84・とある少女の帰省
『到着便のご案内をいたします――』
「パスポートのご提示をお願いします」
「はい。どうぞ」
行き交う人々の頭上を耳触りの良いアナウンスが流れていく。
並んだ列でようやく自分の順番が回ってきた少女が前へ出た。
手にした白いハンドバッグの中を探り、目の前のカウンターに差し出す少女。
係員は少女の顔をじろりと見回すと、すぐに様々な検査を行う装置へと少女を促した。
係員がパスポートをチェックしている間、少女は縁のないメガネ越しに腕時計を確認。少し逸る気持ちに手持ち無沙汰な腕を抱いたりと、暇を持て余しているようだ。
ややあって少女がいろいろな検査を無事通過した後、係員が機械的にスタンプを押して少女へパスポートを返却した。
「はあ~……。たった何ヶ月か前に留学したばかりなのに、もう何度往復してるやら……」
少女は大きくため息を吐くと、少し乱れた長い髪を撫でた。
今は長旅のせいでややくたびれているものの、本来だったら澄んだ絹の様な輝きを湛えていたであろう長い黒髪。
狭い座席に縛りつけられて固まった肩に手を当て、少女はグリグリ腕を回した。
汗で胸に貼りついた紫黒色のノースリーブの首元に指を引っかけ、肌の奥深くに食い込んだ生地を剥がしていく。
ターンテーブルを流れてくるたくさんのカバン。その中から自分のキャリーバッグを見つけると、少女は置いて行かれない様に慌ててそれを引っ張り出した。
そうして、少女はいくつもある通路の1つへと、白いスカートを翻して歩き出した。
すらりと長く伸びた手足に、飾り気のない身なり。
少女というには大人びているが、その忙しない所作から垣間見える雰囲気はまだまだ子供と大人の間で揺れ動いているお年頃。
「ミシェル~!」
大きなキャリーバッグを引きずりながら、入り組んだ通路をようやく抜けた少女。
広大な迷宮の様だった空港から出ると、その耳へ風の音に混じって声が聞こえてきた。
「お母さん!」
少女はその呼び声に気づくと、パッと顔を明るくして手を振った。
「どうだった? あっちでの暮らしは。おじいちゃんとおばあちゃんは無茶な事言ってなかった?」
「2人共元気だったよ。ちゃんと向こうの言葉は勉強してたから、会話に不自由はなかったし。むしろ歓迎されすぎてビックリしたくらい」
少女――ミシェルは小走りで母親の下へ駆け寄ると、弾む肩を懸命に抑えながら留学先での出来事を話し始めた。
小走りで駆け寄っていくミシェルを出迎えた1人の女性。
ブラウンのロングワンピースにベージュのカーディガンを羽織り、少々外側に跳ねる癖のついた長い黒髪が風に揺れている。
そんな女性は娘の話に耳を傾け、目を細めていた。
話しながら駐車場に入った2人は、1台の小さな車の扉に手をかけた。
母親が運転席へ乗り込み、開いた荷台へ荷物を押し込むミシェル。
軽いエンジン音を立てて2人の乗った車が駐車場から道路へ出ていく。
「ごめんね。本当はもっと早く帰ってこれればよかったんだけど」
助手席のミシェルは窓を開けながら、ハンドル片手にルームミラーの位置を直していた母親へ話しかけた。
「いいのいいの。やっぱり心配いらなかったもの。もうすっかり元気だし、いつの間にか友達も増えたみたいなのよね」
眉を下げるミシェルに対し、どこを見てるかもわからないくらい細い目でケラケラ笑っている母親。
「……そうなんだ。一時はどうなるかと思ったけど、そっかぁ。まっ、そうだよね」
そんな母親の様子に、ミシェルもくすりと笑って胸を撫で下ろした。
「それより、あなたも向こうでお友達はできた? お姉ちゃんと違って口は達者なのに陰キャだから……」
「陰キャってゆーなぁ!」
ずり落ちたメガネを直しながら、口を尖らせるミシェル。
「お姉ちゃんはアレで意外と器用だからねぇ。むしろ本の虫だったミシェルが留学したいだなんて言い出した時は驚いたものよ。お父さんなんて必死で泣くの我慢してたんだから」
「わ、私だって日々ちゃんと成長してるんですぅ! 今もちゃんと将来を見据えてがんばってるんだから」
