2話 匂い
隣で是清が二度目の寝屁をこいた。今回はその大きな音に自ら驚き、飛び起きて、何が起こったものか辺りを見回している。
「ははは、是清さん。あんたって人は本当に香ばしいのう。」
腹を抱えて笑い転げる耕一と教純に、是清は自然の摂理じゃと悪ぶりもしない。
「何が自然の摂理だ。これは臭すぎるぞ、是清さん。おい教純、君は医学を学んでいるのだから此奴をどうにかしてやってくれ。こんな屁をこかれては、周りが堪ったものではない。」
「悪いが、医学は医学でも私の研究は毒だ。戯けの是清を治せる薬など私には作れぬぞ。」
「しかし教純、考えてもみろ。この臭さは、まさに毒そのものではないか。ならば君はいっそう一度、是清さんの屁を研究した方が良いと思うぞ。これは、石見銀山よりたちが悪い。」
軽口をたたく二人に、是清がいい加減にしないかと口を挟む。
「子鼠も、昼行灯もこの秋山是清を侮辱するなら許さぬぞ。」
昼行灯とは私のことかと言う教純の声と、許さぬなら何をすると問う耕一の声が重なった。
「行灯の灯で蟹汁でも作って食ってやるわ。さぞ香ばしい屁が出るはずじゃ。」
是清がそう応えると、三人は一斉に笑い出した。過去の恥ずかしい思い出に触れられた耕一も、屁をこいた張本人の是清も、心なしか顔が赤くなっている。
だらだらと過ごしていると教純の下宿の女中、春が粟の混ざった塩握りに沢庵が添えられた飯を持って来てくれた。
おかめとひょっとこの間に生まれたような顔をしている年増だが、お春さんはどうやら是清に恋心を抱いているようだ。是清が部屋を訪れているときには、よく茶菓子や酒の肴を持って来てくれる。持ってくるだけでは飽き足らず、時には用もないのにそのまま居座り、井戸端で仕入れてきたであろう噂話などを延々んと是清に語って聴かせるのだ。
是清もまんざらでもなく、お春さんの軽口につき合うものだから、お春さんは脈があるかと勘違いをし、より一層是清に入れあげるのである。
是清の場合は、大抵来るものは拒まずなので、問題はないのかもしれないが、何ともおぞましい。
この日は、握り飯と一緒に、今、早馬で届いたばかりという教純宛の手紙を持って来た。あくまでお春さんのなかで手紙は是清に差し出される飯のついでであるが、順序が違うだろうと言っても始まらないので、無言で受け取った。どうやら姉のいる扇屋から届いたもらしい。
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新井教純殿
貴殿が姉、朝霧 急な病にて死去。至急扇屋まで来られたし。 扇屋 善衣紋
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教純は目の前が真っ暗になるのを感じた。
最初は何が書かれているのか理解できなかったが、理解していくにつれ倒れそうになるのをぐっと堪えなければ、そこ居ることさえ出来ない感覚に襲われた。
一拍おいて、とるものもとらず駆け出す教純。耕一や是清に説明をする余裕もない。
突然立ち上がり走り出した教純に驚き、何が起こったものかと慌てているものの、そのあとを是清と耕一が追って来ている。遠くで秋山様、握り飯はとお春さんが叫んでいた。
「姉上、姉上。」
脱兎がごとく走る教純との差は開くばかりだが、彼の足が向かう方向から姉のいる遊郭へと向かっていることが是清たちにも分かるだろう。「待て。どうした。」等の言葉が後ろから聞こえてくるが一心不乱に走り続けた。
教純が扇屋につくと、姉は土間に置かれた小さな丸い棺桶に折り畳まれるように納められ、彼を出迎えた。
いつもの窓際ではなく、いつもの笑顔もない。
その横には弔い衆三人が静かに下を向いて並んでおり、新造の初音と、数ヶ月前に禿から新造になったばかりの雫石も目を真っ赤に腫らして泣きながら佇んでいた。
