74・キス魔の鴉羽
「いや~。死ぬかと思ったけど、貴重な体験させてもらったね~」
屈託のない笑顔で楽しそうに頭を掻いているのは、ビスレだった。
「そ、そう……」
すっかり元気そうなその様子に、苦い笑みを浮かべる私。
死んだと思って落ち込んでた私だったが、なんと無事に戻ってきたビスレ。
肩透かしを食らった私の心中は何とも複雑だった。
何があったかと言うと――
「ビスレ……」
外、遥か下方の庭園へと落ちていったビスレ。
私が床の縁から身を乗り出しながら、俯いていた時だった。
「もしもーし。ビスレ無事か? よーしよし、今から引き上げるから待ってなさい」
「へ?」
急に投げられた声に、私の口から間の抜けた声が漏れた。
肩を落としていた私の横から顔を出したのは、ヒューイの濃いヒゲ面だった。
実はリゴウと共に落下したビスレだったが、ゴム化していたおかげで全くの無傷だったそうだ。
打撃に対して無敵だとはいえ、ぶっつけ本番で飛び降り自殺まがいの暴挙に出るだなんて、肝が据わっているにも程があると思った。
だけど、そのビスレの勇気のおかげで勝てたのだ。
私は心の中で頭を下げた。
ただ、【斬属性】や魔法の攻撃に対してはめっぽう弱くなってしまうという裏側もあるそう。盾や鎧までもフニャフニャになってしまうというんだから、まぁ仕方ない。
リゴウに気の爪による斬撃や、火属性の気功波を使われていたら一巻の終わりだっただろう。ここはほとんど賭けだった。
そのリゴウの方は確かに昇天したと、ビスレがしっかり見届けてくれた。レベルも上がったみたい。
アルテロンド王城は、街の外のレツト平原からでも見える程の高層建築物だ。
高い城壁に囲まれた街の中心にそびえる城だが、その城壁越しにも頭抜けてよく見えたものだ。
その最上階にこの玉座の間は位置している。
そんな超高層ビルも真っ青な場所から転落したのだ。いくらリゴウとはいえ無事ではいられなかったようだ。
重りの柱に結ばれ、外へ引き込む為のロープ。
あれもソディスの秘密道具の1つだったらしい。
『ラクラクバンジー』。
好きなタイミングで長くも短くもできる伸縮自在の魔法のロープ。
収納時は掌サイズの10センチから、最大1キロメートルまで自由に調節可能というから驚きだ。
なんでも、ソディスがふと「バンジージャンプをしたくなった」から発明したらしい。
確かにエレベーターみたいな使い方で降りてもすぐ上に戻れそうだけど。
ただ、ゴムみたいな柔軟性は無い。
ソディスは1回しか使わなかったそうだ。
そもそも何故ゴムロープを作らなかった。
なんとか柱からそれを外し、伸ばした反対側は予めヒューイが上で確保していた。
そうして、ヒューイの重さを打ち消すアイテム効果と私達で力を合わせ、奈落の底からビスレを無事に引き上げる事ができたのだった。
「俺もバンジージャンプはもういいな……」
ビスレは空の彼方を見詰めながらボソリとそうこぼした。
いや、ビスレのはバンジーですらない。重りを付けてから突き落とすなんて、むしろ事件だ。マフィアだってやらない。
とはいえ、これら数々の発明品のおかげで危機を乗り越えられたのは間違いなかった。
「それもこれもジノ君の作戦のおかげさ! まさかこんな素晴らしいアイテムがあると知っていたなんて。そして、その効果を活かした作戦をこうも上手く成功させるとは! すごいぞ!」
やや興奮気味にジノを見詰めるのは聖職者の格好をしたヒゲ面の男、ヒューイだ。
ヒューイはしゃべりながら、モジャモジャと茂る口ひげをペロリペロリと舐め上げている。癖だろうか。ちょっと目につく。
私の視線に気づいたらしい。きゅっと顔にシワを集めて目を細めるヒューイだけど、どうやらウインクは下手なようだ。
その熱い視線に、私とジノは少し頬を引きつらせながら目を反らした。
もちろん、ヒューイに悪気はない。だけど、その濃いビジュアルはジノにはちょっと負担が大きいようだ。私も、その……反応に困る。
そのヒューイの背中にあった白い翼はもう無くなっていた。
どうやら使用に限界があるそうで、軽くした合計総重量が3千キロを超えると消滅してしまうんだとか。
それ以外にも、一定時間が経過しても消滅するという使い捨てのアイテムなんだそう。
ソディス曰く原材料も乏しく量産はできない試作品だったとの事。
「……別に、いつもソディスのヘンテコな発明品を最初に自慢されるのはボクだからな。一通りその効果を覚えてただけさ」
目をつむり、ジノは呆れた様にため息を吐いた。
だけど、一通り全部覚えてる辺り、内心凄く嬉しそうにはしゃいでいたのだろうと想像できる。
と、私がジノを見てほのぼの目を細めていたら、ジノに睨まれた。