「はいはい。いつもよく体を壊してた頃に比べたら、ホントよく無事に大きくなってくれたものね。今は、体は何ともないの?」
「うん。ぜんぜん。おかげさまで立派に育ちましたとも」
ふふん、と鼻息を吹いてその言葉通りになかなかに立派な胸を張るミシェル。
「そういう所がまだまだ子供だ」と母親は失笑した。
「ふふっ。ならちょっとそれ、お姉ちゃんに分けてあげなさいよ」
そんなミシェルに母親もイジワルな笑みを浮かべてそれを指差した。
「や~だ! 唯一お姉ちゃんに勝ってる部分なんだから! これあげちゃったら私のアイデンティティなくなる!」
「そこまで?」
両腕で肩を抱き、体を背けて断固拒否の姿勢を示すミシェル。
そんなミシェルの自己同一性の危うさに、母親はビックリしてハンドルから手を滑らせかけた。
「お姉ちゃんって何でもできるのに、私にはあまり得意なものってないんだもん」
握り締めたシートベルトを揉みながら、具合悪げに目を伏せるミシェル。
「う~ん。まぁ、昔からあなた達は得意な事、興味あるものが正反対だったから、余計そう感じちゃうのかしらねぇ」
気を取り直し、母親はウインカーを出しながら差しかかった交差点へハンドルを切った。
「……でもさ、私が小学生の頃、逆上がりができる様になるまで3ヶ月もかかったのに、お姉ちゃん運動得意だからそういうトコ全然わかってくれないし。どう訊いても逆上がりに謎のキメポーズを挟むやり方しか教えてくれないんだから」
思い出をひっくり返しながら、その散らかった内容に頭を抱えるミシェル。
他にも転がり出てきた姉の武勇伝を並べては母親に同意を求め、また頭を抱えたり眉間を押さえたりと忙しなく表情を替えていく。
「ミシェルだって立派に大学へ進学して、今では留学して様々な知識や経験を積んでるでしょう。十分すごいと思うわ。お母さん」
「むぅ」
ミシェルの愚痴を軽く聞き流して、母親はそんな娘の百面相を楽しみつつ、誇らしげに微笑んでいた。
それでもミシェルは納得できていないようだったが。
「お姉ちゃんは体を使うのが得意。ミシェルは頭を使う事が得意。それでいいじゃない」
「だけど、小学生で世界中の競技総ナメにできてたかもなレベルと比べたらさぁ~」
不貞腐れた口調でしかめっ面をするミシェル。
ミシェルのそんなどこか幼い抗議を聞き、母親は人差し指を顎に当てて少し考える様な仕草をした。
母親がどうフォローしても、ミシェルの膨れっ面は直ってくれそうにない。
そんな子供っぽく拗ねる様子も、母親にとっては可愛らしく見えるもののようだったが。
「……そう言われると、ちょっと惜しい事した気がしてきたわね」
「おか~あさぁ~ん!!」
何やらまじめそうな顔をしてそんな事を言う母親に、ついにミシェルはむくれてしまった。
「冗談よ。ふふっ」
キツネみたいに細い目で母親はクスクス笑った。
窓から入り込む風に髪がはためき、スイッチを探って窓を閉めたミシェル。
「……どうして同じ姉妹なのにこうも違うんだろ」
ミシェルは寄りかかったシートベルトに顔をもたれさせながら、流れていく景色をぼんやりと眺めた。
「あら。お母さんから見たら2人共そっくりよ」
そんなミシェルにかけられた母親の言葉。
ミシェルは窓の外からまた運転席の母親に顔を向けた。
そこには、やはり目を細めた母親が笑っていた。
「ええ~? 自分じゃ全然そうは思えないんだけど」
ミシェルは小さく唸った。意外過ぎたのか、少し笑いさえ込み上げる程だった。
母親の言葉がどんな意味を示しているのか。しかし何度首を傾げても、なかなか望んだ答えには思い至らないようだ。
その悩んでいる様子を見て、母親は満足そうにあっけらかんと答えた。
「2人共私に似て美人に育ったじゃない」
「自分で言ったよこの母親」
どちらともなく、ミシェルと母親は吹き出した。
ミシェルが指で笑い涙を拭い、母親もハンドルを抱えて小さく笑い声を上げていた。
車が長い直線を越え、大きな高架橋へと差しかかった。
ぐんぐん車は高度を増し、道路に沿って掲げられたお店の看板や街路樹を見下ろすくらいになっていく。
