5話 雫石2
朝霧姉さんが殺された。
雫石はその言葉の意味を理解できていないまま、頭の中で反芻する。
朝霧姉さんが殺された。朝霧姉さんが殺された。朝霧姉さんが殺された。
朝霧姉さんが殺された。 何で?誰に?何で?
朝霧姉さんが殺された。朝霧姉さんが殺された。
殺されたって、誰に殺された? 何で殺された?
どのように殺された?
一つ一つの単語か連なり、漸く言葉の意味を理解すると、ここは廓である、理由はいくらでも思いつく。
女郎同士の妬み。女郎を自分独りのものにしたい男の願望、そして嫉妬。
美しく煌びやかな世界と裏腹、ここは欲と嘘の上に築かれた城だ、ここで過ごす人々は皆怪しく思えてくる。
しかし、動機が至る所に有ったとしても、朝霧のそばには常に自分や初音がついていたのだ。
どう考えても、誰かが容易に手を出せるような機会はないはず。
何度頭の中で自問自答しても殺されたというその言葉の意味がピンとはこなかった。
未だに混乱から抜け出せぬ雫石を洋装の男は見つめる。
「雫石殿は教純が医学を学んでいるのをご存知でしょうか。」
目の前の男は雫石を見つめたまま問いかけてきた。
勿論だ。朝霧姉さんは教兄さまの学業のためにここに居ると訊かされていた。
特に大きな借金がある訳ではなく、自らの弟を養っていたのだ。
将来、教兄さまはお医者の先生になるのだと、姉さんは嬉しそうに話していた。
洋装の男は雫石がコクリと頷くのを確認して続ける。
「医学と言っても、彼の専門は毒です。その教純が藤江殿のご遺体から毒の痕跡を見つけました。
・・・始めはご遺体から漂う甘い香りが気になったそうです。石見銀山等の毒には体内に入ると甘い香りを発生させるものがあるそうです。教純は敏感にも、その匂いを嗅ぎとったようです。そして遺体の爪を確認して、うっ血の痕を見つけた。ここで彼は確信をしたそうです。」
雫石はただ男の続ける話に耳を傾けた。
匂いに爪のうっ血の痕。それだけでは毒殺とは断定できないのではないか。
彼女の顔が訝しげに変わったのを察知したのか、そんな雫石の疑問に答えるように男は続ける。
「寺に埋葬する前、形見として髪の毛を分けてもらいました。教純はこの三月、頭髪を調べて、毒を検出したのです。
・・・呼吸を閉じるような毒だそうです。幾月にも渡り、少しずつ盛られていたのでしょう、根元から2寸近くまで毒が残っていたそうです。」
幾月にも渡って毒が盛られていた。・・・あれだけ一緒に居たのに何故気づかなかった。わっちは寝つきが悪い、胸が苦しいという、朝霧姉さんの言葉を遊女によくある、癪だと高を括って気にしていなかったのだ。
悔しさに雫石の瞳には涙が溜まっていく。
「あ、秋山様、わ、わっちは、わっちは何を見てきたのでしょう。
姉さんと一緒に過ごしていて、そんな大切な事にも気付きもしない。
姉さんに育ててもらって、身の回りのお世話をさせてもらっていたのに。」
「雫石殿、教純が言っていました。この毒は特殊なようです。
一度や二度、盛られたくらいでは、はっきりと毒を盛られたことすら分からない。
ただ、徐々に体を蝕み、呼吸を閉じていく、そんなものだと。
一緒に生活をしていたとしても、急な変化がなければ、ほぼ気付かないでしょう。
いや、むしろ一緒に居るからこそ、そのものの放つ匂いや、変化に気付きにくいのかもしれません。
貴女のせいではありません。」
雫石はそれでも、姉女郎が毒を盛られて、死に至るまで気付かなかった自分が許せない。しかし、この洋装の男の言葉で少しは救われているのだろう、続けようとした言葉を飲み込んだ。
そんな雫石に頷きかけ、男は続ける。