「コホン。で、なるべく相手の意表を突けそうな物と組み合わせを挙げて、それをソディスに渡してもらったって訳」
そう言いながら、ジノは崩れかけた床で傾く玉座を一瞥した。
その玉座では、ソディスが頬杖をつきながら視線だけこちらに向けていた。
もしかしてあれ、まさか怖くて動けないのか? いや、そんな訳ないか。
城門での戦闘で敵がやっていた様に、近距離のプレイヤー同士はウインドウを通してアイテムの転送が可能だ。
何もしてないと思ってたソディスも、ちゃんと私達の勝利に貢献してくれていたんだな。
元々ジノの作戦は私がリゴウを引きつけ、隙を突いてレベルの高いビスレとヒューイがダメージを与える。
これが私の聞いていた内容だった。リゴウとの戦いだけに集中できる様にと、その後の詳細は省略されていた。
実際はその時点ではまだ作戦が未完成だったんだと思う。
ジノはビスレとヒューイにも相談し、そこで2人のステータスやプレイヤースキルを考慮。最も勝算がありそうな戦術を考えたんだろう。
ビスレの最初の襲撃が失敗したのも、2回目の本命の成功率を上げる為の布石。
一度迎撃していたリゴウにまた同様に対処可能だと先入観を与え、ゴム化という奇策への思考を削いだのだ。
ステータス。特に攻撃力で劣る私達では、確かに城外に追放するのが1番理に適っていた。
それを成功させただけでも凄いのに、1人の犠牲も出さずに事を成し遂げたジノの作戦立案センスは大したものだと思う。
アイテムの効果だって、作ったソディスもここまで応用が利くとは想定してなかったはずだ。ソディスは正反対に全く戦闘センスからっきしだし。
元々戦闘において広い視野を持っているとは思っていたが、ジノはきっと将来良い参謀になれる。
「まだシェルティが戦ってる。行こう」
私が促すと、ジノ、ビスレ、ヒューイも頷いた。
私達は未だ激闘を繰り広げているだろうシェルティの下へ向かって走り出した。
「ありゃ。リゴウのやつ、やられちゃったか」
長い袖で口元を隠しながら喉を鳴らしているのは、黒いコートをまとった女。
「お仲間がやられたってんだ。もう少し悲しんでやったらどうだ? 俺達にゃ嬉しいニュースだけどな」
頬に余裕の笑みを貼りつかせているネスト。
笑みに反して、その全身は傷だらけ。肩で息をし、ラゼに向けた剣の切っ先も重さで下がるのを何とか食い止めている状態。
虚勢で作ったハリボテだ。
それでも、隙を見せたら死ぬ。それだけは今も目の前の相手から受ける、肌を刺す感覚で理解していた。
「まぁ、仲間って程仲良くしてた訳でもないし。リゴウのやつはあれで怖がりだからなぁ。デスペナがエグい龍人族は肝心な所で逃げ腰なんだよ。まったく、もっと私みたいに気楽でいれば、アイツもあんな弱虫にはならなかっただろうにね」
仲間を弔う気配など微塵もなく、腰に手を当てて大きく笑い出したラゼ。
「……いけるか? アスタルテ」
そんな様子を視界に収めつつ、ネストは密かに傍らの相棒に声を投げた。
「……ネスト。これ以上は足手まといです。ミケ達と合流して下さい」
しかし、返ってきた反応は芳しくない。
アスタルテは左脚の大半を赤い傷痕に覆われ、重く引きずっていた。
それでも弓に矢を番えて力の限り弦を引き絞っている。
最早満足な歩行も困難な状態。ネストの隣に並んで戦いに赴こうとしている姿は、既に死の気配を漂わせていた。
「バカ言うな。仲間を置いて逃げるなんて俺の美学に反するっつーの」
「おーおー、かっこいい~。私も言われてみたいな~。そんなセリフ」
パチパチと手を叩いて笑うラゼ。
「じゃ、そのステキな美学を貫けるかどうか、がんばってみてよね!」
そして、体を低くしたラゼが前へ駆け出した。
「第一、お前抜きでアレと俺が戦えると思ってんのかよ? 間を取って2人で逃げるぞ! キャンディーを呼べ! 一緒に乗せて、アスタルテ!」
一瞬前にかっこいい事を言ってたのが嘘みたいに、ネストはさっさと背を向けて逃げ出した。
「わかりました」
すぐにアスタルテも踵を返し、敵の射程距離外の上空で旋回し続けていた従魔を呼ぼうとした。
「甘い甘い!」
逃げるネストの背中に、ラゼの向けた掌から鋭い雷が射出された。
とっさに横へ跳んで間一髪それを避けたネスト。
「くっ!」
目だけは一瞬たりともラゼから放さなかったおかげだ。すぐに体を翻して次の攻撃に備えようとしたネスト。
しかし、一瞬たりと放さなかったはずのラゼの姿が、ない。
「ネスト!」
突如思考に割って入ったアスタルテの声。
「こっちこっち」
突然、ネストの視界いっぱいを覆った一面の黒。
「うっそ!?」
それは、触れそうな距離で覗き込むラゼの黒い瞳。
