2.教育
「──はっ?」
思わず尋ねた理乃を見返し、康太は顎に手を当てた。真面目そのものの声で続ける。
「今から頑張って一年半、上手くすりゃ俺の卒業までに出産までこぎつけられる。お前は留年か休学か……下手すりゃ退学になっちまうが、それが一番手っ取り早い」
「まっ、まって、待ってください、言ってる意味がわかりません‼」
背中をのけぞらせた理乃に、康太は器用に片眉を上げた。
「意味って、そのまんまだよ。子供作って輿入れすれば、もうこっちには来られないだろ? そんなに卒業証書が欲しいか?」
「いやいやいや、そうじゃなくて──盛大に話がズレてます! 卒業がどうのってことじゃなくて、なんで子供の話になるんです!?」
理乃が必死で話をもどすと康太は深くため息をついた。
「そうか。やっぱり無理だよな。そううまく行くとも限らないし……。これならヤツの首も飛ぶからちょうどいいと思ったんだが」
理乃がぽかんとしていると、ミニテーブルから体を離して康太はラグに寝転がった。妙に親父くさい格好でテレビのニュース番組を見ている。
理乃は心底困惑した。冷めたナポリタンはぱさぱさするからとっとと食べてしまいたいが、どうにもそんな雰囲気ではない。何から尋ねていいのやらと口を開きかねていると、背後に置いたトートバッグからスマホの着信音が聞こえた。片肘をついた姿勢の康太がふてくされた声でうながして来る。
「……クロトンだろ。出ろよ」
理乃は戸惑い、康太を見返した。一応王女の理乃のもとには、毎日決まった時間に祖国の教育係から電話が来る。それはソリダゴの王太子であるミナヅキの婚約者となった今も、相変わらず引き続いている。康太はそれが気に入らないらしく、「ガキじゃないんだし、干渉しすぎだろ」と事あるごとにグチグチ言うのだ。
──でも、あっちからの目が厳しくなるのは当然の事だと思うけど。
理乃は康太とつきあうまでの結構過激ないきさつに、内心自分の肩をすくめた。
いくら両想いだったとはいえ、あの時の彼の行動はただ強引の一言に尽きる。一歩間違えれば警察沙汰だし、あっちの世界の常識で言うなら、康太が一般市民なら──この言い回しが合っているのか、理乃には今一つよくわからないが──王都市中を引き回しの上、ハリツケ獄門の刑だろう。
「ほら。出ないのか?」
しかし、今日は何だかしつこく電話に出るよう言って来る。さすがに腹にすえかねて、理乃はそばにあるビーズクッションを無言のままに引き寄せた。うるさく震えるバッグの上にどんとクッションを乗せてやる。
びっくりしている様子の彼へ理乃は改めて向き直った。やや低い響きで問いかける。
「一体何があったんですか。言ってくれなきゃわかりません」
本気で怒った言葉を出すと、康太がラグから起き上がった。少々動揺した顔で理乃の表情をうかがっている。どうやら怒りが本物らしいと康太も理解したらしく、きちんとラグに座り直した。その広い肩をしょんぼり落とし、ぼそぼそとつぶやき始める。
「和斗に聞いた」
「何をです?」
理乃は軽く腕組みをして(本当は淑女がこんな偉そうな態度を取ってはいけないが)、言葉の続きをうながした。康太は大きく息をつき、やっと腹の内を語り出した。
「お前と、教育係の話。教育係ってことだけど、本当は婚約者扱いだったって? ……それ聞いて結構ムカついて。で、その後今までのことを思い出して、今度はちょっとへこみ始めて──初めは俺が無理やり……だったこともあったし、だとしたらお前、本当は……」
「なんだ、そんなことですか」
理乃が拍子抜けして答えると、康太は明らかにむっとした。
「そんなことって、お前」
「いいえ、そんなことですよ」
理乃がきっぱり言い切ると、康太は呆気に取られたように理乃の表情を見返した。
理乃は静かに言葉を続けた。
「確かに周囲の話から、クロトンが私の夫候補に選ばれていたことは知っていました。ですがあくまで候補の一人で、彼に決まったわけではありません。……以前伝えたはずですよ? 私の結婚は国策であり、私が選ぶものではないと。向こうの世界で私自身が言い交わした者はおりません。ですから、私は言ったんです。まさか自分が好きな相手と結婚できるとは思いませんでした、って」
