82・敗者達の晩餐
「うああぁ〜んっ!! ぐやじいぃい〜っ!!」
子供の様に泣きじゃくる声が鳴り響く。
ここは場末の酒場の店内。しかも他の客もちらほらいる中。
なのに、そんな人目をはばからず騒ぎ立てる様子を、酒や料理をつついている他の客も鬱陶しい虫でも見るみたいに眉をひそめていた。
その発生源はテーブルに突っ伏している、カラスの様に黒い髪とコートをまとった……どう見ても子供じゃない女性だった。
「るっせぇなッ! ガキみてぇに喚くんじゃねぇ! ただでさえクソ不味い酒が余計マズくなんだろうが!」
怒鳴りつけたのは同じテーブルに着いていた赤い髪の男。
男が酒の入ったジョッキを木のテーブルに叩きつけると、女の泣き声にも負けないくらい大きな音が店内を震わせた。
周囲の客を気にもとめず喚き散らす2人。
そのあまりの剣幕に、しかしそれを咎めようと立ち上がる者は出てこない。
装備品からも2人がかなり高いレベルにいる事がわかるのもだが、皆この2人があまり関わりたくない人物だと知っていたからだ。まぁ、色んな意味で有名人だったのだ。
ふとそんな中、額を突き合わせる2人に割って入ったのは、青いドレスの女。
「2人共お静かに。食事は静かに、上品にするものですよ。それに、今最も心を痛めているはこの戦いを思い立ったマスター・ガーチに他なりません。それを差し置いて騒ぎ立てるなど、まったく……無様極まりない。そうでございましょう?」
2人とは対称的に静かなツンと澄ました顔に呆れた色を浮かべながら、青い女は隣のテーブルから後ろの2人へと振り返ったのだった。
「ウルレイテ! お前も飲めよォ! おい! オレにももう1杯だァ!」
「はいっ。喜んで」
背後から響いた野太い大声に、ウルレイテと呼ばれた青いドレスの女は声の方へとさっと振り戻った。
元より言い争う2人への興味など、さして無いようだ。
声の主はウルレイテのテーブルに同席していた、テーブルいっぱいの料理と酒にがっつくワニ顔の男。
うまいうまいとのたまいながら、とても味わっているとは思えない食い散らかし様。
ウルレイテは一瞬でくるりと表情を切り替えると、嬉しそうに酒の入ったジョッキを受け取っていた。
そんな様子を眺めながら、赤髪の男は溜め息を吐いた。
「……アレのどこが何を痛めてるってんだ」
「まっ、リゴウ。お前は悲惨だったよなー。ちょー……ぉ格下のおチビさんにボッコボコにされた挙げ句、デスペナで靴無くなっちゃったんだもんねぇ〜。あははっ」
さらにそんな赤髪の男――リゴウの様子を見て、黒髪の女はゲラゲラとちゃちゃを入れた。今の今まで泣いていたのがウソのようだ。
リゴウを見ると、高価そうな装備に身を包んでいるのに、足だけ不格好にも裸足だった。
「っるせぇ!! ラゼ!! さんざナメプした挙げ句殺られたテメェに言われる筋合いはねぇっ!!」
分厚いテーブルを紙くずの様に蹴り上げ怒気を放つリゴウ。
「おお? やんのか弱虫リゴウ〜。まぁ、ガーチやゼフォンに比べたら物足りないけど、相手してやってもいいよ」
それに対し、ヘラヘラ笑いながらもいつの間にか気配も悟らせず立っていた黒髪の女――ラゼ。
2人の周囲にだけ刃でできた檻でも現れたかの様に、張り詰めた空気が立ち込める。
まるで絡みついた鎖を引き千切らんとする獅子のごとく猛り狂うリゴウ。身動ぎひとつで床が抉れ、食器や酒瓶がカチカチと震え出す。
そのあまりの剣幕に、先程まで横目にチラチラと見ていた他の客も、食べかけの料理を放り出してまで逃げ出す程だ。
