1.告白 ※
「──ですから。私はこの世界の人間じゃないんです」
理乃が切り出した言葉の内容に、康太がぽかんと口を開いた。
「相栄大学英文学部に通う『雪村理乃』とは仮の姿。……実は、私は異世界にあるゴールデンスティック王国の王女、リューココリーネと申します。私の国の王族は自身の見聞を広めるために、身分を隠して一度こちらで生活をすることになっています」
ゆるくパーマがかかった髪を軽く揺らして顔を上げ、真摯な思いで話を続ける。
「先輩の気持ちはうれしいです。ですが……」
そこまで言って、小さくうつむく。
「私には王族としての義務があります。いずれは自分の国へ帰り、祖国の利益となる方に嫁がなければなりません。──自らの義務をないがしろにしておつきあいはできません」
「……」
口を半開きにしていた康太が、ぱくんと音を立てて閉じた。
理乃より二年先輩で、同じ剣道部の部長である康太は、少々口は悪い方だが明るい性格で面倒見も良い。なまじ愛嬌があるせいで普段は三枚目に見られがちだが、実は意外と整った顔が今は大きく引きつっている。
1DKのアパートの中には家主の康太と理乃しかいない。一度、マネージャーである理乃が部活の用事で訪れた際、ちらりと眺めた中の様子はなかなかの散らかりようだった。今はきちんと片付けられて、家具の配置まで変わっている。この日のために模様替えして狭いアパートを片付けたらしい。
理乃はしょんぼり肩を落とした。彼の好意を改めて知り、思いを素直にうれしく感じる。しかしそれに答えられない自分が心底悲しかった。
「まさかこんなことになるなんて、私も思わなかったんです」
ため息をつきそうになりながら、康太と二人で座り込んでいるフローリングの床に視線を落とす。広がる花柄のスカートとカットソーがデート仕様で、選んだ時のうきうきしていた気分が今はむなしく思える。
「康太先輩は優しいし、先輩の気持ちも、何となくだけどわかってました。すごくうれしかったです。だけど……」
「だけど?」
低くつぶやいた康太の声に、理乃はぎくっと目を上げた。いつもは話しやすい彼の雰囲気が危険なものをおびている。
「そんなことまで言い出して来るほど、俺とつきあうのが嫌なのか」
眉間に深くしわを寄せ、康太は口元を引きしめた。剣道の試合の時のような触れれば切れそうな迫力を覚える。ジップアップパーカーを羽織った思ったよりも広い肩が、次第に自分へと近づいて来た。
理乃は思わずのけぞった。
「え、あの、え、せんぱい?」
「じゃあ俺が昨日キスした時も、本当は嫌だったってこと?」
声を落として尋ねられ、理乃はぐっと言葉につまった。昨日片づけを終えた道場で康太と二人きりになった時、今日の予定を彼に聞かれた。自身の立場もわきまえず、胸に秘めていた甘い思いが彼に通じた喜びに、ついつい誘いを受けてしまった。その後、唇をほころばせた康太が念を押すようにキスして来たのだ。
照れた表情で離れた彼にぶっきらぼうな好意を感じ、その場は羞恥と喜びでとっさに言葉が出なかった。だが、本当は昨日の時点できっぱり断るべきだった。
「俺は本当にうれしかったし、今日も一日、すごく楽しかったんだけど」
不機嫌そうに言ったその目がどう見ても不穏な色をしていて、理乃は一瞬たじろいだ。彼の危ない意志を悟り、本能的に自分の背中をアパートの出口へ近づける。
「あ……あああの、そういうわけで。そろそろ私、おいとましないと……。自分の国の教育係に報告をしなくちゃいけない時間で……」
康太のたれ目がちな二重の瞳が、一瞬ぎらりと光って見えた。理乃はごくんと息を飲んだ。あれ。これは、もしや。まさか……。
「今日は帰さないって言ったら?」
──キター‼ やっちゃったよ‼
『そおんなあ。バカな、先輩に限って。だって康太先輩だよ? 私がぐいぐい胸元広げて自分の汗を拭いてたら、それ見ただけで鼻血吹いてたあの康太先輩だよ? そんなので押し倒せるわけが』
『姫、そういう方に限ってキレると見境がなくなるのです。大体今日だっていつの間にやら唇を奪われたなどと、破廉恥な……!』
『あー……。でもほら、それはそっちじゃ半分挨拶みたいなもんでしょ。先輩、私にキスした時にちょっとだけ手が震えてて、普段はわりとオラオラ系なのにむしろそれに萌えたっていうか』
昨夜ケタケタ笑いつつ、教育係のクロトンにスマホで語ったのを思い出す。ベッドの上でお気に入りのぬいぐるみを抱えながら答えると、電話口でクロトンがため息をついた。前髪をきっちり七三に分けた彼のあきれ顔が目に見えるようだ。
