◎6
伯母に連れられて応接室を出たシャノンは、困惑したまま自室に戻った。レースの縁飾りと春の花の造花をあしらった外出用のストロー製カポートを被り、顎の下でリボンを結ぶ。レティキュールの中身を確かめて廊下に出ると、ちらりと奥の部屋に目を向けた。
生真面目なレティは、毎日山のように届けられる贈り物や恋文にきちんと手紙で断りを入れていた。今も自室でペンを走らせているはずで、シャノンに客が来たことなんて、きっと知らされてもいない。
アーデン卿と出掛けることを伝えておくべきかもしれない。ふとそんな考えが頭をよぎったけれど、シャノンは小さく首を振り、足早に階段を降りた。
テラスハウスの外に出ると、階段を降りた先の通りに二頭立ての屋根付き二輪馬車が停まっていた。馬はどちらも美しい鹿毛で、艶やかな黒塗りの馬車にはぴかぴかの大きな車輪が付いていた。アーデン卿は彼の従者と馬車の側で何やら話をしていたものの、呆然とテラスに立つシャノンに気が付くと、帽子の鍔に手を掛けて微かに頭を傾げてみせた。
玄関前で見送りに立っていた伯母が、シャノンのカポートのリボンを直しながら言った。
「なんて素敵な馬車でしょう。くれぐれも失礼のないようにするんですよ」
上機嫌の伯母にぎこちなく笑ってみせると、シャノンはちょっぴり緊張しながら階段を降りた。
アーデン卿は相変わらず完璧な紳士として振舞っていた。礼儀正しくシャノンの手を取り、馬車の座席に導いて、自身は軽々と隣の御者席に着き、鞭と手綱を取った。シャノンのドレスはクリノリンでスカートを膨らませてあったので、二人乗りの狭い座席はスカートでぎゅうぎゅうになってしまった。けれど、彼はこれと言って嫌な顔をすることもなく、まっすぐ前を向いたまま馬の尻を軽く打った。
馬車は軽やかに走り出し、賑やかな街の通りを駆け抜けた。通り過ぎていく華やかな街並みに、シャノンは夢中で目を凝らした。頬に吹きつける風は涼やかで心地良く、全身を強張らせていた緊張感もいつのまにか和らいでいった。
シャノンはこれまでに何度か夜会に出掛けたことがあったけれど、このように陽が高いうちから馬車で街に出たのは初めてだった。父が今シーズンのために借りた馬車は箱型の四輪馬車だったので、実を言うとカブリオレに乗ったのもこれが初めてのことだった。
閑静な住宅街を通り抜けて、王立公園の青々とした樹々が影を落とす通りに出ると、アーデン卿は馬車の速度を落とし、脇道に入って馬車を停めた。あたりに人影はなく、時折り鳥のさえずりが聞こえてくる。
アーデン卿が「ふう」と息を吐いたので、夢見心地だったシャノンの意識は瞬く間に現実に引き戻された。アーデン卿の珈琲色の瞳が、ちらりとシャノンに向けられた。途端に心臓が激しく胸を打ち、喉が渇いてからからになる。身体が反射的に後退ろうとしたものの、座席に広がったスカートに埋もれてしまい、ろくに身動きが取れなかった。
なんて浅はかだったのだろう。シャノンは自分の愚かさを呪った。昨夜この男に襲われたばかりだというのに、まだ陽が高い時間だからといって、どこか安心してしまっていた。このような人気のない場所に、まんまと連れ込まれてしまうなんて。
「ここで降りるの……?」
シャノンは精いっぱい平静を装って、掠れた声で彼に尋ねた。爪先からぞわぞわと恐怖が這いあがり、身体じゅうが縮みあがっていた。
「いや」アーデン卿はくすりと笑うと、軽く首を振ってみせた。「話があると言っただろう?」
「話って……?」
ごくりと喉が音をたてる。シャノンは乾いた唇を無意識に舌で舐めて湿らせた。彼はぴくりと片方の眉を動かすと、酷く真剣な表情で話しはじめた。
「遠回しな言い方は好きじゃないから単刀直入に言わせてもらう。実はあのあと、非常にまずいことになってね。庭園でぼくらを見ていた者がいて、そいつがぼくを強請りにきた」
彼は小さく息を吐き、それから一言付け加えた。
「今、きみはぼくの婚約者ということになっている」
シャノンは言葉を失った。あまりにも突拍子がなく理不尽な話に、開いた口が塞がらない。
「そんな……勝手すぎるわ!」
「ああ、そうだな。いいから話を聞いてくれ」
非難めいたシャノンの声を片手で軽くあしらって、アーデン卿は投げやりに続けた。
