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第一章 1話 新井教純の日常

もう昼を迎えようと言うのに薄暗い北の六畳間で、新井教純あらいきょうじゅんは横で鼾をかいている男を蹴り飛ばした。

書生は学業を修めるために在るはずだが、隣の秋山是清あきやまこれきよはその事が全くもって分かっていない。毎晩のように友人の小金井耕一こがねいこういちとともに教純の部屋を訪れては酒をあおり、翌日の昼過ぎまで高鼾である。

今しがたも、一人、早起きをして昨日の実験の復習と研究結果の照らし合わせをしていた教純の横で、寝屁をこいて苛立ちを煽ったところだ。

蹴られてもなお、ケツを掻きながら一言二言寝言をたれて、再び鼾をかき始めるあたりは凡人ではない。


秋山是清は大柄な男である。

また、非常に珍しくも、常に洋装をしているから、とかく人目に留まる。決して美しく整っている訳ではないが、男らしい面構えも幸いして、初見の女たちからの評判はすこぶる高い。本人にもその自覚が在り、気に入った女がいると何の躊躇もなく声をかける。それで度々教純の部屋に女を連れてくるのだから、正直、堪ったものではない。


幕閣の中核を担った秋山の父は、維新が叫ばれるのと同時にあっさり倒幕側に力を貸し、新政府では子爵の位を受けていた。破天荒な秋山子爵はその息子の是清にも非常にかわった教育を施した。

基本の読み書きを教えた後は、武士社会では当たり前のように嗜まれた論語なども教えはせずに、九歳になる是清をエゲレスに送ったのである。

是清は日本が開国をして間もなく、エゲレスに渡り、少年期の六年間をその地で過ごしたのだった。

破天荒な秋山の血にエゲレスでの日々で培った異国の習慣が加わり、ここに変人、秋山是清の誕生である。

スキンシップと言っては女に抱きつく。

一般はたから見ても、これでは、さかりのついた犬であるが、親の持つ子爵と言う爵位と、三年前に教純と同じ学塾に通い始めてからの彼の優秀な成績から、教純と数名の友人を除き、誰もが表立っては彼を変人扱いはしなかった。しかし、同じ塾に通う者は、皆一様に秋山のボンは、ちと狂うておると内心で思っているのは、明らかだった。


「教純よ、是清さんを起こしたいのなら、蹴りなどでは甘過ぎるぞ。髪を剃ってしまえ。あれでいて、この盛りのついた犬は娘たちからどう見られているかを気にしているから、禿頭を作らぬように飛び起きると思うぞ。」

横から小金井耕一が眠そうに目をこすりながら助言をしてきた。

耕一も秋山是清同様に教純の部屋を訪れる迷惑な友人なのだが、つい先程まで共に鼾をかいていた自分の事は棚に上げて、是清のことを言い放った。


彼の生家は、天下の名将、八代将軍吉宗公の時代から続く商家である。相当な資産を有しており、江戸時代末期には金で御家人株ごけにんかぶを買っていた。

耕一はその小金井家の三男坊だ。

政権が明治政府にうつっても、金持ちは金持ち。悠々自適に親の金を使って学塾に通っているのだ。

恐ろしく頭が切れるにも関わらず、この男も書生とは名ばかりで学業に没頭しているところを教純は見た事がない。

一文字に茂る眉は凛々しい。

役者絵にでも出てくるような、精悍な顔立ちをしているが、体躯は小柄。本人はそのことを気にしているようであるが、どことなく幼さの残るその容姿は、狢や鼠などの小動物を連想させ、教純は好感をもっていた。



「是清だけではない。私にとっては君も等しく、学業の邪魔なのだが。・・・何故毎日私の部屋を訪れるのだ。」

「ははは、愚問を。それは君の部屋が一番落ち着くからであろう。私も是清さんも、君のところで酒を嗜む事が日課になっておるのだぞ。それで、君も上質の酒を上質な友人と楽しむ事が出来るのではないか。」

「耕さん、何時私が酒を飲んでいる。飲んでいるのは君たち二人だ。私は学業を修めて、一日も早く新政府の研究者として認めらなくてはならないのだ。」

「そうだったな。悪い。しかし、酒も飲まずに学業のみに没頭しても良い成果は得られぬぞ。時には息抜きも必要だ。」

息抜きしかしていない耕一だが、教純の置かれている状況を想って言っているのだろう。軽口のような口調だが気遣いがうかがえる。


教純は、医学を学んでいる。そのなかでも専門は毒だ。身体に根付く病のもとを、毒をもって治せないかというのがもっぱらの研究だ。

しかし、最近、教純の行っている研究は失敗の連続で彼の望むような成果を出せていないのである。

身を削り、教純を学塾へと通わせている姉の事を想うと、焦りばかりが募るのだ。



新井教純に親はない。親がいないことなど、この世のなか、珍しいことではない。しかし、学塾に通うような者のなかでは非常に珍しいことだ。

もともと父は幕府の屋台骨を支えた重臣である。名は新井家純あらいいえすみと言い、維新の際に失脚をしていた。そして母はその側室であった。

徳川の時代には大きな別宅に母子仲良く住んでおり、側室の子ではあったが、何不自由のない生活を送っていた。

 優しく、美しい母はバテレンとの混血だった。驚くほど白く透き通る肌に、色素の薄い目、栗色の髪をしていた。

長崎の出島でバテレン相手の遊女をしていた祖母が他界し、年端も行かぬ少女だった母は、厄介払いされるかのように江戸に売られて来たのである。

下女中しもじょちゅうとして呉服問屋に奉公していたが、予想に反して美しく成長していく少女を引取先のおたなでは金になると踏んだらしい。

色町に売られそうになったところを、たまたま店を訪れた新井の殿様が見初めたのである。新井の家に奉公先を変えてから、母は六つ歳の離れた姉の藤江と教純をもうけたのである。