たくさんのビル群を追い越し、日に照らされた街並みが視界いっぱいに広がった。
温かく、和やかな空気が車内に流れていた。
そんな雰囲気の中、ふとミシェルが呟いた。
「ていうか、お姉ちゃん。目元お母さんに似ちゃったもんね」
そんな言葉がミシェルの口から滑り出たその瞬間。
「…………」
「しまった」とミシェルは口元を押さえた。
しかし、同時に手遅れである事もミシェルは察した。
ミシェルに向けられた、母親の先程までの笑顔とは打って変わった泥の様なじっとりとした目つき。
心なしかアクセルを踏み込む力が強まった気がした。
ミシェルはうっかり口を滑らせ、「目つき」が母親の地雷である事を思い出していた。
不意に笑顔を忘れた時、今の様なジト目になる母親は何故かそれをとても嫌がる。
それは、父親がうっかりその事に触れて、泣きながら土下座していたくらい大きな地雷。
それを思い出して、ミシェルは急速に下がる車内の温度が気のせいだとは思えなかった。
「それが何か?」
口元だけ笑顔で問いかける母親。
その目つきまでは見れず、視線が泳ぐミシェル。
「いや、なんでも……ほ、ほら、お姉ちゃんもお母さんに似て顔立ちは良い方だよね……って思ってさ! あはは……」
車は高架橋を降り、車内はビル群の影にとぷりと沈んでいく。
急に暗くなったせいか、視界が暗闇に染まって見えなくなった。
母親がどんな顔をしてるか見えないのが余計に心臓に悪い。
冷たい汗が首筋に伝わるのを感じつつ、ミシェルは引きつる顔に必死で「笑顔を作れ」と命令を下した。
必死に身振り手振りを交えながら、背中に浮き出る汗に耐えるミシェル。
そんなミシェルの懸命な願いが天に届いたのか――
「あらそう? うふふ」
――母親の目元はいつもの朗らかな笑顔に戻った。
「……危ない。久しぶりに帰ってきたから忘れてた……。お姉ちゃんといいお母さんといい、そういう所気にしすぎなんだから……」
ホッと胸を撫で下ろしながら、ミシェルは窓ガラスに映る自分の顔――特に目元をじっと見つめた。
それから、母親に聞こえない様に口の中でそっと呟いた。
「お父さんに感謝しよ……」
「そろそろ着くわよ」
なんやかんやありつつも、窓の外に映る景色は替わっていく。
いくつもの交差点を通り過ぎ、何度目かの赤信号に差しかかる。やがてそれも青に変わると、車はとある施設の広い駐車場へと入っていった。
到着したのは白い大きな建物。
その乗降スペースに車は停まった。
ミシェルが車を降りると、母親が窓だけ開けたドア越しに声をかけてきた。
「帰りはどうする? お母さん仕事が終わったら迎えに来てもいいけど」
「ううん。お見舞い終わったら適当に寄り道して帰るから」
「うん。じゃ、お姉ちゃんと仲良くね」
「もうっ。わかってるって」
それだけ交わすと窓はゆっくりと閉まっていき、軽快なエンジン音と共に母親の車は駐車場を後にしていった。
ミシェルは車が見えなくなるまで手を振っていた。
車が角を曲がっても少し名残惜しみつつ、しばらくしてから後ろを振り返ったミシェル。
視界に入ってきたのは「総合病院」と書かれた大きな白い建物。
まっ白い壁に並んだ、たくさんの窓。
その向こうに待っているであろう誰かを、ミシェルは見上げていた。
「……さぁて。元気してるかな」
どんな顔して出迎えてくれるか、想像して緩む口元に気づかぬまま歩き出したミシェル。
「シェリルお姉ちゃん」
病院の広いエントランスに、ちょっぴり弾む靴音が響いた。
これにて「第6章・チェック」完結でございます。
次章、第7章「シェリルのとても長い1日」。
次章はリアル回ならぬ、リアル章。
ゲームの外の世界で肉体の使えないシェリルがどう活躍するのか。あのキャラのリアルはどうしているのか。あのキャラがまさか!? 新キャラのシェリルの妹とは!?
こうご期待!!
…………と、ここで一旦ストップしようかと思ってたんですが、予想外にも次章の第1話がほぼ完成したので、推敲が終わり次第早めに投稿しようかと思います。
たぶん来週くらいに。
お楽しみに!