それよりネストの目を引いたのは、その主の掌に集まった雷の閃光だった。
喉から頭蓋へ抜ける軌道を取った雷を、かろうじて挟んだ剣先で弾く事ができた。
しかし直後、ネストの横面に振り上げられた黒い靴がめり込んだ。
「うが……ッ!」
魔法職のラゼといえど、30ものレベル差による蹴りは同レベル帯の格闘職のそれを優に凌駕する。
真横に宙返りしながら側頭部から床に激突し、ネストは崩れ落ちた。
舞う様に高く蹴り上げた脚を回し、音もなく地に降りたラゼ。
「ネスト!」
「ピアッシングサンダー」
弓に矢を番えたアスタルテに対し、ラゼはさらに向けた右手から鋭く尖った雷を撃った。
「――ッ! キャンディー、ダメッ!」
迫る雷の向こう。アスタルテの視界に入ってきたのは、上空から急降下してきた従魔の姿。
そして、その従魔に向けてラゼが左手を空高く掲げていたのだった。
右手と、左手からも撃ち出された雷の槍。
2方向同時に放たれた雷はアスタルテの無事だった方の脚と、頭上からラゼめがけて急降下していたワイバーンのキャンディー、その右翼を串刺しに貫いていった。
ラゼの攻撃の瞬間、死角からその隙を突いて襲いかかったキャンディー。
魔法を放ち、無防備だったはず。だが、襲撃に反応して動いた左手に、アスタルテが制止をかけたのだった。
その結果、アスタルテは両足から崩れ落ち、キャンディーもラゼの背後に墜落。砂埃を上げてアスタルテの側に転がっていた。
「……アインホル――」
「抵抗しなければ、楽に終わらせてあげる」
蹴飛ばされ、番えた矢ごと手を離れた弓。
武器を失い床に座り込んだ姿勢のまま、アスタルテはその相手を見上げた。
真横に飛んだ弓が地面との間で甲高い擦過音を奏でて転がっていく。
それを一瞥する事すら許さぬ様に、ラゼはアスタルテの前に立っていた。
「便利でしょ、二撃同時魔法。これが私のユニークスキル『デュアルキャスター』さ」
伸ばした指先をピストルの形に真似て、アスタルテの額に優しく触れるラゼ。
酷薄な、しかし慈しむ様に柔らかに、ラゼは軽く微笑んだ。
額に突きつけられた指先に、アスタルテはただその威容を見上げていた。
「二撃同時……それだけでなく、各魔法の熟練度も上げてクールタイムとチャージタイムを短縮している。極限まで追究された速射性能……それがあなたの戦闘スタイルですか」
「まぁね。じゃ、バイバイ」
額に触れる指先に込められた力が強まった。
「っンの野郎! 離れろ!」
そのラゼの背後から振り下ろされた剣。
しかし、その攻撃を嘲笑う様に、ラゼは後ろへ飛び去った。
「惜しい。あとちょっとで撃てたのに」
「……逃げるのも無理って。詰んでね?」
アスタルテを庇いラゼとの間に滑り込んだのは、蹴られた頬を赤く染めたネストだった。
その2人から少し離れた場所に、ラゼがフワリと舞い降りた。
「ネスト……。最早策は尽きました。ミケ達と合流を」
床に座り込み、残った腕で動かない脚と体を支えるアスタルテ。
最早状況は絶望的。
ならば、せめてネストには逃げる事だけに専念してもらいたいのが、アスタルテの出した結論であり希望なのだろう。
しかし、ネストだけを離脱させようにも、アスタルテにそれを支援する力がどれだけ残されているのか。
苦々しく歯噛みし、アスタルテはネストの背中を見上げた。
だけど――
「悪ぃアスタルテ。もうひと踏ん張りしてくんねーか? 頼れるの、お前しかいねーんだわ」
そのネストの口から出たのは謝罪。
だが、その込められた感情は、アスタルテの心中にあるものとは違った。
絶望的な状況にあるにも関わらず、まだ勝利を諦めていない。
その眼差しはただ、前を見ていた。
「……!」
顔に深い影を落としかけていたアスタルテだったが、不意に投げられたネストの言葉にハッと顔を上げた。
「4分26秒、稼いでください……!」
そして、告げた数字にネストがかすかに笑い、再びラゼに剣を向けた。
「作戦会議は終わったぁ?」
腰に手を添え、込み上げたあくびを噛み殺すラゼ。
隙だらけだが、それが余裕から来るものだという事はよくわかっている。
わかっていて尚、ネストはラゼに向かって駆け出した。
「ああ、だけど俺達だけじゃ不公平だろ? そっちも仲間とお話してきてもいいぜ? もっとも、話せるだけの仲間がいるんならだがな」
剣を振りながら、いつもの調子で返すネスト。
「う~ん。仲間、ねぇ……。10日も一緒にはるばるここまで旅してきた仲だけど……急遽集められただけの連中だったし、私含めて協調性なんてカケラもない奴らばかりだったからなぁ。まっ、まともだったらこんな荒業できないよね」