「さしもの赤龍リゴウも子供には優しかったんだねぇ〜。そんな甘っちょろい奴だなんて意外だったよ」
そんな火炎の様な怒気に当てられてなお、ラゼは笑ってリゴウを挑発した。
それを起爆剤にリゴウが爆発するかと思いきや。
しかしリゴウの怒気は、何故か水をかけられた様に大人しくなったのだった。
「このクソボケ……ッ! あのチビは特別だ! 普通のチビにこの俺がまんまとやられると思うか!? 奴は……! 奴は――」
リゴウの振り上げた腕に弾き飛ばされた酒瓶が、首を傾けて避けたラゼの髪を掠めて壁に当たって砕け散った。
完全な八つ当たり。怒気は燻っているままだ。
だが、燻ったままのそれが、言葉として紡がれない。
「奴は」と口にしてからその先が、食いしばった歯の隙間から出て来ないのだ。
握った拳に爪が刺さる程の思考。
逡巡。困惑。苛立ち。激情。
あらゆる感情が渦巻く中、リゴウはその正体を形作ろうとしていた。
そうして、リゴウは対峙した相手の姿を脳裏に描き出し、ついに言葉として形作るに至った。
「奴は……闘いに取り憑かれた悪魔かなんかだ……。徒手空拳の鬼。そうだ、『拳鬼』だ……ッ!!」
血が滲む様な声と共に、ようやくリゴウがたどり着いた答えは絞り出されたのだった。
そんな緊張感に震えているリゴウを、ラゼは半分呆れた様な目で眺め訝しんでいた。
「ふ〜ん。何それ。言い訳にしちゃ芸がないな」
「……それに俺だけじゃねえ。ガディンの野郎も奴にやられてんだ」
ラゼの緊張感に欠けた返事にイラッとしながらも、リゴウはそれを舌打ちだけに留めながら視線をある方向へと向けた。
「ガディンって、あのずっとすみっこで縮こまってるデカいやつ?」
ラゼもそれを追って、汚い物でも指す様に指先を向けた。
そこは他の喧騒と切り離されたかの様に空気が暗く沈んでいた。
「あ、あの娘だ……! あの親子の……! あの娘だ……! あの……!」
店内の端で両膝を抱えながらブルブルと震えている、ライオンの獣人の姿がそこにあった。
「ああ。町に死に戻ってたのを見つけて引きずってきたんだが、ずっとあの調子だ。余程の目に遭ったに違いねぇ。おいガディン! ……ちっ。野郎。いったいどうしたってんだ」
呼んでも返事はなく、リゴウは舌打ちした。
その百獣の王らしからぬ有り様に、かつてリゴウが知る勇猛なガディンの面影はない。
「そういえば……ソイツともう1人、城の外を見張らせてたヤツがいなかったっけ?」
「あ? ああ……そう、だな? 確か……名前なんつったか……。黒い格好した……ダークルーラーの。ホラ、お前知ってんだろ」
「さあ。忘れた」
首を捻る2人。
だが、さして深く考える事もせず2人はその人物を思い出す作業を諦めた。
「チッ! とにかく、あの化物みてぇなチビがやり合ってるのを見てるヤツが他にもいるはずだ!」
「ふーん……。おい、エロジジイ。どーせ得意の逃げ足で最後までいたんでしょ? 私達がやられた後何があったか、そのチビとやらの事も教えてよ」
ラゼは顎に指を添えて視線を上に向けると、ふと背後を振り返って掌を突き出した。
それで、背後から忍び寄っていた小さな影を鷲掴みにして食い止めた。
「ぐぬぬ! おのれゼフォン……あの裏切り者めェ! あと少しであの娘にあんな事やこんな事までできたというものを〜ッ! ゆ、許さん! 許さんぞォッ!」
ラゼが掴んだのは小柄な老人の額だった。
禿げた頭に青筋を走らせながら、その手は何故か探る様にラゼのコートから伸びる脚に向かっている。それもいやらしく蠢きながら。
まぁ、額を押さえられているのもあって、その短い手足が届く事はなかったが。