しかし、教純が八つになった年、徳川幕府が倒れたのだ。

新政府の誕生である。


そこからは地獄を見るようであった。

徳川の重臣であった新井家純は新政府から弾劾を受けたのだ。父は腹を切り。母はその後を追うように病で亡くなった。

今まで教純たちに優しかった商家のものは、本宅、別宅からありとあらゆるものを奪っていった。犯罪者がこのような贅沢品を持つべからずとのことであった。

家財や、骨董では飽き足らず、気の狂った大人たちが、母譲りの教純の美しさに目を付け、陰間茶屋へ売ろうかと算段を巡らせたとき、姉がその間に割って入った。

姉は、まだ幼さの残る弟を背後に庇い、後生だからこの子には手を出さないでと泣いて訴えたのだ。

私が遊郭にでもどこにでも行くという十四歳の少女の必死さに、最終的には大人たちも折れ、教純は元々通っていた学塾の先生のところに預けられた。

あれから九年の月日が流れ、遊女となった姉に養われながら、学業を修める日々が続いている。一日も早く成果を出し、姉を遊郭から出してあげたい。これだけが今の教純の夢なのである。


そんな教純の楽しみは、時折姉を訪ねることだった。遊郭の人たちは教純が弟であることをよく知っていたので、問題なく門を通ることが出来たし、姉はいつも窓際に座って、優しい笑顔で教純を迎えてくれた。

自らのことはあまり語らず、教純の学業のこと、生活を常に尋ねては一人頷く。

その優しい微笑みは、毋のそれと似ており、いつも彼を勇気づけたのだ。


数年前には、是清と耕一にせがまれ、また、姉も教純の友人に会ってみたいと言うので、彼らを連れて廓を訪ねたこともある。

遊郭など、まだ足を踏み入れたこともない若き青年二人は、惚けたように口を開けて、姉のいる扇屋の暖簾をくぐり、もじもじと落ち着かない様子を見せた。

二階にある姉の座敷に通されるまでの間も、休んでいる他の女郎たちにからかわれては顔を赤らめる二人を見て教純は不思議な気持ちになったものだ。

自分が八つのときから続けているこの生活は、他の者にとっては当たり前の生活ではなかったのだ。

不思議な感覚は、次第に少し悲しいような気持ちにかわり、そして、彼らの目に姉がどのように映るものかという不安へと変わっていった。

もしも姉を蔑むような目で見られてしまったら、自分はこいつらを許すことが出来ないだろう。そんなことを考えている間に、まだ、幼さの残るかわいらしい少女に導かれて、姉の座敷へと通された。

初めて見るその少女は数ヶ月前に姉のもとに付いたばかりの初音はつねという禿かむろだった。

もう数ヶ月もすれば新造しんぞだしを迎えるということだが、もともと姉のもとについていた、少し歳の若い禿の雫石しずくいしのほうが、よほど大人びて見えた。

ここにきて漸く、自分たちより幼い娘に会って、耕一も是清も落ち着きを取り戻したようであった。


「朝霧花魁、お連れいたしました。」

「有り難う初音。教純さんお入りなさい。皆さんもよくお越し下さいました。」

いつもの優しい姉の笑顔が、いつもの窓際にあった。

先ほどは落ち着きを取り戻していた連れ二人だが、一気に緊張が戻ったのだろう、顔が引きつるのが見てとれる。そして耕一はまた、もじもじと下を向いてしまい、是清も顔を赤らめ、ただただ惚けてしまっている。


「皆さん、よくお越し下さいました。私がここから出られないばかりに、来ていただけて嬉しゅうございます。初音、お茶を入れて来て下さいな。」

姉がそう続けるなか、横では、是清がぼそぼそと一人呟いている。

エンジェル、エンジェル。

そんな是清のことなど、無視する教純と耕一だが、姉が是清を見て小首をかしげ、問いかける。

「あら、エンゼルとは何でございましょう。」

「姉上、秋山の言うことは気にしないで下さい。この変人はたまに訳の分からないことを言うのです。エゲレスに住んでいたことがあり、時折、異国の言葉を使うのですよ。」

「まぁ、エゲレスですか。それは凄い。どんなところなのでしょう。秋山様お話し頂けませんか。」

私の前に、エンジェルがおりますなどと、未だに訳の分からないことを呟く是清を肘でつつき、教純は是清を正気に戻そうとした。

「おい、是清さん。姉上がお尋ねだぞ。」

すると、是清は、はっと我に返った後、姉の問いに惚けた顔と佇まいを正し、口を開いた。

「いや、失敬。エゲレスはとても文化の進んだ美しい国です。我が国では見られない高い建物が並んでおり、また、大八車ではなく、自動車なるものも走っております。」

目を輝かせ聞き入る姉上に頷き、是清は続ける。

「エンジェルとはエゲレスでは天女様のようなものを意味しています。教純のことも、日頃からギリシア彫刻のように美しい奴だとは思っておりましたが、姉君もまた格別にお美しい。姉君を見ているだけで心が洗われるようです。」

