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◎3

 乾いた破裂音が蒼ざめた庭園に響き渡る。シャノンは大きく目を見開いたまま、微動だにできずにいた。

 頭の中はパニックだった。あのレティが、誰よりも美しく、いつも貴婦人然としていた姉が、よりにもよって憧れのラーズクリフ伯爵の目の前で、貴婦人にあるまじき狂行に及んでしまったのだから。そしてその目に余る狂行の原因は間違いなくシャノン自身なのだから。

「もう大丈夫よシャノン。一緒に帰りましょう」

 呆然と目を瞬かせるシャノンをそっと抱き起こし、レティが耳元で囁いた。彼女はシャノンの背中のボタンを手早く留めて、宥めるように背中を撫でた。まだ膝が震えていたけれど、シャノンは促されるままに立ち上がった。レティに導かれ、庭園の小道を歩き出す。後ろは振り返らなかった。自分を襲った男の姿なんて怖くて目にしたくなかったし、きっと呆れているに違いないラーズクリフ伯爵の顔なんて、レティに申し訳なくて見られなかった。レティもまた、後ろを振り返ることはしなかった。彼女の目はまっすぐに、あたたかな光があふれる硝子張りのホールを捉えていた。

 ふたりがゆっくりと歩き出したとき、ベルベットのようになめらかな低音が庭園を満たしていた静寂を破った。

「待ちなさい」ラーズクリフ伯爵がふたりの前に回り込んで言った。「そのように乱れた姿のままでホールに戻らせるわけにはいかない」

 レティがぴたりと歩みを止め、はっと我に返ったように振り向いた。彼女はすばやくシャノンの全身に視線をすべらせた。東屋のベンチの上で仰向けに寝たまま暴れたせいで、美しくまとめてあったシャノンの髪はくしゃくしゃにほつれていた。ドレスのひだもしわくちゃで、とても見られたものではない。

 ラーズクリフ伯爵は夜会服の上着をすばやく脱ぐと、その上着でシャノンの肩を包み込んだ。

「裏口に馬車を回そう。貴女方は屋敷には戻らずに庭園を抜けて門に向かうといい」

「ご親切にありがとうございます。そうさせていただきますわ」

 レティは礼儀正しく微笑むと、シャノンの肩に優しく触れて、屋敷の裏手に向かって歩きだした。

「待ってくれ」

 しゃがれた声が妙にはっきりと耳に届いた。ラーズクリフ伯爵のものとは違う、少しざらついた印象の男の声だ。振り返ると、射竦めるような男の視線がシャノンに向けられていた。うつむきがちなその顔の眉間に不機嫌に皺が寄っているのが窺える。

「彼女と話がしたい」

 苛立たしげにそう言うと、彼は東屋から一歩踏み出して、数歩ぶん離れた位置でシャノンに向き合った。

 ぞくりと肌が粟立って、シャノンは咄嗟に首を振った。レティがすぐさまその意を汲んで、シャノンの代わりに男に告げた。

「ご心配なさらなくても、このことを無闇に口外したりはしませんわ。妹の名誉のために」

 レティとシャノンを見比べて、男が投げやりに笑う。

「きみたちがそうしなくとも、噂がたつ可能性があるとは考えないのか? ぼくたちの他に庭園に誰かがいたとしたら?」

「まさか……」

 レティがはっと息を飲む。

「いなかったとは言い切れない。ぼくは隠れるつもりなんてなかったからね。誰かに見られていたほうが都合が良いとさえ思っていたよ。相手を間違えたことに気付くまでは」

「相手は彼女のはずだった。そう言いたいのか、アーデン?」

 ラーズクリフ伯爵が憤りの滲む声で言った。一度レティを視線で指し示して、問い質すような視線をアーデンに向ける。おそらく図星だったのだろう、アーデンが低く唸った。

「きみの行動の是非は問うまでもない。だが、実際に名誉を傷付けてしまった以上、きみは誇りある紳士として相応の責任を取らなければならない」

 伯爵が冷静に告げる。シャノンが首を傾げる間もなくレティが訝しむようにつぶやいた。

「責任ですって……?」

「結婚だよ。今夜にでもアーデンに、きみの妹との結婚を約束させれば良い。婚約者とならば親密な行為も許されるからね」

 伯爵のその口振りは、自身の提案が正しいものだと信じて疑わないようだった。シャノンは驚愕した。あまりのことに言葉が出てこない。喉が渇いてからからだった。頼りになるのはレティだけだ。

「冗談でしょう?」

「本気だよ。きみはどう思う?」

 改めて返答を求められて、シャノンは震え上がった。おずおずとアーデンの顔色を窺い見て、それからラーズクリフ伯爵を見上げ、やっとの思いで「いやです」と口にした。

「当然だわ。妹はたった今その男に襲われたのよ?」

 吐き捨てるようにそう言うと、レティはシャノンの手を引いて歩き出した。アーデンの鋭い舌打ちが聞こえて、同時にレティの身体が後方に引かれた。

「待つんだ」

 凄味の効いた低い声が冷たい空気を震わせる。見ると、白い手袋に覆われたラーズクリフ伯爵の手が、レティの細腕を掴んでいた。

「放して!」

 取り乱したようにレティが叫ぶ。伯爵は動じた様子も見せないままに、宥めるように話し続けた。

「落ち着きなさい。確かに非情な提案に聞こえるかもしれないが、実際的に考えれば、アーデンときみの妹を結婚させることは道理に適っているんだ」

「馬鹿を言わないで! あんなけだものに妹を渡してなるものですか!」

 レティが伯爵を睨みつける。伯爵は小さく悪態をついて、落ち着き払っていたその声を微かに荒げた。

「あんなことをされた後では信じたくもないだろうが、アーデンはいずれプラムウェル伯の爵位を継ぐ立場にあるうえに、手掛けた企業も軌道に乗って彼固有の財産もかなりのものになっている。今現在独身の貴族男性のなかでも結婚相手としてはかなりの優良物件だ」

 伯爵はそう言うと、頑として敵意を向け続ける姉から、怯える妹へと視線を移した。

「冷静になって考えなさい。彼は本来誠実な男だ。友人である私が保証する。この結婚は決して悪い話ではない」

 シャノンは答えられなかった。社交界のしきたりに倣うならば——感情を切り離して考えたならば、きっと伯爵が正しいのだろう。シャノンやレティが考えているよりもずっと噂のちからは恐ろしく、一度落ちた評判を取り戻すのは難しい。未婚の女性の貞操に関わる問題ではことさらに。

 長い沈黙のあいだ、レティは必死に残された冷静さを掻き集めていたようだった。ややあって口を開いた彼女の声は、苦々しくはあるものの落ち着きを取り戻していた。

「手を放してください。女性の手をそのように握るだなんて、礼儀に反するはずですわ」

 伯爵は一瞬目をまるくして、「すまない」と手短かに詫びると、レティの腕をそっと手放して、掠めるように指先に触れた。レティはシャノンの肩を抱き、伯爵に背を向けて、言った。

「お心遣いには感謝します。私たちを少しでも哀れに思ってくださるなら、どうぞ先ほど仰ったとおりに馬車を裏手にお回しください。……私たちを家に帰して」


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