「このまま額に穴を開けてやろうかな」
「話訊くんだろうがバカ。殺すのは後にしやがれ」
掴んだ額に食い込む程指に力を入れて冷たく見下ろすラゼと、それを諌めるリゴウ。
「元々この戦いはワシとゼフォンめに最後の詰めをさせる前提で組まれたものじゃった! なのに、奴め。ことごとく王を殺す機会を見逃し、妙な小娘なんぞにこだわりおって! 何より卑怯にも背後から味方のこのワシを殺しおった! 断じて許せん! ラゼ、リゴウ! ワシの代わりにアイツ殺してくれんかの?」
「自分でやらねぇのかよ!」
半分呆れながら声を荒げるリゴウ。
「はぁああっ!? 逃げ足だけのお前が最後の詰めとか、私聞いてないんだけど!? ああーっ! 通りで、何でこんなヤツを連れてったのかって思ってたんだ!」
ラゼは声を荒げて額を掴んだ手に力を入れたが、ふと目を伏せ「チッ」と舌打ちした。
「……それについてはまぁいいや。……なぁ、ベロムート。その小娘とやらは“あのゼフォン”と渡り合ってたって事かい?」
「ったりめぇだ! 俺とやり合えるヤツだ。野郎ともガチでやれるに決まってんだろうが!」
話題が“小娘”とやらに移った事で、エロジジイことベロムートを差し置いてリゴウが拳で掌を叩いて怒鳴った。
なのに何故かちょっと嬉しそうだ。
「お前には訊いてないし」
「ブッ殺――」
目を吊り上げるリゴウを手で遮り、ラゼはもう片方の手で押さえたままのベロムートを見下ろした。
「で、お前その小娘がどこの何者かは知ってる?」
「知らん! ワシはもっと肉づきのいい方がタイプなんじゃ」
期待外れな返答に、ラゼはやれやれと頭を振って溜め息を吐いた。
「あ。そういや、ガディンの野郎。ゼフォンとはリアルでも顔見知りだとか言ってた気がするぜ。ゼフォンに訊けば何か知ってんじゃねぇか? ガディンがこうなっちまったワケもよ」
ふとリゴウから飛び出した思わぬ手がかりに、ラゼは小躍りする様に腕を振った。
巻き添えでベロムートは飛んでった。他の客のテーブルに乗り上げ、食器を巻き込みながらテーブルの向こうに落ちて消えた。
「マジ!? たまには冴えてんじゃん! 早く言えよ〜! で、ゼフォンは?」
目の上に手で庇を作ってキョロキョロと辺りを見回すラゼ。
しかし、目的の人物の姿はどこを探してもない。
「ゼフォンならとっくに帰ったぜェ。おい、アイツの分の酒残ってんだろ? お前らァ、ウルレイテの奢りだァ! 遠慮しねェで飲んでけよォ!」
しばし目的の人物を探していたラゼに、横からガーチの声が差し込まれた。
そのガーチに促され、スッと立ち上がったウルレイテが取手を掴んで無造作にジョッキを2人に突き出した。
もう一度言うが、取っ手はウルレイテが持ってる。
無表情で、ガーチに向けていた喜色は失せている。「さっさと受け取れ」とでも言いたげに。
まぁ、ウルレイテの興味はガーチ以外全くないのだ。
ラゼはそんなウルレイテの態度を気にする事なくジョッキの側面を片手で掴むと、一気に煽った。
そして泡立つ酒を飲み干し、大きく息を吐くと、リゴウを指差した。
「このバカリゴウ! 思い出すのが遅いんだよ! 役立たず! バーカバーカ! おかわり!」
ラゼは空になったジョッキをテーブルに叩きつけた。
キーキー喚き、子供の様に手足を振り乱して暴れるラゼ。
「テンメェ……ッ!! うおっ!?」
「んわっ!?」
額に青筋を立て、赤い髪を怒りで逆立てたリゴウがまたも拳を振り上げようとした。
だが、寸前で大きな腕がリゴウとラゼの2人の肩に覆い被さってきた事で不発に終わった。