「まぁ、秋山様は若いのにお上手ですこと。ここ廓でも殿方はそのようなことは言って下さらないですよ。これもエゲレス仕込みなのかしら。」

姉は優しい笑顔を向ける.

「そう、秋山様は、秋山子爵様のご子息だそうですね。大事なご子息を異国にお送りになるなんて、子爵様もずいぶん思い切りのあるお方なのですね。」

「大したことはありません。あの変人に世の常識など通用しないだけですよ。初めのうちは私も随分と無茶をさせられたと思いましたが、案外水があっていたのでしょう。とても楽しい時間を過ごしました。おかげさまで今では私も教純や耕一からは変人扱いされる始末です。」

是清は少しおどけてみせる。

「君に変人扱いされるのだから、父君は相当なお方なのだろうな。変人の中の変人だな。」

教純が軽口をたたくと、姉は諭すように、微笑みを向け窘める。

「・・・申し訳ありません、姉上。」

姉には頭が上がらず、素直に謝罪を行う教授の姿を見て、是清と耕一が小さく笑いを漏らした。

普段、是清や耕一を窘めている教純が小さくなっている事がよほど可笑しかったのだろう。


姉はゆっくりと向き直ると、未だに緊張が解けぬ様子の耕一にも声を掛けた。

「小金井様も教純さんの良きご学友と伺っています。大変、博識だとか。」

下を向いてもじもじしていた耕一がより一層身を縮めて赤くなる。

その様子を見て姉の横に座っていた禿の雫石が、小金井様は蟹さんのように真っ赤っか。わっちは蟹のお椀が大好きでありんすと嬉しそうに話すものだから、一同からどっと笑いが漏れた。


「これは良い。私は常日頃、この小金井を子鼠と呼んでいたが、これからは子蟹と呼ぶことにしようか。椀のものにすれば、さぞ良い出汁が出るであろう。」

「か、勘弁して下さい。是清さん。まだ、子鼠の方がましですよ。赤いのは今だけです。」

是清の軽口に、耕一が必死に応える姿がおかしくて、更に場が和んでいった。

「雫石。友人とは良いものですね。お前も初音と仲良くするのですよ。」

姉は横に座る利発そうな禿に声を掛ける。

「あい、朝霧姉さん。わっちは初音ちゃんとは仲良くいたしんす。」

そこに、お茶を持って帰って来た初音は、何が起こっているのか分からず、ただきょとんと皆を見つめていた。



この日はあっという間に時が過ぎた。

帰りの道中でも、姉の話で持ち切りだった。

「教純、君の姉君は本当にエンジェルのようなお方だなぁ。」

是清が興奮気味に口を開けば、何よりもお人柄が良いと耕一が続ける。

実際、教純は姉弟の贔屓目ひいきめを除いても、姉のことを静かな物腰のなかに、溢れんばかりの優しさを持つ温厚な人柄だと評価している。その事を褒められた事が、何よりも嬉しかった。

気位の高い花魁たちのなかでも、姉は大見世おおみせの、二枚目花魁である。親族の友人であろうとも、気安く会話などしないのが常識だ。それが、姉は全くもってそのようなことは気にせず、是清や耕一とも屈託なく軽口を楽しんでいた。まぎれもなく教純の自慢の姉である。

教純は姉の部屋へ通される前の不安が、すっかりと消えて無くなっていたことに今更ながら気付いたのだ。


「しかし、帰り際に頭を下げられたときには驚いたぞ。」

耕一が少ししんみりと呟いた。

そう、これには正直、教純も驚いたのだ。姉が帰り支度をしている是清と耕一に向かって三つ指をついて弟を宜しくと頭を下げたのである。

「秋山様、小金井様。弟は幼き頃より独りで過ごし、とても淋しい想いをしてきました。その為か、今まで心を開く友人にも恵まれていなかったように思います。どうか、これからも教純と仲良くしてあげて下さいませ。宜しくお願いいたします。」

なかなか、顔を上げない姉に一同が困り果て教純が声を掛けると、面を上げた姉の瞳からは大粒の涙が溢れていたのだ。

教純も自らの目を疑いながらも、湧き上がる感情に目頭を押さえた。

是清も耕一も同じく肩を揺らしていたように思う。

今思えば、この頃から、是清も耕一も教純の部屋に入り浸るようになった気がする。

・・・大変迷惑な話だが。

しかし、それが姉の望むことかと思えば、教純もまた、部屋を訪れる二人を心の底では、ありがたいと思うのであった。

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