顎に指を添えて考える素振りを見せたラゼだったが、迫る剣を一瞥もせず避けていく。
肩を狙った袈裟斬りは体を傾けてかわされ、横薙ぎに返した刃は手首を蹴られ難なく止められた。
傍目にはネストが一方的に攻撃している様に見える。
それでも、ラゼの息1つ乱す事すら叶っていない。
そんな事はお構い無しにネストは体ごと前へ押し出し、ラゼを追った。
実力差なんて気にしてられない。相手がこちらを舐めてる間に、とにかく食い下がる事だけ考えて攻撃を続ける。
「……けっ。親のスネかじってゲーム三昧かよ! 羨まし……じゃなくて嘆かわしい。今すぐログアウトして就活始めてもいいんだぜ? 応援するよ。マジで!」
「クックッ。ヤダよ。これでもゲームの大会で賞金荒稼ぎしてるから、少しは家計に貢献してなくも……なくもないし? ちなみに得意ジャンルはシューティングだよ。FPSとかの銃を撃つやつ」
身を翻してラゼは右腕を引くと人差し指を引き金に、左腕を前へ差し出して銃身に添えるポーズを取った。それからスコープを覗く様に片目を閉じた。
それがなかなか様になっている。
そこで、ネストはふと目を瞬かせた。
「まさかとは思ったがやっぱり、お前『キス魔の鴉羽』か……?」
ネストの薙ぎ払いが空を切ったのをきっかけに、ラゼがほんの少し驚いた様な顔をした。
「懐かしー! 古い呼び名だね。知ってるんだ。私の事」
コートの袖で口元を隠し、目を細めたラゼ。
「……くっそ、どおりで……。『鴉羽』の通り名に、相変わらず黒いヒラヒラした服着てるからもしやとは思ったが……。鴉羽にゃ散々やられた借りがあるんだよ」
対称的に、ネストは歯噛みして大きく狼狽している。
どうやらこの「鴉羽」という名に戦慄する程の覚えがあるようだった。
「キス魔? やられた?」
ふと、後ろで存在感を消していたアスタルテが、ネストの口にした言葉を拾い上げて怪訝な声を上げた。
「ああ、アスタルテ。奴は当時最大規模を誇ったFPSゲーム『ウォーゾーン・オンライン』の頂点に君臨していたプレイヤーで、『鴉羽』と呼ばれていた。そのキス魔ってのは奴の戦闘スタイルからきているんだ。誤解しないように」
ネストが努めて冷静に弁解した。
なんだかそれが余計胡散臭さを煽ってしまったが、この強敵から目を放す事はできない。
という事で、背後からのアスタルテの視線が気にはなるものの、ネストは話を続ける事にした。
「狙撃から早撃ち、正確無比な射撃はもちろん、銃弾にかすりもしない飛び抜けた回避スキル。だが、コイツが特異だったのは……コイツが銃弾の飛び交う戦場で『刃物での接近戦』を好んだ事だ。『キスできる距離の殺戮魔』。それがコイツが『キス魔の鴉羽』なんて呼ばれてた理由さ」
ネストがそう言い終えると、ラゼは照れ臭そうに頭を掻いた。
「いや~若い頃のやんちゃを人から聞くってのはなんともむず痒いもんだね~。でもキミ、どこで会った誰だったっけ?」
「へっ。どうせ俺はお前にやられたその他大勢、5千人の1人だよ。」
ラゼが首を傾げると、ネストは少し肩を落として舌打ちした。
「コイツはそのゲームで1万人もの大規模バトルロイヤルイベント中、その半数を……たった1人で討ち取ってみせたのさ。まだVRゲームが現れる前の時代の事とはいえ、今でもコイツの叩き出した伝説は語り種になってるぜ」
ネストは顔色を青くしてそう締めくくると、自嘲気味な笑みを浮かべた。
逆に、ラゼは心底愉快そうに口角を上げていた。
照れ臭そうにしていながらも、その瞳の奥には抑え切れない熱いものが輝いているのが見えた。
「より凄いスリル。それこそ生き死にの狭間を垣間見るくらいのそれを味わう為に始めたお遊びの1つさ。よりリアルなゲームを探してこの世界に住み処を移したんだけど、なかなかそこまで面白い戦いには巡り会えなくてね……」
頭の上で腕を組み、空を蹴る様にクルリとその場で一回りするラゼ。
「だから、意外と粘ってくれてるキミ達とはもう少し遊んであげよう。すぐに終わらせちゃうのももったいないし」
ふと、ラゼの手が前に掲げられている事に気づいた。
「そ・れ・にっ、時間稼ぎもそろそろでしょ?」
目を細く歪め、笑みを浮かべるラゼ。
額を流れ落ちる汗を拭う事も忘れ、ネストは剣を握り直した。
「ちっ、やっぱバレてたか!」
正面に突き出されたラゼの右掌に、紫色の閃光が迸る。
「魔力刃!」
掌から雷を伴いながら形成されていくのは、紫電に輝く光の刃。
中級魔法でありながら、術者の魔力に応じてその切れ味を増していく魔法の剣。
レベル90台。最高峰の魔法職・エレメンタルロードであり、ラゼの種族であるダークエルフも魔法への適性が極めて高い。