「さて、私は教純からの情報を基に、廓へと戻ってきました。結論から言うと、幾月にわたり毒を盛っていたのなら、下手人はこの廓の中に居るのです。私はそやつを見付けたい。雫石殿、ご協力頂けないだろうか。」
協力するのはかまわない。
いや、むしろ朝霧姉さんや、教兄さまのことを想えば、率先して力になりたいと思う。
・・・ただ、それで良いのか。
ただただ、協力するだけで良いのだろうか。
この男は何故わっちにこの話をした。 とても重要な話ではないか。
こんな話をわっちに易々としてしまって良いのだろうか。
朝霧姉さんの周りで主だったお世話をしていたのは、他ならぬ雫石自身である。
下手人である可能性もある自分にこんな大切な話を話す男に任せて良いのだろうか。
「秋山様、先ほどは申し訳ございませんでした。わっちは事情も知らずひどい事を申し上げました。」
雫石がしおらしく謝罪すれば、秋山は優しい微笑を向け、気にしないと言う。
「雫石殿は本当に藤江殿を慕っておられたのでしょう。教純も喜ぶはずです。」
「ただ、お力になる前にわっちからも一つ質問がございます。
秋山様は何故わっちに今の話をされたのでしょうか。朝霧姉さんの最も身近に居たのは、わっちです。
普通に考えて、一番に疑われるのはわっちではないでしょうか。
そんなわっちにとても重要なお話をされた。何故ですか。」
雫石はまっすぐに秋山の目を見つめて問いかけた。まだ涙で潤んでいるものの、その瞳には理知的な鋭い光が浮かんでいる。
「貴女が下手人ではないからです。」
そんな雫石に秋山は不安を微塵も感じさせない態度ではっきりと答える。
「正直を言えば勘です。私に詰め寄る貴女の姿を見て、教純や藤江殿のことを心から想っていると感じました。そんな貴女が藤江殿に毒を盛るとは思えません。こう見えて私の勘は外れたことがないのですよ。私は貴女を信じます。もし、ここに教純が居れば、奴も反論はないはずです。」
そう言って微笑む秋山は、雫石の目に好意的には映った。
あれだけ、腹立たしかった洋装の男からの微笑が少々くすぐったく感じられるほどには感情も変わっていた。
・・・しかし、この男は少々甘いと雫石は考えを改める。少しの涙と取り乱した演技など、廓では日常の一幕である。雫石が詰め寄った姿を見た程度で信用していては、ここではやっていけないだろう。
あの東雲、唐琴の年増女郎でさえ、楼主の前で泣いて見せていた。下手人を探すなど言って、姉女郎たちに良いように金を巻き上げられるのが落ちである。
姉女郎たちに骨抜きにされている秋山の姿を思い浮かべて、雫石はモヤモヤとした嫌な気持ちを覚えた。
仕方がない、そこは雫石が助けよう。わっちはこの廓で八つのときから暮らしているのだ。秋山を助けながら、もし頼りにならないようなら、自らの手で下手人を見つければ良い。
きっと朝霧姉さんも、教兄さまも喜んでくださるに違いない。姉女郎の変化に気付いてあげられなかった自分のせめてもの償いである。
「分かりました。わっちに出来ることは何でも協力いたしましょう。
ただ、もう一言だけ言わせて下さいませ。
・・・秋山様は甘すぎます。
ここは廓。魑魅魍魎の住処でありんす。そんなに簡単に人を信用しては姉女郎たちに良いように扱われるだけ。もっとお気張り下さいませ。女郎の誠と四角い卵はこの世にはございませんこと、お忘れなく。」
目の前の洋装の男、秋山是清に喝を入れる雫石に、当の目の前の御仁は一瞬キョトンとした後、顔を崩してこう続けた。
「有難うございます、雫石殿。
この馬面、秋山是清が恥を忍んで廓に戻ったこと、きっと下手人に後悔させてやりましょう。」
・・・食えない男である。
涙目のまま噴出した雫石は満面の笑みを秋山に送り返し、心の中で下手人を見つけることを朝霧に誓った。