仲良く肩を組まれ、2人は顔を寄せながら大きな腕で自分達を掴まえるワニ顔を見上げた。
「そのちっこいのは、先週リグハイン砦で決闘狂をぶっ倒したっていう動画の主役だそうだァ」
ガーチは牙の隙間から覗く何かの骨をバキリと噛み砕くと、その鱗に覆われた口元を楽しそうに引き上げた。
それと、恨めしそうにこちらを睨むウルレイテに、リゴウの頬がちょっぴり引きつった。
「まァ、オレもさっき聞いたばかりなんだがよォ。ソイツだけじゃねェ。あの大鎌使いも大したもんだったァ。ラゼ。お前ェを殺った女も面白え奴だったろォ?」
「……まぁ、そうかもね」
直接自分を倒した相手について侮った果てに返り討ちにあったのもあり、ラゼは口ごもりながら目を反らした。
けど――
「いいケンカだったァ」
――そう笑うガーチに、ラゼも複雑そうにしながらもちょっぴり口元を綻ばせていた。
「アンタはあの王とガチでやれたから満足だろうがよ。結局は……負けちまったじゃねぇか。……ああクソっ! あれだけ苦労してたどり着いたってのに! 思い出したらまたムカついてきたぜッ!」
歯を噛み鳴らして不満を漏らすリゴウ。
「まだまだオレらの知らねェ強ェ奴ァたくさんいるってこったァ。むしろ面白ェじゃねェかァ」
「……まぁな。あのゼフォンにしたっていったい何者なのかわかってねぇしよ」
ゲラゲラと笑いながら、新たにウルレイテの差し出した骨付き肉を骨ごと噛み砕いて飲み込むガーチ。
バリバリと咀嚼を続けるガーチの話を聞きながら、リゴウは考えが絡まった頭をガシガシ搔いた。
「そうそう。ガーチが負ける程の奴だってのに、今まで噂すら聞いた事ないけど」
目を細め、ラゼもリゴウとガーチの間で視線を往復させながら続きを促した。
「オレも知らねェ。ちっと目についてケンカ吹っかけたら、なんやかんやで計画に誘ったァ」
ガーチのあっけらかんとした回答に、ラゼはケラケラと笑った。
「結局アイツが何者なのかはだ〜れも知らないワケね。つーか、よくそんな素性のわからない奴にいきなり極秘作戦持ちかけたよね。ガーチのそういうトコ好きだけどさ」
「わたくしの方がマスター・ガーチを好きです」
張り合うウルレイテ。
面倒くさいのでラゼは無視した。
「だがよ。そのゼフォンでも負けた……。機械みてぇに理詰めで戦う様な感じだったろ? ゼフォンってよ。あのチビがいくら強えぇっつっても、隙なんか見せるたぁ思えねぇが……」
リゴウが腕を組んで唸ると、ラゼは「お前が言うのかよ」という言葉をなんとか飲み込んで、話を見守った。
「ガァッハッハッハァッ!」
すると、リゴウの言葉を遮ってガーチの笑い声が上がった。
「ヤツァそんなつまんねェヤツじゃねェさァ。きっと、ヤツにも譲れねェモンがあったんだろうよォ」
そうしてウルレイテの差し出した骨付き肉のおかわりをバキリと噛み砕き、ガーチは店の端で客相手にクダを巻いているベロムートを一瞥した。
「ま、今回はうちらの完敗って事で。あ〜あ。こっちは陣営全体を動かすってんでかなり無茶もしたんでしょ?」
ラゼはスルリとガーチの腕から逃れると、頭の後ろで手を組みながら目をつむった。
片目だけ開けてガーチと、その傍らに控えているウルレイテに視線を向けながら。
「此度の支出で|クローズドガーディアン《絶対守護領域》の総資産の295%を消費いたしました。足りない分は借金で賄っております」
「つ、使いすぎだろ!? 何考えてんだテメェ!!」
「バカだ! あっははは! 面っ白え〜!」
ウルレイテによってサラッと告げられた全財産に対するアホらしい比率。キレ気味に呆れるリゴウと、対称的に腹を抱えて笑い出したラゼ。