その膨大な魔力が凝縮した刃は並みいる魔剣をも寄せつけない、まさに死の権化とも言える最高の武器に違いなかった。
その紫電の剣を、ラゼはまるでオモチャでも扱う様に振り回し、弄ぶ。
「じゃあ、ここからは私らしく『鴉羽』の戦いをしてあげようじゃないか!」
そして形を成した柄を掴むと、ラゼは満足そうにその握りを確かめた。
「う……おあっ!?」
火花が弾けた。
相対していたネストにはただ「光った」としか感じ取れなかった。
まだリゴウの獣神覚醒の影響が残っていたとはいえ、視界に認識する事もできず一瞬で距離を詰められていた。
嫌な予感がして半歩後ろに下がったおかげで、ネストは顔面を狙った突きを偶然剣で弾く事ができた。
しかし、安堵するヒマなく斬撃が次々とネストに襲いかかる。
「ふふっ。いい勘してるねぇ。少しギア上げていくよっ!」
ネストの掲げた剣に紫色の刃がぶつかり、火花が散る。
否、魔力刃がネストの剣に食い込み、融解し始めているのだ。
程なく赤熱した切っ先がぬるりと溶けて折れ飛んだ。
「くっ!」
「ほらほら、ちゃんと避けないと死んじゃうよっ!」
続く一振りを受けようとした剣を、軌道を変えた魔力刃がすり抜ける。
ネストの左腕に熱さが走り、感覚が消失。だらりと垂れ下がった。
回復できる余裕もない。追撃を避け、退がるネストを蛇の様に魔力刃が追う。
「逃げ足だけは認めてあげるよ。だけど、これはどうかな? 私のユニークスキル『デュアルキャスター』はこんな事だってできちゃうんだから」
半身の姿勢で目にも止まらぬ突きを繰り出してくるラゼ。
右手の魔力刃。
その鋭さが何度もネストの剣を削っていく中。ラゼの体の影に隠れた左手が、荒れ狂う雷の奔流を収束させていた。
「極大魔法・|トランペットテンペスタ《雷帝の喧伝》!」
左手から解き放たれた膨大な光。
放射状に広がった紫色の雷が、渦を巻いてネストを、その背後に広がる瓦礫の山を飲み込んだ。
大空に絶叫を轟かせながら、暴れ回る雷が進路にあるありとあらゆる全てをなぎ倒していく。
「よくよけた。褒めてあげよう!」
もうもうと立ち込める煙炎と空間に走る電光の残滓。
焼けた塵が白く瞬き、高速で通り過ぎる大気に巻き込まれ外へ押し流されていった。
「っだらぁッ!」
それらを突き破って振り下ろされたボロボロの剣。
逃げるのでも防ぐのでもなく、ネストは前に出てその放射状の軌道範囲から逃れていたのだ。
しかし、赤く染まった右脚を犠牲にして、だ。
不意を突いた一撃だったが、嘲笑うラゼの眼前で予知していた様に魔力刃が待ち構えていた。
ぶつかり合った刃から火花が散る。
それでも刃を返し、止まる事なくネストは攻撃を出し続けた。
「くっそ……!」
ラゼの側頭部を狙った横薙ぎは体を沈めたその頭上を掠め、代わりに雷の矢がネストの左脚を貫いていった。
両足の機能を喪失したネストが顔を歪め、崩れる様に膝から地に座り込んだ。
機動力を失った。
そのネストの最後の悪あがき。
上半身の力全てを注いだ刺突は――その剣の根元から魔力刃によって切り飛ばされ、終わった。
クルクルと宙を舞う刃。
それが地面に落ちて空寒い金属音を響かせた時には、既にネストの残った右腕も刈り取られていた。
手から取り落とされた剣の柄が、小さく鳴った。
「はぁ……っ、はぁ……っ。やんなるぜ……。ここまで差を見せつけられると……」
息を荒げながら、喉を引きつらせた声を漏らすネスト。
うなだれる様に座り込み、その両手も地面に投げ出されたまま動かない。
「キミくらいの相手ならまぁ、こんなもんでしょ」
それを見下ろし、もう興味を失ったおもちゃにせめてとラゼがお別れの言葉を投げた。
「……も少し褒めてくれても……いや、何も言うな。余計悲しくなる」
ネストは笑った。
最早できる事は虚勢を張る以外に何も残っていない。
全て出し尽くした。実力も、駆け引きも、運すら絞り尽くしてこの結果だ。
これが現実だった。
埋められない差に、当たり前の結果がついてきただけ。
だから――
「アミューズブーシュはここまで。そろそろオードブルに移ろうじゃないか!」
嬉々として声を張り上げるラゼ。
その手にある刃を翻し、視線をネストから自身の背後へと移した。
――ネストはその差を埋められる可能性のある者に、後を託した。
「サモン・ビースト――ブーステッドサーヴァント!」
砂煙の向こうで突如湧き上がった青色の光。
中心部から周囲に伸びる光の帯が、その背後の空間に浮かぶ波紋に吸い込まれていく。
外――城門前の戦闘から今に至るまで、従魔達が倒れてからちょうど今、1時間が経過した。
その戦闘でアスタルテの従魔は、状況を切り抜け勝利を得る為にそのほとんどが倒れた。
