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1.王宮

 その日、まだ若い国王は朝から不機嫌そのものだった。

 政務の時間に辛うじて執務室へ顔を出したものの、みがき上げられたデスクの上に長い両足を投げ出している。のりの効いたシャツのえりも半分ボタンが外されて、ラフな格好を通り越していた。右手に王の指輪こそなんとかつけているのだが、そのガラの悪すぎる様相はぱっと見ヤクザの若頭である。


「本日は定例会議ののちにシラー祭司長と接見、その後、チース伯爵夫妻を含めた会食になります。午後はディサの離宮において、シキミア領自治区のギルド長と保護貿易の……って聞いてるんですか?」


 侍従を務めるヘリコニア伯が言上をとどめて尋ねると、王はそっぽを向いて答えた。


「……ぜんっぜん聞いてねえ」


 わかりやすくグレた主君の予想通りの反応に、伯は深々とため息をついた。


「いい加減にしてくださいよ。姫とケンカ中だからって、仕事にまでそれを持ち込まないでください。大体陛下が悪いんでしょう? 別に友達と旅行くらい、行ったっていいじゃないですか」


 不機嫌の内情をよく知っている伯にズケズケと突っ込まれ、王はあっさり気色ばんだ。


「よくねえだろ! 休みの時は毎回こっちに来るって期待させといて、大人しくじっと待ってりゃこれだ。最後にあいつと会ってからどれだけたったと思ってんだ‼」

「春休みには会えたでしょう。ゴールデンウィークに来られないくらいでぎゃあぎゃあ言わないでくださいよ」

「『またすぐ来る』って言ったから大人しく帰してやったんだ。なのに旅行で来られないとか、一週間は連絡するなとか──こっちだって隙をみてやっと何とか電話してんのに、人をなんだと思ってんだ‼」


 ばんっと拳を叩きつける。

 整列していた数々のペンが重厚なデスクの上で飛びはね、未決済の書類の山がその場にばらばらと崩れ落ちた。本格的に怒気を帯び始めた王のいらだちを認めると、伯は小さく肩をすくめた。


「陛下のご不満はわかってます。姫のこともそうですけど、最近またちょっと忙しかったから……今夜、ディサでゴット侯主催の晩餐会に出席したら、明日から離宮で三日間オフです。観光地でお休みですよー、湖見ながらゴロゴロできます」

「なんでゴットの屋敷にわざわざご機嫌うかがいに行かなきゃならねえんだ」


 声を低めて尋ねた王に、伯は床に落ちた書類をせっせと拾い上げながら答えた。


「ドラセナ公がいらっしゃるそうです。輸入割当の見直しについてくわしく聞きたいんですよ」


 海千山千の諸侯の思惑に若い王はけっと吐き捨てた。


「俺がどうにか使えるとわかったら、手のひら返したようにこれだ。それこそ即位の前なんて俺なんか見向きもしなかったくせに」

「ドラセナ公に認められるなんて大したことじゃないですか。それに、この話がうまく行ったらゴット侯からご褒美があるかも」


 にこにこ笑って続ける臣下に、王は眉間にしわを寄せた。なでつけられた前髪をかき上げ、広い窓から外を見る。こまかな装飾が施された窓枠の向こうの庭園には、色とりどりの季節の花が見事に咲き乱れていた。外出しないのがもったいないくらいの晴れ渡った青空だ。


「──どうせ休みっつってもなー、外を出歩けるわけじゃなし。結局見る顔も同じだし、せめて……」


 つぶやいた語尾がため息に変わる。

 兄に変わって世継ぎと決まった時から承知はしていたものの、公務は多忙を極めていた。自分が真面目な人間などと一度も思ったことはないが、一旦仕事を引き受けたからには適当な形で終わらせたくない。目の前に積み上がる量の執務を何とかこなしているうちに、あっさり一日が過ぎてしまう。それは盛大な即位の式から季節がめぐっても変わりなく、むしろ目安のついた今こそ重圧で吐き気をもよおしそうだ。