遣り手の辰や、楼主の善衣紋が教純を見つけ話しかけようとしたが、教純は彼らには目もくれず、棺桶まで駆け寄り、人目も憚らず、姉に縋り付いて泣き崩れた。
雫石も教純の横まで歩みを寄せ、彼の袖を握り大粒の涙を流した。
「教兄さま、教兄さま。朝霧姉さんが。何で、何で。」
「教坊よ、弔い衆が寺まで運ぶのは、お主が来るまで待ってもらっていたのだ。最後の別れをしなさい。」
善衣紋も彼に近寄り、居たたまれないといった表情で話しかける。とんだ狸じじいだが、姉や自分は小さい頃この楼主には随分と可愛がられていたと思う。振り向くと彼の目にも涙が浮かんでいる。
「ここ最近、息が苦しく寝付きが良くねぇとは新造達にはこぼしてたらしいんだが、今朝方、急に胸を押さえて、ぽっくり逝っちまったんだとさ。切ねえなぁ。」
丸い棺桶の中で白装束を来て佇む姉は、まるでただ眠っているような、今にも教純さんと微笑みかけてくれるのではと思わせるような、死を連想させない美しい顔でそこにいるのである。
「姉上、教純です。起きて下さい。そんな悪ふざけはおやめください。・・・教純が参りました。起きて下さい。 うぅぅ、何時ものように微笑んで下さい。・・・・あねうえ、わ、わたしを一人にしないで下さい。」
教純は棺桶の中に折り畳まれている姉に再度縋り付き、懇願をする。
「もう、逝かせてやりましょう。」弔い衆の一人が近くで佇む雫石を押しのけ、教純の肩に手を掛ける。
「う、うるせぇ。俺らのことは放っておけ。さわるな。」
教純は現実が受け入れられずに叫び声を上げた。
耕一と是清が扇屋に着いたときには、尻餅をついて惚けている雫石の横で、教純は土間に顔を押し付けられるかたちで、弔い衆の一人に押さえつけられていた。
姉を寺へ運び出そうとする弔い衆の前でひと暴れして、その結果、しこたま殴られ、それでも暴れ続ける教純を弔い衆の一人が押さえつけたのである。
耕一と是清はとっさに状況が飲み込めないようであった。しかし、目元が腫れ、口から血を流して押さえつけられている教純を見つけると、大柄な是清は、その手前で棺桶を担ぎだそうとしている二人の弔い衆を殴りつけ、そのまま教純を押さえている、もう一人も蹴り飛ばした。そして、朝霧殿は何処に、何故教純が押さえられているのだと大声を上げた。
その場の空気が固まり、皆の目線が棺桶へと向かった。
雫石と傍らにいた初音がまた声を上げて泣き出した。
是清も全てを悟ったのだろう。
藤江殿と呟いた後、その場に両膝をついてむせび泣いた。
初音が崩れ落ちていくのを見て、耕一が支える。
「朝霧姉さん、昨夜まではとても元気でしたのに。何で。」
耕一にしなだれ掛かる彼女の身体が小さく震えている。
弔い衆は迷惑そうに血の混ざった唾を吐き捨てると、泣き濡れる一同を残して、朝霧を乗せた小さな棺桶を担ぎだした。
耕一は、まだ嗚咽に震える初音を框に座らせると、教純を立たせた。そして是清に藤江殿を送りに行くぞと声を掛け、歩みだす教純の身体を支えた。
教純は力の抜けた身体を小柄な耕一に預け、最後の力を振り絞るように歩いてゆく。
ゆっくりと進む弔い衆のあとに続くは、顔の腫れた教純とそれを支える耕一、少し後方に是清のみである。
武家の血を引き、大見世のお職になっていた藤江にとっては、何とも淋しい最後である。
藤江は遊郭の近くにある投げ込み寺に埋葬されるのだろう。身寄りのない教純には悔しいが引き取るすべも、葬儀をあげるすべもない。一般的に遊女に身を落とした女は、身内に売られて廓に居ることが多いことからも、年期を終えるか、身請けをされる以外、家族とともに墓に入ることはないのだ。
寺の門を通り抜けると、耳元で教純は小さな弱々しい声で囁いた。
「耕さん、是清さん、先程は姉上を朝霧ではなく藤江と呼んでくれてありがとう。嬉しかった。」
そして少し間を置いて、こう続けた。
「姉上は病で亡くなったのではない。誰かに殺されたのだ。」
耕一と是清は驚きの表情で教純に向き直る。
「姉上の身体から、毒の匂いがした。」