しかし、倒れた従魔も完全に消滅、消失してしまう訳ではない。
ある条件を満たせば、一度倒れた従魔は再度復活、戦闘に加わる事が可能となる。
その条件は「一定時間が経過」する事。
復活に必要な一定の時間。
それは1時間。
そして、光に導かれる様に彼らは姿を露にした。
「行きます。ここからが、私の全力です」
6つの波紋から現れた魔物の群れ、そして傍らの翼竜が上げた咆哮が大気を震わせる中。
静かな声が確かに通った。
魔物が放つ圧力に重く硬い瓦礫すら後ろへ転げ飛んでいく中、ラゼははためく前髪を撫でながら薄く笑みを浮かべた。
「さぁて、やっとお待ちかねの時間だ!」
魔力刃を目線の高さに掲げながら、切っ先を前方へ向けて構える。
ラゼが全体重を左足の爪先に込めた。その圧力に石床が割れて沈み込む。
そして、己を弾丸に変えて刃の向く方へ飛び出した。
「ウォガァアアアアアアッ!!」
青い光を全身にまとわせた魔物達が咆哮と共に、迫る敵へ突撃していった。
魔物達の巨躯は青色の光の影響でさらに膨れ上がり、緊張した筋肉が爆発するかのごとく力を解放していく。
『ブーステッドサーヴァント』。
従魔の攻撃力と機動力を上昇させるサモナーのスキル。
激しく消耗するスタミナ値と持続力の短さとを引き換えに、絶大な力をもたらす従魔版獣身覚醒ともいえる技。
モンスターの能力を最大限引き出す事に特化したサモナーの、その極致とも言えるスキルだった。
「ショコラ、タルト! ゴーッ!」
アスタルテの号令と共に2体の魔獣が正面からラゼに突撃していく。
「モンスターなんかにこの私を傷つけられると思ってる……訳じゃないよねぇ!」
ラゼに飛びかかる直前、左右に跳んで挟む態勢を取る魔獣達。
彼らの目論見は、ラゼの両手から放たれた雷の矢に眉間を貫かれて絶命するという結果に終わった。
「!」
だが、2体が開いた中央、ラゼへと続く直線を銀色の矢が駆け抜けた。
力の代償に効果が切れたら従魔は動けなくなる。
使い捨てる様なこのスキルを、使い手のアスタルテは好んでいなかった。
だが今この時、アスタルテの姿にはどんな犠牲を払ってでも敵を倒す覚悟が見えた。
両脚を万全に走れるまで回復する時間はあった。
蹴飛ばされた弓を取り戻す時間もあった。
そして、従魔が蘇生するまでに必要な時間もネストが作ってくれた。
ならばと、アスタルテはただ1つの目標だけを定め、それに向かって突き進んだ。
「あなたを倒してみせます」
「そうこなくっちゃッ!」
矢を撃ち、すぐに真横へと全力疾走するアスタルテ。
髪を掠めた矢をやり過ごし、アスタルテを追うラゼ。
そのラゼに魔獣が襲いかかった。
正面から矢より速く駆け抜けるそれを雷が正確に撃ち抜くと、その死骸を飛び越え新たな魔獣が飛びかかる。
だが、その爪が届くより先に、ラゼは魔獣の目線の高さに飛び上がっていた。
そして、再び形成した魔力刃をその胴に押し当てると、すれ違いざまに横薙ぎに両断して捨てた。
一瞥もせず、魔獣の亡骸を足蹴に宙を駆けるラゼ。
それから、ラゼは魔獣の影に隠れて迫ってきていた矢を切り払った。
「ふふっ。同じレベルならもっといい戦いができただろうに」
振った刃を顔の前に掲げ、ラゼは舌舐めずりした。
「見くびっていただいて結構。それがこの絶望的な差を埋める一助になるのですから」
走りながら幾本もの矢を放っていくアスタルテ。
その全てを切り捨て、ラゼが最短距離でアスタルテとの距離を詰めていく。
あわやアスタルテに魔力刃が振り下ろされる間際。2体の魔獣達が同時にラゼの左右から牙の並んだ口を開いた。
「双剣魔力刃! あっはははっ!」
タガが外れた様に笑い声を上げるラゼ。
両腕を開き、魔獣の頭へ二刀流に直した魔力刃を振った。
牙を剥いたままの魔獣をバラバラに焼き切ってすぐ、ラゼは正面で矢を番えるアスタルテに指先を向けた。
まっすぐにアスタルテの眉間へと突きつけられた指先。
その先端が雷をまとった瞬間。
「キャンディー!」
矢と雷が交差した。
2つの射線はすれ違い、放たれた敵意は互いに彼方へと消えていく。
ラゼは視線を頭上へ跳ね上げた。
矢を放った瞬間、低空を滑空してきたキャンディーに掴まり上へと飛び去ったアスタルテ。
キャンディーの翼の負傷は既にほぼ万全に回復させてある。
ソディスから受け取った回復ポーションは各レベル帯にまんべんなく揃えられていた。
まるでこの状況を予測していたかの様に。
再び2人の間に距離ができた。
接近戦闘は絶対的に不利。
これでまたしばらくは対等に戦える。
いや、そうはいくまい。
積み重なる魔獣の死骸を足場に、ラゼは上へと跳んだ。