「まず、きみもすでに承知のように、あの夜ぼくが手に入れたかったのはきみじゃない。ミス・ヴァイオレットだ。夜会のたびに彼女を探していたから、彼女がラーズクリフに惹かれていることは知っていた。すべてにおいてラーズクリフに劣るぼくが彼を出し抜いて彼女を手に入れるには、ああする他ないと思っていた。その結果こんなことになってしまって、きみにはすまないことをしたと思ってる。今回の件に関しては、ぼくが全ての責任を取るつもりでいるし、きみが望むなら結婚以外の方法で償うことも考えている。だが——」
彼はそこで一旦言葉を止めて、じっくりと言い聞かせるように、落ち着いた口調でシャノンに告げた。
「敢えて言わせてもらう。きみはぼくと結婚したほうがいい。そうするべきだ」
彼の瞳は煮詰めた珈琲のように真っ黒で、シャノンにはその瞳の奥に隠された真意を読み解くことができなかった。シャノンが返事をできずにいると、彼はさらに続けて言った。
「ぼくがきみを婚約者に仕立てあげた理由はひとつ。きみの評判が傷付けば、当然きみの家族であるミス・ヴァイオレットの評判にも傷が付く。噂はそのうち落ち着くだろうが、シーズン中に良い結婚相手をみつけられる可能性は絶望的になる。そうなってしまっては、きみも困るんじゃないか?」
シャノンはうつむいて、きゅっと唇を引き結んだ。
彼の言うとおりだった。シャノンにとって何よりも大切なのは、レティがこのシーズン中に望みどおりの相手と幸せな結婚をすることだ。シャノンの存在が彼女の足枷になることは許されない。レティがそれを許しても、シャノン自身が許せない。
「ミス・シャノン、不本意だろうが、ぼくと結婚してほしい」アーデン卿が言った。「後継ぎを産む責任を押し付けたりしない。愛人をつくっても構わない。必要ならきみの家を買って、そこで暮らしてもらっても良い。決して不自由はさせないと誓うよ」
彼の言葉はとても真摯で、シャノンを酷く困惑させた。
「どうしてそこまで譲歩するの? 私と結婚しても、あなたが得することは何もないのに」
「そのとおり。だが、きみがぼくと結婚すれば、ミス・ヴァイオレットの評判は傷付かずにすむ」
彼の答えは単純で、清々しいほどに明快だった。彼は、決して手に入れられない愛するものを守るために、シャノンに犠牲になれと言っている。そして何より悲惨なのは、彼の望むものが完璧なまでにシャノンの望むものと一致していることだった。
「……レティのことが好きなのね」
「結婚してほしいと思っていたよ」
自虐めいたつぶやきを洩らし、彼は寂しげに微笑んだ。シャノンは膝の上でドレスを握り、祈るように瞼を伏せた。
どのみち、選択肢はひとつしかない。あのときから——悪魔のように残酷なこの男に唇を奪われてしまったあの瞬間から、シャノンの運命は定められてしまっていたのだ。
「アーデン卿、あなたの求婚をお受けしますわ」
囁くようにそう告げて、シャノンは顔をあげた。アーデン卿の珈琲色の瞳に映る自分自身に言い聞かせる。
「でも誤解して欲しくないの。私は昨夜の醜聞を隠すためにあなたと結婚するわけではないわ。あなたと結婚すれば、私は未来のプラムウェル伯爵夫人になるのでしょう? そうなれば、レティは父のくだらない見栄のために爵位や財産目当ての愛のない結婚をする必要がなくなるわ。自由に恋をして、本当に愛し合える人と結婚することができるのよ」
シャノンがにっこり微笑むと、アーデン卿は「それはよかった」と言って、皮肉に口の端を釣り上げた。そうして彼は手綱を握り、馬の尻に向けて軽く鞭を振るった。
馬車が一度大きく揺れて、ゆっくりと動き出す。まっすぐに道の先を見据えたまま、まるで世間話でもするかのように彼が言った。
「週末のタイムズに婚約発表の記事を載せる。悪い噂の拡散はそれで抑えられるはずだ。式は出来る限り早く執り行ったほうがいい。情熱的な恋の末の結婚なのだと印象付けることができるからね。準備はすべてぼくに任せてくれ」
「随分と手際がいいのね」
呆れたようにシャノンが言うと、彼は相変わらずの皮肉な笑顔で応えた。
「花嫁が別人になっただけで、元々こうする予定だったからね」