2人の反応に自分で言った――いや、やった事を棚に上げて不満気に整った顔をしかめたウルレイテ。
「2人共、先程から不敬が過ぎますよ!」
「つーかテメェも止めろや! クランの金はテメェが管理してんだろうが!」
「全てはマスター・ガーチの御心のままに」
「ケンカに……たかがケンカにそこまでするんだから! くくく……っ! や〜、こうも笑わせてもらっただけでも、お前らと会えてよかったよ。まったく」
リゴウもガーチの腕を振り払い、今度はリゴウとウルレイテが額を突き合わせて睨み合いを始めた。
ラゼはさらに腹を抱えて床を笑い転げ回り始める始末だ。
そんな混沌とした、緩み切った空気が漂う中。
それを打ち砕いたのは、その空気を作った張本人だった。
「これで、やっと『黒城』の連中も動き出すだろうよォ」
ガーチがそう言った瞬間、緩んだ空気が急にガラスの様に固まった。
「黒城」。その名前を聞いた全員が石のごとく口を閉ざした。
「マ……マスターガーチ? 王国の首都を攻めたのは、ひとえに黒城に先んじて敵の王を獲り、魔王軍勝利という栄光を我々|クローズドガーディアン《絶対守護領域》の手で掴む為では……?」
ようやくしばしの時を経て最初に口を開いたのは、ウルレイテだった。
その顔は明らかに狼狽し、ガーチに差し出そうと準備していた酒のジョッキがガタガタ震えながら中身を零している。
「テメェ……。最初から……」
リゴウは牙を噛み鳴らし、先程までですら見せなかった形相でガーチを睨んだ。
ガーチの言葉を聞いた瞬間、リゴウは瞬時に理解した。
自分達で敵の王を倒し、陣営に勝利をもたらす。
その為に無名の強者ゼフォンを囲い込み、王国陣営の地へと発った。
しかし、あらゆる手を尽くして準備した作戦は失敗に終わった。
ただ、これでゼフォンという未知の強者の存在を多くの人々が知る事となるだろう。
|クローズドガーディアン《絶対守護領域》と黒城は長い間対立関係にある。
その競合相手がそれ程の切り札を隠していた事を知れば、どうするか。
最強を自負している者達はどう動くだろうか。
「これから面白くなってくるぜェ。オレ達もこのまま指を咥えてるつもりはねェ。さァ、次の戦いはもっと派手にいこうやァ!」
ジョッキを煽り、乱暴に口を拭いながらガーチは楽しそうに喉を鳴らした。
全ては魔王軍陣営の勝利の為。
いや、もっと派手に。もっと楽しい戦いを始める為に。
つまらない駆け引きや内輪での対立。王国軍との戦線の膠着状態。
その全てをブチ壊して戦況を一気に動かす。
混沌としたもっと燃える様な争いを、ケンカ好きにはたまらない舞台を作り上げる為。
そうして最後に勝利の栄光を手にできれば御の字。
勝利の栄光すらその為の餌として使う。
それが、ガーチの目論見なのだった。
「さ、さすがは我らがマスター・ガーチであらせられます! わたくし共では到底うかがい知れぬ深淵を見通す慧眼! 自らの名誉などではなく、陣営全体の未来を見据えておられたのですね! ああなんて……なんて素晴らしいのでしょう! さあ、そこの……えと、名もなき者共よ。平伏しなさい」
「テメェ、ホントにガーチのダンナ以外興味ねぇんだな!」
先程までの狼狽が嘘の様に胸元で手を組み、感極まったウルレイテは染みのついた酒場の床に微塵も躊躇なく跪いていた。
それから、ついでにまるで気づいてやるのすら慈悲であると言わんばかりに、リゴウとラゼを一瞥して吐き捨てた。
最早リゴウも怒る気力も無くし、何とかツッコんだだけでそれ以上はやめた。