『挨拶みたいなもんってあんた……家族か、よほど親しい人間だけでしょう。姫、男はみんなオオカミです。いくら見聞を広めることが今回の目的だとしても、あなたは未婚の王族です。そんな見聞まで広めないでください──っていうかもう見聞どころじゃないでしょう』
『わかったわかった。どうせ卒業までの間だけだし、甘酸っぱい思い出に留めます』
くどくどと続く小言を聞き流し、いつものようにスマホを切る。その後鼻歌交じりで小一時間ファッションショーを開催し、今日の服装を整えたのだ。
「あ……あのー、先輩、話聞いてました? 私、結構真剣にこちらの事情を述べたんですが……」
距離を詰めて来る康太の顔に、理乃は両頬を引きつらせた。
康太は剣呑な笑いを見せた。
「聞いた。だから言ったんだ。『今日は帰さない』って。──本当はまだキスするくらいで終わりにしようと思ってた。だけど、雪村がそういう態度なら話は別だ」
「そ、そういう態度って」
「こっちこそ、さっきの答えを聞いてない。──昨日キスしたのも嫌だった?」
たたみかけるように言いながら、珍しく真剣なまなざしが迫る。まるで酸欠の金魚のごとく口をパクパクさせながら、理乃は下手くそな言い訳を継いだ。
「あー、あれは、その……。私の国では挨拶みたいなものでして……」
ごく親しい間柄の。
理乃がつぶやくその前に、康太の顔が表情を無くした。
「……俺のくにでは挨拶じゃない」
──ああ、奥ゆかしい国ですね。
思った瞬間、唇が柔らかいものにふさがれた。昨日覚えた感触にびっくりして身もだえする。そのまま重いものがのしかかり、どさっと床に倒された。一旦唇を離した後で、理乃を真上から見下ろしながら康太が小さく笑って見せる。
「そうか。だったらこれだって挨拶みたいなもんだよな」
そんな挨拶はありません。
反論を口に出す前に、再び唇を奪われる。康太は結構身長があり、やや細身だが鍛えた体は男性らしい厚みもある。その力の差は歴然で、押さえつけられたら身動きもできない。
実は耳年増なだけで、さして異性に免疫のない理乃はカルチャーショックを受けた。鼻血を出してたうぶな彼とは同一人物と思えない。
──だっ……だまされた!
物言いは雑だが面倒見の良い、体育会系らしい性格と、うぶなしぐさにだまされた。血の気が引いた理乃の耳に、はあっと熱い息を漏らして康太がダメ押しの言葉を放つ。
「すっげえ久しぶりだから、余裕がなくて優しくできないかもだけど。別にいいよな、挨拶なんだし」
──い、いま、せんぱい、なんていった?
「よよよよくない! ってか久しぶり!?」
目の前にある康太の顔に思わず突っこんでしまった。康太がわずかに身を起こし、心外そうな視線をよこす。
「……んだよ、童貞だとでも思ったか」
──だまされた(再)‼
「だって先輩、キスした時に手が震えてたじゃないですか! 大体鼻血吹いてる時点でどう考えても未経験だと──」
ずばずば突っこむ理乃の言葉に康太の頬が赤くなった。次の瞬間、こめかみに青筋を立てて低くつぶやく。
「くっそ……馬鹿にしやがって。ならこうだっ‼」
物騒な言葉と同時にしゅるっとチノパンのベルトが引き抜かれる。理乃の両手が上に回され、ベルトで手首を拘束された。あっと言う間にベッドの足にべルトのはしが縛りつけられる。
理乃が呆気に取られていると、どこか切なげな表情で康太がのしかかって来た。ただでさえ身動きが取れない上に腕を頭上で固定され、もう逃走は絶望的だ。
──この手際の良さはそういう趣味が!?
動揺しながらおののくと、再び厚い胸板に力強く抱きしめられた。耳の後ろで息を吐く彼の短い呼吸が聞こえる。
「うわあっ、ちょっとっ‼」
頬を頬へとすり寄せられて、びくっと肩に力が入る。首筋に当たる彼の呼吸に思わず唇を噛みしめた。
「──いい反応だな。やっぱ初めてじゃなかったのか」
ぼそっと言われ、康太を見る。
少しだけ顔を離した彼はどこかほの暗い表情で笑った。
「なんだ、結局舞い上がってた俺の方が馬鹿みたいじゃねーか。半年なんて眺めてないで、とっととやっちまえばよかった」
抱きしめていた彼の手が離れ、足元のスカートによって来る。
──うわっ、まずい! 今度こそまずい‼
理乃は今までで一番あわて、バタバタ足を動かした。
「まっ、まった‼ 待ってください──、今日のパンツは可愛くないんです‼」
絶叫にも似た理乃の訴えに、康太が再度ぽかんとした。