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8.最終回 ※

 ひりつくような喉の渇きに理乃はぼんやりと目を開けた。

 ホテルの壁を確認し、先ほど彼の肩ごしに見ていたものだと思い出す。あの後、タガが外れた彼氏の愛情表現につき合わされ、まるで意識を失うような形で眠りについたのだ。かすんだ視界に首を回すと、どうやら眠らなかったらしい彼が隣で微笑んでいた。


「こ……こうたさん」


 乾ききった舌を動かす。康太が口元に笑みを乗せた。


「水、飲むか?」


 これ以上ないほど優しい声で康太が穏やかに聞いて来る。言葉もないままうなずくと、彼の体がいったん離れた。

 まぶたを閉じてしばらく待つ。彼の気配が寄って来て、頬に冷たいものが当たった。冷えたミネラルウォーターのボトルをそっと渡される。

 喉を鳴らしてそれを飲み、少しだけ頭がはっきりする。理乃はかすれ声で尋ねた。


「いま……なんじ、ですか?」


 横に座った彼が笑った。からかうように答えて来る。


「聞かない方がいいんじゃないか?」


 その言葉だけで理乃はあきらめた。

 例え正確な時間を告げられても、すでに体が動かない。どう考えても小テストには到底間に合わないだろう。前回ホテルで過ごした時と全く同じパターンだ。


──あーまたちづるに叱られる……。


 うまく動かない思考回路で友人への言い訳を考えていると、そばに手枕で寝転がった康太が真面目な顔をした。どこか切なげなまなざしを向けて来る。


「今だけだ。こうしてお前とのんびりできるのは」

「……?」


 言葉の意味がわからずに何度かまばたきを繰り返す。改めて彼の表情を探ると、康太は小さくため息をついた。


「来年はあっちの公務があるからこっちには長くいられない。即位の式典の準備込みで、仕事のスケジュールが分刻みだ。式が終われば祝賀使節やら、儀式やらで年越しの予定が組まれてる。女になんかかまけてられるか。……お前が来るまでの二年間、なんとか落ち着かせておかないと」


 思案を巡らせていた様子の彼が、再びちらりと視線をよこす。


「一応見張りはつけておくけど、浮気なんかしたら承知しないからな。卒業式には迎えに行く」


 今までの堅苦しい言葉とは裏腹のすねたような口ぶりに、理乃は思わず吹き出した。全身の筋肉痛に響いて痛い。


「──大丈夫ですよ、康太さん。いつでもあなたを待ってますから。きっと忙しいでしょうけど、私もお忍びで会いに行きます。それまでたくさん甘えてください」


 理乃がくすくす笑って言うと、康太がこいつ、と苦笑いをした。再び彼に抱き寄せられて頬を頬へと寄せられる。甘さを帯びた彼のたれ目がすぐそばに近づいて来て、唇を唇でふさがれた。


──あれ。これはもしかして……。


 康太に唇を奪われたまま理乃は自身の眉根を寄せた。もしかしなくても、彼の目的は明白だった。

 筋肉痛の痛みの中で今日の小テストを気にしつつ、理乃は相変わらずな彼氏の底なしの体力を思い知った。しっかり者の友人に後で叱られることは間違いなかった。


     *


「ドイツ語、来週再テストだって。笑香(えみか)が『インフル? お大事に』って。……ちなみに首筋だけど、えりから赤い跡が見えてる」


 大学内での昼休み、仏頂面の友人にそうさりげなく伝えられ、理乃は一気に赤面した。なごやかなカフェで語られるには恥ずかしすぎる内容に、肩を縮めることしかできない。


「コンシーラーない? じゃ、貸すからトイレ行けば?」

「あ、ありがとう……本当に」


 真冬なのに額に汗を感じる。あきれながらも世話を焼くちづるに心底感謝した。


「それで? ちゃんと彼氏と話せたわけ? その状態じゃ無理っぽいけど」

「……話し合いにはならなかった」


 理乃の答えに、ちづるはあーあ、と大仰なしぐさで首を振った。理乃はあわてて言葉を続けた。


「でも、共通の友達から色々とヒントをもらったから。まずはきちんとルールを作って、節度ある生活を送らせる!」


 昨日康太と別れる前に一応なんとか念を押し、反省の言葉を引き出したのだ。


『束縛してたことは認める。呼びつけたのは悪かった。自立をできるだけ心がける。言われたことは善処する』


 政治家のような返答が少々気になるところだが、とりあえず彼から言質は取った。後は実際に行動に移せるかだ。


「とにかく私次第なんだから。流されないで頑張ってみる」


 改めて右の拳を握り、目の前にいる友人に誓った。

 自分で言うのは照れくさいが、ネリネや周囲も認める通り、彼に愛されていることは確実なのだ。自分が手綱を取れさえすれば立場は上になるはずだ。


──大丈夫。この寵愛を利用して、絶対に手のひらで転がしてみせる。


 固く決意する理乃の姿にちづるは苦笑いして言った。


「まあ、とりあえずやってみれば。なし崩し的に今まで通りにもどらないことを祈ってる。……ほら、もう講義が始まるよ。その前にそれ、隠さないと」


 しっかり者の友人にうながされ、理乃はあわててカフェの席を立った。


     *

 