魔王軍の酒場の夜は更けていく。騒がしく、賑やかに。
そんな喧騒を背に、暗闇に溶け込む黒いコートをまとった女は夜の町へと消えて行こうとしていた。
「どこ行くんだよ。テメェ」
ほとんど気配を感じさせず歩く女だったが、不意にその背後から声が投げられた。
女がため息を吐きながら面倒臭そうに振り返ると、暗闇に浮かび上がる赤い髪の男が自分を睨んでいるのを見た。
「帰って寝るんだよ。みっともないし、人の事つけ回すなよな。キモいぞリゴウ」
女――ラゼは長い黒髪をかき上げながら後ろに立つリゴウに視線を返した。
面倒臭い。
元々群れるのが不得意な集団だった。
その中でもずっと1人で、1人が気楽であったラゼにとって、その習慣を邪魔されるのは正直迷惑だった。
一言返事をして、次の言葉を考えるのも億劫でしかない。
だが、ラゼが言葉を考えるまでもなく、勝手にリゴウが続きを始めたのでその手間は省けた。
「旦那のクソボケ。黒城を釣る為のダシに俺らを使いやがってよぉ……ふざっけんなッ! ナメやがって!」
言いながら側にあった家の壁を殴るリゴウ。
地震の様な轟音が鳴り響き、地面が揺れ動く。
そのせいで家の中が少し騒がしくなった。
「夜中に近所迷惑だろ。駄々をこねるなら1人でやれよ」
歯軋りしながら息を荒げているリゴウを眺めながら、ラゼは冷めた口調で腰に手を当てた。
「テメェも気に入らねぇと思ったクチだろ。わかってんだよ。テメェがあんな風にコケにされて黙ってる奴じゃねぇって事くれぇな!」
声を荒げ、壁を殴った拳をさらにめり込ませるリゴウ。
酒場ではかろうじて抑えていたものが、また思い出したせいで吹き出したようだ。
激しく苛立ちを拳で表現していたリゴウを、反面ラゼは冷めた目で静かに見ていた。
しかし、リゴウの言葉にラゼの足はその場を離れようとしないままだった。
「……まぁ、腹は立つな。オマケにあのエロジジイにすら役割で出し抜かれてたなんて……ホント、マジで腹立つや」
冷静に、自嘲気味に笑うラゼ。
だが、その腹の内は冷めた目に隠しきれない程、リゴウにも負けず劣らず煮えたぎっていた。
「俺にも一枚噛ませろ」
話しかけられた事には心底面倒臭く考えていたラゼだったが、その投げられた言葉には少し目を瞬かせた。
「『FPSの覇王・鴉羽』。俺も格闘ゲームの王者として鳴らしてた男だ。テメェ、このままガーチの掌で転がされたままなんて、ガマンならねぇだろ?」
ゲームしか取り柄のない……誰が言ったか、「強くなる為にゲームに全てを捧げた」なんて、バカらしいと思いながらも同意せざるを得なかった台詞を思い出した。
その果てに、1つの道を極めた事を誇りに感じていた。
他者からの評価。それ以上に、己の築き上げたプライドをコケにされたと感じたのが、何よりこの怒りを煮えたぎらせているのだから。
短気で荒っぽいリゴウに乗せられるのは癪だと思う反面、口元に浮かぶ笑みはラゼの心を正直に映していた。
「あははっ! お前も物好きだよね。だけどついて来れるの?」
「ナメんな! テメェこそ呆気なく死ぬんじゃねぇぞ! さっさと行くぜ!」
星が瞬く夜空を仰ぎ、ラゼは心底楽しげに笑い声を上げた。
リゴウもまたニヤリと口元を引き上げ、その隣に並んで歩き出す。
両者共に暗闇の向こうに待ち受けるものを見据えて。
「じゃあ、いっちょ黒城に殴り込みに行こうか!」
再び相見える相手を思い浮かべながら、夜空には2人の笑い声が響いていた。
次回投稿は1月22日午後8時予定です。
次回第83話『元傭兵の成れの果て』
お楽しみに!