光の粒となって消えるそれらを後に、ラゼはまだアスタルテを追う。
翼で飛翔するワイバーンに対し、鳥人族でもないラゼが対抗できるはずはない。
「私達ごく少数のプレイヤーにこの作戦が伝えられたのは2週間くらい前だったかな。敵の王都を直接叩くだなんてさ!」
空に舞い上がったラゼ。
好機と見て下で待ち構えていた魔獣が2つある頭から炎と氷のブレスを吐き出した。
上からもアスタルテがキャンディーの背で矢を構えた。
逃げ場のない空中。
だが、何もない方向にラゼは手をかざした。
「プッシュウインド!」
ラゼを押し出し、加速させたのは掌から噴出した魔法の風。
同時に射出された雷が、下で口を開けたままの魔獣を刺し殺した。
「もちろんすぐ乗ったさ! だって面白そうだったからね!」
よけた矢と魔法のブレスを置き去りに、ラゼはアスタルテに迫った。
上昇を続けるアスタルテ達から離される事なく、次々と向かってくる矢を風魔法でかわしていくラゼ。
空中を縦横無尽に飛び回るその姿は、名が表す様にまるで大空を羽ばたくカラスそのもの。
「表では侵攻クエストで敵の全戦力を誘い出し、裏では私達がアイゼネルツから不毛の山岳地帯を辿って王都に奇襲をかける。王都に残る戦力をギリギリまで削ぐのがその目標だったみたいだけど、本当にロクな戦力が残ってないんだから」
迫る飛翔の限界高度。キャンディーの上昇速度が鈍り始めた。
大きな翼を持つワイバーンといえど、その能力には限界がある。優位なはずの空中ですら逃げ場がなかった。
だが、アスタルテはその高度に到達した瞬間、進路を真下に反転させた。
追ってくるラゼを真正面から見据え、迎え撃つ。
キャンディーの背に跨がり、アスタルテは弓に番えた矢を放ち続けた。
真っ向勝負のチキンレース。
「既にチェックはかけた。後は王を殺して、それから――」
上昇をやめ正面から特攻をしかけてきたアスタルテに、ラゼは酷く口角を引き上げた。
「――それから、ゼフォンも、ガーチも、ウルレイテも……みんなみんな殺してやるんだっ!」
子供の様な無邪気さで、ラゼは笑った。
今まで以上に、今までとは隔絶した何か。その喜びに満ちた顔の裏にあるのはあふれんばかりの悪意と狂気。
ラゼが両手を前にかざし、その指先に雷光が走り始める。
無数の矢と雷が交差し、互いに敵を目指して飛び交っていく。
雷の矢がキャンディーの翼を貫き、脇腹を抉った。
次々と放たれる雷の矢が、削り取る様に何度もキャンディーの体を穿っていく。
「キャンディー……! あと少しだけ耐えて……!」
しかし、直撃を避けているのはキャンディーの強さと、アスタルテの操舵技術が合わさったおかげ。
キャンディーは致命傷を負いながらも、最後まで主に寄り添う事ができた。
「ギリギリのスリルを味わう為にこの世界に来たっていうのに、ロクに私と戦える奴がいない! なのに、あんな美味しそうな奴らを前に10日もおあずけ食らってるんだ! もう我慢できないんだよっ!!」
顔を歪め、笑うラゼ。
戦いだけがラゼの価値観であり、敵を殺すだけが全てなのだ。
それだけなのだ。
子供の様な純粋さで、ただ戦いを欲する。
そんな破綻した人間だからこそ、今ここにいる。
戦いを求めいくつもの世界を渡り歩き、10日もかけて不毛の地を進んできた。
そして、己の欲望の為なら仲間をも殺してしまうという。
悪意の権化だった。
「さあ! もうオードブルはおしまい。まずはキミを殺して――」
迫るアスタルテとラゼの距離。
ぶつかり合う時が決着となる。
少なくともラゼはそう思っていた。
だが突然、狂喜に目を輝かせるラゼの視界に、キラキラと瞬く何かが降り注いだ。
雨とは違う。
辺りに降ってきたそれらに、意識を殺がれたラゼは目を向けた。
液体の入った細長い小さな瓶だった。
「回復ポーション……?」
それはアスタルテがアイテムボックスから取り出した回復ポーションのアンプル。
大きく空いたアイテムボックスのスペースに入れていた、ソディスから受け取ったものだ。
最低限の回復だけ済ませ、アスタルテはその全てを放棄。アイテムボックスから放り出した。
元々これら回復ポーションを入れていたのは、容量を大きく使う武器の収納スペースだった。
その中身を再び空けたのは、遠くに放置していたそれをウインドウによる遠隔操作で呼び戻す為。
アスタルテは体の横に右手を差し出した。
「ヴェイパートレイルッ!!」
次の瞬間、そこにアスタルテとキャンディーを含めた全長を遥かに超える、巨大な馬上槍が出現した。
軸は歪み、外装は割れて大部分が剥がれ見る影もない。
特性である推進装置も機能を停止していた。
「ピアッシングサンダー!」