 頭の後ろで腕を組み、座ったままで天井を見上げる。そこに描かれた優美な模様がまるで押し迫って来るようで、思わずまぶたを閉じてしまった。

 そんな主君の憂鬱を認め、ヘリコニア伯が柔らかく告げた。


「やっぱりストレスたまってますよね。とにかく今日の山が終われば、まとまったお休みが取れますから。もうちょっとだけ我慢してください」


 どさり、と王の目の前に拾った書類の束を置く。王は深々と息をつき、広いデスクの上に積まれた書類の山へ手を伸ばした。


     *


「陛下。もう少し愛想よくお話しすることはできません? 今日の態度はどうかと思いますわ。いくら何でもガラが悪すぎます」


 主人の私室に通じる客間──プライベートな人間だけが入れる場所にまで現れた客は、いつものように小生意気に告げた。


「わたしや父は結構ですが、公に対してもあの態度ではそばで見ていてハラハラします。今後の関係にも関わるんでしょ?」


 ドレス姿も愛らしい侯爵令嬢にそう言われ、きつい礼服のえりをゆるめながら王は不機嫌そのもので答えた。


「あっちがナメてかかって来たから先にハッタリかましただけだ。後日改めて丁重に……ってなんでお前、こんなとこまでついて来たんだよ。子供はもう寝る時間だぞ」


 風光明媚な湖畔に建てられたこの小さな宮殿は、別名「水の離宮」とも呼ばれ、今夜宴が催された邸宅からさほど離れていない位置にあった。主を迎えた館の中はいつもより人の気配が多く、夜が深まった今の時刻でもどこか華やいだ雰囲気だった。

 しかし、当の離宮の主人は徹頭徹尾仏頂面で、周囲に人払いを命じた後、館の奥へ引きこもった。横に控えていた伯に持っていた上着を放り投げる。外したボタンも投げ出して、シャツのカフスをめくり上げた。これからヤケ酒の予定なのだ。


「そういや、今日はクマはどうした。また乳母にでも預けて来たのか?」


 彼女が連れて歩いていたぬいぐるみを思い出して聞くと、令嬢は耳まで真っ赤になった。


「失礼な! もうぬいぐるみを持ち歩くような子供じゃありません! ……あの子はお部屋で待ってます。ちゃんとカラテアと留守番してます!」

「やっぱり乳母と一緒じゃねえか」

「ネリネは陛下にとある方を連れて来てくれたんですよ」


 幾分くだけた物言いで、ヘリコニア伯がとりなす。整えられた前髪を王はがしがしとかき上げた。そのまま無作法な格好で来客用のソファに寝転がる。


「勘弁してくれ。冗談じゃない、仕事はさっき終わったはずだぞ。俺はこれから飲み直すんだ、今日の仕事は閉店だ‼」

「一人で飲み直すんですか? いくら何でもお休みなのに、ちょっと寂しくないですか」


 おどけた調子で伯に言われ、王は口元を引き下げた。


「なんだよ、お前帰るのかよ。ヤケ酒くらいつきあえよ」

「嫌ですよ。僕だって久しぶりに妻とゆっくりできるんですから」


 楽しげな伯の返答に、王は眉間にしわを寄せた。彼の有能な妻は現在、自分のプライベートに関わる仕事で他国へ単身赴任中のはずだ。


「え? 今帰って来てるのか? そんな話は聞いてねえぞ。だったらあっちは今誰が──」


 転がっていたソファから起きる。そして、いつの間にか令嬢の脇に控えていた侍女に気がついた。

 地味なドレスと白いカラー、茶色い髪をきちんとまとめた年若い侍女はにっこりと笑った。


「陛下、お久しぶりです。──菜月さんと一週間、内緒でネリネちゃんのお屋敷に二人でお邪魔してました。すごく楽しかったです、いろんな方とお友達になれて」

「姫って結構器用なんですね。行儀見習い扱いですけど、よければまた来てくださいね」

「ぜひお願いします! また一緒にお出かけましょう」


 いかにも親しげな口ぶりで、侍女が令嬢と言葉を交わす。

 王はぽかんと口を開け、目の前に立つ侍女を見つめた。感情豊かな丸い瞳と、愛らしく笑ったピンクの唇。よく知っているその顔は、今は他国に留学している自分の未来の花嫁だった。


「お……おまえ、なんで」


 ぱくぱくと酸欠の金魚のように口を開いて指をさす。ヘリコニア伯が飄々と重ねた。


「だから言ったじゃないですか。ゴット侯からご褒美があるかもって……僕も久しぶりに妻に会えたんで、もうこれで引き取らせてもらいます」


 臣下にあっさり言い切られ、一瞬二の句が継げなくなる。そのすきを見て伯はさっさと帰り支度を整えた。そばの侯爵令嬢を追い立て、広い客間の出口へと向かう。分厚いドアの前で止まると伯は主君に念を押した。


「陛下、後のことはここの人間に全部任せてありますから、三日は連絡しないでください。あ、もちろん妻にもですよ? それじゃすみません、失礼します」


 笑って軽く一礼をする。肩をすくめていた令嬢もその場で優雅にお辞儀して、二人して客間を出て行った。だがそれどころではない王は、突如目の前に現れた婚約者の姿を凝視していた。


「いつ……こっちに」


 座っていたソファに腰かけたまま、やっとのことで声を出す。地味な侍女姿が板についている婚約者はくすくすと笑った。


「だから、一週間前に。旅行に行くって言いましたよね?」

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