真摯なまなざしを向けると、動揺を浮かべた康太の顔が次第にゆるんで行くのが見えた。理乃はここぞとばかりににこっと微笑みを浮かべ、彼に告げた。
「私は先輩のことが好きです。もちろん、それはあなたがソリダゴの王太子だとわかる前からです。──これでわかってくださいましたか?」
「先輩じゃなくて、康太だろ」
つぶやくように伝えられ、理乃は笑顔を照れ笑いに変えた。今まで何度も彼に名前で呼ぶように言われているのだが、どうにも後輩気分が抜けずにちょっとばかり照れくさいのだ。
「えー……こ、康太さん? でいいですか」
おずおずと理乃が名前を呼ぶと、心底あきれた目をされた。
「そんな名前の呼び方があるかよ」
そう言いつつも、彼の体が次第に理乃へと寄って来る。真面目な顔が前に迫って、理乃は一瞬テーブル上の冷めてしまった食事を思った。
──私、まだ食べ終わってないんだけど……。まあいいか。ダイエットだと思えば。
ちらりと考え、目を閉じる。彼の気配が近づいて、今まさに唇が重なろうとした時──
ピンポンと玄関チャイムが鳴って二人の動きが固まった。
*
──誰だ。和斗? いや違う。あいつなら、今の状況を十分理解してるはずだ。
玄関チャイムに甘い空気を木っ端微塵にされた後、康太は一瞬考えた。警戒感が一気に高まり、全身の筋肉が緊張を帯びる。
「こ……こうた、さん?」
戸惑う理乃のつぶやきに、康太は低く言葉を返した。
「静かに」
いつもと違う雰囲気を彼女も悟ったのだろう、理乃はそれきり押し黙った。
理乃を背中でかばいつつ、康太は玄関口を見すえた。祖国における自身の地位は一応安定しているが、王太子である自分を狙う者がいないわけではない。婚約者側の情報も未知数だ。
だが、そんな緊迫した空気はのほほんとした声で四散した。インターホンから流れ出す、耳に聞き慣れた和斗の声音。
「殿下、お取込み中の所すみません。とりあえず今、服着てますか?」
がくりと肩を落とした康太はその場に突っ伏しそうになった。だが、その後に続いた言葉に自身の頬を引きしめる。
「ゴールデンスティック国王陛下より殿下への御親書をたずさえて、クロトン・オクラレウカ伯爵殿がお部屋の前でお待ちです。殿下、お会いになりますか?」
「え」
反応したのは康太ではなく、背後に控えた理乃の方だった。
「なっなんで!? どうして今!? あ、もしかしてさっきの電話……‼」
──やっぱり知らなかったのか。
普段はのんびり気味な彼女の面白いくらいなあわてぶりに、康太は理乃が彼の訪れを知らなかったことを理解した。何だか少しだけほっとして、その場からゆっくり立ち上がる。インターホンで和斗の顔ともう一人の姿を確認し、アパートのドアを開いてやった。
確かに見覚えのある男が、落ち着き払った表情で臣下と並んで立っている。男は一歩前へ出ると、声も高らかに言い放った。
「ミナヅキ殿下。この度、無事にリューココリーネ様とめでたくご婚約の次第と相成りまして、心よりお喜び申し上げます。此度はゴールデンスティック国王よりミナヅキ殿下への書状をたずさえ、我があるじになり変わり、ご挨拶を申し上げるべく参上いたしました次第です」
壁の薄いアパートの入り口でとうとうと用向きを述べ立てる。
康太は目だけを天井に向けた。どこからツッコんでいいかわからない。さすがに天然ボケの王女をポンコツに仕上げた元凶らしく、全てが豪快にズレている。
──ここは百人も人がいるような謁見の間じゃねえんだよ。
TPOを全くわきまえない他国の貴族の振る舞いに、康太は思わずこめかみを押さえた。改めて教育係を見やる。
自分より幾分年上だろう、真面目くさった表情をした目鼻立ちのすっきりした男だ。仕立ての良さそうなグレーのスーツをかっちりと着こなしている。互いに貴族の衣装をまとって祖国で会った際とは違い、見かけだけはデキるサラリーマンだ。しかし、中身は理乃と同じでポンコツ仕立ての天然らしい。