序章
黒き人だかりのなかを、紫雲をまとった天女がごとき女王蜂はゆっくりと外八文字を踏みしめる。
幾人もの骸の上に孵化を遂げた女王蜂。
この堅牢な檻の中で貴女の幸せが永く続くことを私は心より祈る。
・・・道中前日・・・
「貴女が、この見世のお職です。名実ともに女王蜂となったのですね。」
漆黒の男は悲しげな表情のまま女を見つめた。
濃紺の一重の着流しは、四阿の影に入り、その闇の中に溶け込んでいる。
背丈はあまり高くないのだろう、闇の中に浮かび上がる白い顔は女のそれとほぼ同じ高さにあった。
一文字に茂る眉は凛々しく、その顔は理知的である。つくりが小さいためか、どこか幼さが残るが、目鼻立ちもしっかりとしており、役者絵に出てくるような精悍な顔をしている。
男は何も発さず、ただその眼は池のほとりに歩みを進める女を追っていた。
女は水面に目を向けると、ゆっくりと男を振り返る。男は闇より一歩、歩み出て、また女に話しかけた。
「貴女は今、幸せですか。」
対するは夕日を受けて黄金色に染まる女。
白地に萩が描かれた浴衣に銀糸の帯。珊瑚と鼈甲の髪飾りを島田に結った緑の髪に挿し、後れ毛一つない。透けるように白い肌も夕日をうけ輝いている。
凛として、それでもどこか儚げな顔は美しく、ギャマンのような瞳はそこに映るもの全てを吸い込んでしまうかと思うほど深く澄んでいる。
時より吹く風が水面を揺らせば、女の肌、白い浴衣を染める橙の光が様々な表情に変化していった。
「わっちは、幸せでありんす。」
女はふわりと微笑む。ギャマンの瞳も水面の橙を映してきらきらと輝く。
「沢山の人が亡くなりました。」
男は更に一歩出て、静かに、ただよく通る声で続ける。
「悲しいこと。みなさんお優しい方でしたのに。ほんに夢であって欲しいものです。されどこれは現。どんなに願っても誰も戻っては来ませぬ。ならば、今ここに生きている自らを幸せと思いましょう。」
水鳥が飛び立ち、また水面を揺らす。女に映った波紋が今度は涙に見えた。
「小金井様は、今回のことでご自分を責めてはおられませんか。みんな、ぬし様が事件を解決して下さったことに感謝をしております。どうか、ご自身を責めないで下さいませ。新井様も朝霧姉さんもどんなにこの日を望んだことでしょう。」
「結果、あの方は死んだのです。朝霧さんならそんな結末は望まなかったでしょう。望んだのは貴女です。そしてあなたがお職となりました。」
「意地悪な言い方をされる。わっちは何もしておりませぬ。」
「貴女は確かに自の手を血に染めていないのかもしれません。ただ嘆き、翻弄をされ、傷つき、そして最後に望んだ。その結果、そこに転がっていく骸を糧に着実に女王蜂として成長していった。それだけなのですね。」
女は一度目を伏せ、能面のように表情の消えた顔を男へと向けた。
何も答えない。
感情も読み取ることが出来ない。
男は揺さぶりをかける。
「貴女は、今幸せですか。本当は寂しいのではないですか。もう、朝霧さんもあの方も貴女を守ってはくれません。貴女が手に入れたその場所は、常に他の女たちに狙われている場所なのです。」
能面の表情は崩れない。
「貴女のことを今も誰かが潰そうとしているかもしれません。それでも、貴女は幸せですか。彼女たちを見たでしょう。人から仕掛けられる前に、相手を取り込み、潰していく。来る日も来る日も、地獄の業火に焼かれながら、苦しみ、自らを滅ぼしていく。そんなことを何時まで続ける気ですか。貴女はそこに身を落としてはいけない。」
「ぬし様はひどいお人です。わっちに何が出来ますか。幸せかと訊かれれば、幸せと答える他に何が出来ましょう。わっちら女郎は人であって、人ではありません。この遊廓に足を踏み入れた時点で逃げ場などないのです。自分の居場所を作るため、みんな必死でもがいて、ただ生きるだけ。わっちにそこに身を落とすなというなら、ぬし様がわっちを救ってくださいまし。ここから出してくださいまし。」
女はギャマンの瞳を潤ませ、男にしがみついた。
女の首筋より放たれる甘い香りが鼻孔をくすぐる。
男は女の肩をつかみ姿勢を正し、正面から見据え切り返す。
「止めてください。貴女は私からの救いを望んではいない。そのように色香をもって人を操っても何も変わりません。他者を偽り、自らを偽る。しかし、あなた自身も私に救いを求めていないことを分かっているはずです。
私にそれは通用しません。」
女は男の袖をつかみ、そしていやいや体を揺すった。
「ぬし様には女郎の気持ちは分かりませぬ。救ってくださいまし。わっちは余りにも無力です。」
男は女の言葉を無視して続ける。
「更に、貴女はわかっているはずです。私が話していたのは女郎一般を指しての話ではありません。あなたの話です。話をすりかえるのは止めましょう。私は、貴女に彼女たちのように人を操り、他者を破滅に追いやるような、そんな行為をもう止めるべきだと申しているのです。」
「何を仰られているのか分かりませぬ。」
「私は今回の悲しい出来事は、なかば貴女が計画したと。そしてその計画がまだ続くのであればもう止めるべきだと言っているのです。続ければ貴女をも滅ぼしてしまいます。」
女はひるみ一歩後退しそうになるが、何とか持ちこたえる。
男には動揺は悟られていないと思いつつも、一瞬うろたえた自身を叱咤する。今度は自らの袖で涙を拭う仕草を行い、男の次の出方を牽制するため涙を浮かべた無垢な瞳でまっすぐに見上げたのだ。
しかし、男は動じない。
「いたいけな少女は、事件に巻き込まれ、ただ嘆き、翻弄をされ、傷つき、真相を知り、そして次第に変化を遂げていった。そう、そして生き残るために周りを翻弄し、操り、邪魔者を用いて邪魔者を消していったのです。誰も貴女を責めることは出来ないでしょう。私は、か弱き貴女が今回成した事に同情すら覚えます。いえ、むしろ賞賛したいと言ったほうが良いのでしょうか。」
女は覚悟を決める。この男は気付いていたのだ。
「ほんに、ぬし様はひどいお人です。そんな言われ方をしては、わっちは何も言い返せませぬ。」
遠くで日暮が鳴き始めた。
池のほとりに来たときには、黄金色をしていた夕日も、今は赤に近い橙へと色を変えていた。
男は女に並んで池のほとりに佇み、水面を見つめた。
濃紺の着流しが湖面の橙の光を受けて、まさに黒衣を纏っているように見えた。
もうじき夕刻を告げる。
遊んでいた禿たちも、いつの間にか姿を消している。
昼見世を終えて休んでいた女郎たちも身支度を整え夜に備える頃なのだ。
「ヒグラシ。わっちは日暮が好きでありんす。」
女は天を仰ぎ、ギャマンの瞳にあふれんばかりの涙を溜めて続ける。
「ぬし様がもう少し早く現れていたら、状況は変わっていたかもしれませぬ。
わっちは、ここ扇屋のお職の花魁。何があっても死にませぬ。どんな女郎に狙われようが、正々堂々退けてみせましょう。それが、女王蜂であるわっちの役目。・・・明日の道中は見て行って下さいまし。」