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10.運命

 地獄の底からはい出る響きの怨みのこもった声色に、さらに和斗の目が逃げた。今後、ソリダゴの中枢を担う二人の結構な行き違いを、使者が瞳を細めて見ている。

 康太はしばらく無言のままで臣下へすごんで見せた後、長々とため息を吐き出した。


「もういい、後でお前にはゆっくり話を聞かせてもらう。──で? そっちは結局あいつを連れて帰る気がなくなったのか?」


 康太が何とか気持ちを切り替え、前にいる使者へ話を振ると、帰り支度を始めた彼は口元に軽い笑みを乗せた。


「ええ。とりあえず、本人に帰る気がなさそうですし。それに……」


 不意に真面目な表情を作る。

 康太はわずかに眉尻を上げた。康太の寵姫をスパルタ式でポンコツに教育した彼は、落ち着いた響きで静かに語った。


「どうやら私がいなくても、姫の面倒をみてくださる方が沢山いらっしゃるようですし。……高貴なる方の義務として、私は祖国の礎となる教育を姫に施して来ました。ですが、いずれも彼女の幸福が前提にあっての話です。きっと殿下のもとでなら、姫は幸せになれるでしょう。ご迷惑をおかけしますが後は殿下にお任せします」


 まなざしに柔らかく笑みを含ませ、深々と頭を下げる。


「まだまだ未熟な方ですが、私にとっては可愛い教え子です。どうぞよろしくお願いいたします」


 康太は両目をしばたたかせた。最後に初めて理乃に対する情らしきものを見せた彼に、少々胸を打たれてしまう。冷血漢だと思っていたが、彼も一応王女を思う血の通った人間らしい。


「あ、そうだ。あー、最後に一つだけ、聞きたいことがあるんだが」


 ふとあることを思い出し、康太は席から立ったクロトンにさりげない調子で声をかけた。クロトンがわずかに首をかしげる。


「何でしょうか?」

「えー、そのう……そちらにおける『挨拶』についてだが。その、ごく親しい間柄だと、例え挨拶でも、そのー、王女と……」


 何度も咳払いを交え、遠回しすぎる表現で聞く康太の煮え切らない質問に、和斗があきれて口を挟んだ。


「ああ……挨拶でもハグするとか、キスするとかの話ですか? 殿下、まだ理乃ちゃんの話を気にしちゃってるんですか?」

「うるせえな! 別に気にしてなんかいねえよ! ただちょっと文化の違いってやつを知りたくなっただけなんだよ!」


 むきになって否定する。だが余りに苦しいその弁明に、クロトンがにっこりと笑って答えた。


「私と王女の親しさについてですか? それは愚問というものです。何しろ、彼女のおねしょの始末をしたこともある間柄ですから。……後はご想像にお任せします。それではどうぞお元気で」


 それだけ言ってクロトンはビジネスバッグを手に取った。最後まで余裕の表情を見せて悠々とその場を去って行く。

 康太は頬を引きつらせ、その長身を見送った。ダークスーツの後ろ姿が完全に見えなくなったのを見届け、康太は改めて和斗に向き直った。


「おっまえ……! ふざけんなよ‼ 『まだまだ付け入る隙があるな』って絶対思われたぞあいつに‼」

「すみません……」


 日頃タフさを見せつける従者も、主君に叱られてさすがにしょげる。

 康太は声をひそめて続けた。


「いいか。今後はあいつんとこへうちからのつけ届けを忘れるな。あいつ宛てじゃねえ、あいつの嫁にだ。全部を嫁の好みに合わせて、嫁の方に取り入るんだ。出産祝いも嫁宛てだ──えーと、騎士を射んと欲すればまずはレディファーストだ」

「言葉は全然違いますけど、言いたいことはわかります」


 こそこそ密談を交わした後、康太は唇の端を下げた。


「あとお前、これからひと月禁酒禁煙禁セックスな。菜月にも言っとくから覚えとけ」

「え、そんな。やっと帰って来たのに──」


 心底残念そうな臣下に鼻を鳴らしてとどめを刺す。


「俺だってひと月ほっとかれたんだ。同じ苦しみを思い知れ」

「僕だってひと月ご無沙汰ですよ」


 ぼやく臣下をにらんだ後で、康太はスマホの振動に気づいた。ポケットからスマホを引っ張り出し、菜月のラインに目を通す。だが、そこに記された長文と怒気をはらんだ言葉にたじろいだ。喉をひくつかせ、思わずつぶやく。


「……うわ。二人とも怒ってる……」


 寝込んだ寵姫と次期女官長の本気の怒りを感じ取り、どっと脇から冷汗が出る。

 窮地に置かれた主君の様子をそばで見ていた曲者の臣下が、おごそかな調子の声で語った。


「殿下。大変失礼ですが、やはりあなたの行動は少々がっつきすぎかと思います。今後は今少し自重して、あいつの指示に従ってください。でないとそろそろ叱られるどころじゃすまなくなるかもしれません。──僕が言うのもなんですが、敵に回すと恐ろしいですよ」


 親身になって伝えてくれた臣下の心からの忠告に、今度は深々とうなずいた。


     *


『あれ、私言いませんでしたっけ? あの人すっごい愛妻家なんです。周りの人がドン引きするほど恋人時代から奥さん一筋。……ですから、結婚前は一応夫候補に入ってたんですけど、むしろそういう心配がないから教育係に選ばれたくらいで』


 電話口でくすくすと笑いながら、理乃が楽しげに言葉を継ぐ。


『クロトンが「兄」って名目で一緒に来ることになった時、まあエリカがお姉さんなら──あ、奥さんの名前です──私もいいかなって思ったんですけど。すごい優しいし、美人だし、あの人にはもったいないくらい。幸い赤ちゃんができたんで二人とも来ないことになったんですが、むしろクロトンはこっちでゆっくり子育てがしたかったみたいです。でも、さすがにそれは周りの人達みんなに止められて。それで仕方なくあきらめたんです』

「幸い……なるほど、幸いだな」


 自室で康太は息をつき、祖国の神に感謝した。もしもクロトンが予定通りにこちらの世界へ来ていたら、自分と理乃をへだてる壁は難攻不落だっただろう。

 チョロかったはずのポンコツにこれだけ手間取ったのだから、障壁となる兄までいたら撤退を強いられていたかもしれない。その障壁を取り除いてくれた生まれて来る彼の子供には、国を挙げての祝いの品を盛大に贈らねばならない。

 部屋の三分の一を占めている大きなベッドに寝転がり、康太は再び交渉を試みた。


「……それで、今週の金曜は──」

『ですから。人が呼べる状態なのか、和斗先輩に聞いてみます。先輩のOKが出るまでは康太さんの部屋に入りません』


 つれなく彼女に言葉を返され、再度がっくりと肩を落とす。

 せっかく注文したベッドが届いたのに、いまだに康太は部屋へ彼女を連れ込むことができなかった。狭いアパートに無理やりダブルベッドを入れた弊害で、ただでさえ片付かない部屋はすでにカオスと化していた。家事のスキルを持たない康太がクリアできるようなミッションではない。その上、康太のせいでいまだに禁欲生活が続く和斗が、そんなもののOKを出す訳がない。

 先の因果が巡り巡って自身の元へと帰って来て、康太は深くうなだれた。「運命」と感じた時には末の幸せを確信したが、どうやら導かれた先行きは結構過酷なようだった。

次回から章が変わります。

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