前に停車すると、女がぽつりと呟いた。
「ほら、着いたよ。」
Ｋは彼女に降車を促した。路上に雑に停めた車を早く動かしたい気持ちもあった。
女は鞄を抱えて車を降りると、窓ガラスの外からこちらに手を振った。先程まで眺めていた歪んだ顔はあんなに愛らしかったのに、笑顔の彼女が耐えがたいほど醜いのは何故だろうか。Kは表情筋にその日最後の努力を命じて、軽く手を振ってから車を発進させた。
静かな町を一人車で帰りながら、Kはその日踏んだ女の感触を思い出そうとしていた。行為中、昂奮と陶酔から軽いトランス状態に入っているために、すぐに思い返しておかないと何一つ覚えていられない。
しかしその夜に限っては、何度思い出しても頭の中で自分に踏まれている顔が自分になってしまった。「自分で自分の顔踏んだらどんな顔するんだろう。」女の言葉が頭を過ぎる。振り払おうとする度、意識して上書きしようとする度、自らの足を沈める顔が自分のものに変わっていく。ああ、けれど不思議なほどに足が大きい。
Kはその夜夢を見た。夢の中でもやっぱり、自分の顔をした何かが床に横たわってこちらを見ていた。背後の女が囁く「自分で自分の顔踏んだらどんな顔するんだろう。」そんなに見たいなら見せてやれば良い。見せてやるさ、僕がどんな顔をするか確かめれば君は、いや…納得するんだろう。
ほら踏むぞ、あの顔だろ。見馴れたあの顔だ。右足を高く掲げて、しかしそれを一息に下ろすのは躊躇われて。背中に汗が伝う。少しずつ下ろされる足が、まるでレンズを通したように拡大される。待ってくれ、僕の足はこんなに大きくないのに、何故だ。足が大きすぎる。これでは…、
寝汗にまみれて目を覚ますと、時計は[05:32]を示していた。
「僕が僕を踏んだら、僕はどんな顔をするのだろうか。」Kはシャワーを浴びながらも、そう考えずにはいられなくなっていた。
＊＊＊
Kは腰を下ろし、最後の行程へと移ることを決めた。毛足の長いラグに、両足を伸ばして沈める。Lのような姿勢で深呼吸をした。
両足を左右に広げていく。正面から見たらそれなりに面白い絵面だろうなと考えつつ、大凡160度ほど。180度直線まで拡大する意識を持ちながら、筋という筋が悲鳴を上げるまで押し広げてから、ゆっくりと上体を床に這わせるように伸ばす。この辺りから、ストレッチは苦痛を帯びる。吐く息にもうめき声が混ざる。ぎりぎりまで伸ばしたら5秒静止してから元のL字の座り位置まで逆再生の如く戻ってくる。これは3セット。他のメニューに比して数は減らす代わりに一回ずつ限界を更新するよう意識して行う。
三度目の開脚は、閉じずにそのまま次の動作に移る。上半身を捻るようにして、左右の足に沿わせて横へ倒す。脇腹の筋はここまでほとんど伸ばしていない。ある程度の弾性を感じられるまでじっくりと力をかける。長さは指定をせず、左右５回ずつ。
こうして、準備が整った。立ちあがって、軽く跳ねながら身体の柔軟性を確認する。全身で跳ね、着地の振動で全身が連動して震える事を確認する。「よし」時刻は[06:43]、問題ない。壁際に寄せてある幅の広い姿見の角度を整え、再びラグに座った。
釈迦の涅槃よろしく横向きに寝転んで、自身の顔が鏡に映っているのを確認してから、深呼吸を繰り返した。Kは、自分の体が蛇のように自由にうねって、自身の制御を離れる状態をイメージする。
「僕が僕を踏んだら、僕はどんな顔をするのだろうか。」
太い息と共に最後の脱力をして、足をぐっと捻り込む。顔に向けて迫ってくる足裏。鏡の中には今にも踏まれようとしているKの顔。
…しかし、すんでの所で彼の股関節が限界を伝えた。落ち着いて一つ呼吸をしてからもう一度力をかけてみるが、足の位置は変わらない。Kは一つ舌打ちをした。両手を使ってぐいと足を引き寄せると、確かにその足裏は自身の頬に触れることも出来た。しかし、鏡の中の顔が「そう言うことじゃないんだよ」と無言の内に訴えていた。
Kは立ちあがった。まだ出勤には少し時間があることを確認してから、汚れたキャンバスの前に座った。綺麗に洗われたイタチ毛の筆で水を取り、パレットの上で赤を溶かした。水彩を選んだ事には、Kは自室が油の匂いに染まることが許せなかったのである。
絵の具をこねながら、Kはキャンバスの顔と見つめ合った。笑顔とも泣き顔とも取れる幸福そうな自分の顔を睨み付ける。Kは絵の具を薄く載せた筆で、自画像の頬を優しく撫でた。一定の勢いは保ったまま、その勢いも丁寧に制御しながら、繊細に繊細に無軌道な線を描く。K以外には、乱雑としか見えないような線を、大切に走らせた。水を多く含んだ赤は載ったそばからぼんやりと滲んでいった。「この顔も違うな。」
ほんの二、三赤い線を加えただけで、Kは筆を持って席を立った。
「自分で自分の顔踏んだらどんな顔するんだろう。」
そう言われたあの夜から、Kは毎朝同じことを繰り返していた。だって彼は、丁寧で真面目な男だったんだ。