「ドイツ語、来週こそ再テストを受けないと今年も単位がもらえませんよ。侯から釘を刺されてるんです、来年の予定はてんこ盛りだって。四年で卒業できなかったら即位どころじゃありません。ソリダゴ王家の恥ですからね? 僕の出世にも関わりますからそこんとこよく考えてください」


 一方、康太はいつものラウンジでいつものように説教されていた。一応周囲に気を使い、和斗が声を低めて続ける。


「それから、殿下がサボるのは百歩譲って自己責任ですが、理乃ちゃんにまで付き合わせるのは本当に止めてくださいよ。オクラレウカ伯から直接、僕に苦情が来ましたよ。殿下のせいで姫の勉学に支障が出てるんじゃないかって……あんまり迷惑をこうむるようなら姫の帰国もやむを得ないって。うちの醜聞がダダ漏れになってて恥ずかしかったです、ほんとに」


 くどくど続く臣下の言葉を両耳に指を突っ込んで流す。全く聞く気を持たない主君に、和斗が長々とため息をついた。


「あと、ネリネとゴット侯から改めて礼状が届きました。今ネリネが姫宛てに自分で礼状を書いてるそうです。出来次第姫に渡してくれって……姫との文通を希望してます」

「なんだ、俺には書かないのかよ」


 自国の侯爵令嬢のあからさまな対応の差に苦笑する。和斗もくすりと笑って告げた。


「感謝してるとは思いますよ。──帰り際、『「ご婚約おめでとうございます」と改めて殿下にお伝えください』って、ちょっと恥ずかしそうに言ってましたから。言われた通り、これからは次期当主として勉強に励むそうです。あの負けん気の強いところは昔の殿下に似てますね」


 康太は口元に笑みを浮かべた。


「まさか、この俺がゴットの娘に説教するはめになるとはな。……昔ゴットに俺も全く同じ目にあわされただなんて言えないな」

「殿下がひどすぎたんですよ。あれだけ毎日叱られてたのに全然こりてなかったから」

「お前の時は死にそうなくらいの重傷だって脅されて、ひと月散々説教食らったのに。たったこれだけですませるなんて、あいつも娘には甘いよな」


 思わず肩をすくめると前の和斗が微笑んだ。

 昔、康太が今のネリネと同じくらいの年だった時、遊び相手兼従者だった和斗を自分のいたずらにつきあわせ、結構な怪我をさせたのだ。そのためしばらく謹慎という形で、当時後見役だったゴットの元に預けられた。自由奔放なガキ大将そのものだった第三王子は、堅物で知られるお目付け役に散々お仕置きを食らったのだ。


「俺の時は二度とお前らに会えないって脅しつけられて、毎日毎日長々と反省文を書かされたのに。あれに比べりゃ激甘すぎる」


 康太は再び苦笑した。

 三番目という気楽な身分で、幼い頃から自由な暮らしを好き勝手に楽しんでいた自分。そんなのんきな立場の自分が、まさか二人の兄に変わって国を治めようとは思わなかった。

 急だった次代の入れ替わりは後見役の協力もあり、何とかこなすことができた。だが、本番はこれからだ。国を治めるような器量が見過ごされていた三番目にあるのか、海千山千の諸侯相手にこれから試されるのだ。

 康太は大きく伸びをした。そろそろ午後の講義が始まる。


「あ、そうだ。理乃には言うなよ? 今の話」


 改めて臣下に念を押すと、和斗はくすくす笑って答えた。


「そうですね。これ以上弱みを握られたら、それこそ頭が上がらなくなりますもんね」


 その楽しげな返答に思わず口元を引き下げる。

 どう言い訳を重ねようとも、彼女に勝てないことはわかっている。すでに寵姫にメロメロなのは自他ともに認める限りだが、男のプライドという物がある。

 小さな侯爵令嬢に言われた言葉を思い出し、康太は深く腕組みをした。


──そう簡単に手のひらで転がされてたまるか。


「それと、いいですか? いくら押印で決裁通せるようになったからって、ハンコ預けて僕に『押しとけ』っていうのは認めませんよ。きちんと書類の内容に殿下自身が目を通して──ってちゃんと聞いてるんですか?」


 そんなもん聞いているわけがない。

 康太はラウンジから外を見た。多分、今頃理乃は大学のカフェで友達と一緒だろう。

 小春日和の温かな日差しがラウンジの中に降り注ぐ。康太はのんびり席を立ち、自分のカバンを取り上げた。

 キャンパス内は今日も平和だった。

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