それでも、直撃した雷の矢をものともせず弾き、風切り音を上げて直進を続ける。
その巨大な威容は盾としても矛としても十分過ぎる性能を残していた。
それを見て、ラゼは呆れた様に失笑を漏らした。
「ま、避けてもいいんだけど」
キャンディーの力で、失われた推進力の代わりに軌道を修正して狙いを定める。
しかし、最早死の際に瀕しているキャンディーにその力はわずかしか残されていない。
ただ、アスタルテの目は確かにラゼを見据えていた。
「せっかくだし、応えてあげようじゃないかっ!!」
ラゼは両手をアスタルテとキャンディーに定め、かざした。
途端、両掌から稲妻が走り、遥か下方の地面から空の向こうまで雷光が駆け巡っていく。
空が割れ、轟音が地を揺るがし鳴り響く。帯電した空気が発火する程の熱が、遠く距離を隔てているにも関わらず圧力を伴いアスタルテの肌を刺した。
「二撃同時・トランペット……いや――」
そして、これまでと比較にならない膨大な雷の渦が、その掌を中心にラゼの周囲に迸った。
「双撃極大・|デッドエンドテンペスタ《雷帝の断末魔》ァアッ!!」
広げた両手から解き放たれたのは空を覆う程の巨大な雷の壁。
ラゼが手をかざした前方、その全てを食らい尽くす光の奔流だった。
天の果てまで覆う、一切の逃亡を許さないその過剰なまでの攻撃範囲。
だが、アスタルテは正面からそれに立ち向かった。
視界を埋め尽くす雷の領域に、キャンディーと共に急降下を続ける。
そして、ラゼとの中間点で雷の壁と接触。
耳をつんざく炸裂音と共に、視界が白に染まった。
「しまった。やりすぎた」
地面に舞い降り、未だ唸りを上げる白い天を見上げたラゼ。
眩い光が徐々に収まり、代わりに立ち込めた煙から次々とヴェイパートレイルだった物の破片が降り注ぐ。
その一片に紛れて、ラゼは視界に過った白い何かを見つけた。
それはアスタルテの身につけていたローブ。重い中身の詰まっているであろうそれは、煙に包まれながら無造作に地面へと落下し、鈍い音を立てた。
それを一瞬認めると、しかしラゼはその逆方向へ指先を突き出した。
「オードブルにしては少し期待以上だったかな。さぁ、よく狙えよ! 私はここだっ!!」
口元を引き上げ、吠えたラゼが視線を向ける先。
仕留めたはずが、それより生きて自分にまた立ち向かってきてくれた。
歓喜に震えるその顔は、長い長い飢餓の果てに獲物を見つけた獣のそれ。
「アインホルン――ドラッグレーサーッ!!」
白く放射状に平がった輪と、極大魔法にも劣らぬ炸裂音が鳴り響く。
音速の壁を突き破り、射出された矢はその姿をかき消した。
馬上槍の破片と白煙の降り注ぐ瓦礫の山。
その一角にアスタルテはいた。
ラゼの放った極大魔法と接触した瞬間、アスタルテは単身その着弾点から遠くに離れていた。
否、正確にはヴェイパートレイルが魔法の爆発に飲み込まれる寸前、突如キャンディーに振り落とされたのだった。
多少魔法を弾くとはいえ、あれだけの力に耐えられないと察したキャンディーが、主の意志を振り払ってアスタルテを逃がしたのだ。
自分を含めた全ての従魔が倒れた今。主が自分だけ生き残る選択はできない性質だと、キャンディーは理解していた。
雷とヴェイパートレイルが接触した瞬間、雷の壁に生じたわずかな切れ目にキャンディーはアスタルテを放り込んだのだった。
自身に手を伸ばす主を、キャンディーはただ静かに見送った。
そして、無事を見届けると、キャンディーは雷の奔流に飲み込まれて消えていった。
アスタルテの思惑ではキャンディー諸共爆発を突き抜ければ、無傷とはいかないまでも敵の喉元に食らいつける計算だった。
だが、従魔の優しい裏切りによって、アスタルテは無傷で敵を牙の射程圏内に捉える事ができた。
極大魔法は総じてあまりに広大な攻撃範囲故に、相手の姿を一瞬見失う欠点も孕んでいた。二撃同時極大魔法などという代物ならば、その欠点もより顕著となる。
その反動はラゼといえど、わずかな隙を生じさせた。
ネストと全ての従魔が絞り尽くして作ってくれたこの小さな隙。
ドラッグレーサー。
最速の弓技「ブリッツブレイク」を超える、遠見弓・アインホルン独自の必殺技。
その速度は雷光すら追い抜き、消える無色の矢と化す。
視認できない矢ならばいかに動体視力や反射神経の優れた者でも、射線を捕捉できず対応のしようもない。
さらに、着ていたローブを囮に注意を反らした。
そして、それに目もくれず自身を見つけてくれる。
いや、むしろあえてこちらを見て笑みすら浮かべるだろう。
ここまで何度もその全ての機会で、ラゼはアスタルテの一挙一動を逃す事なく捕捉していた。
常人を遥かに超越したその状況・空間・心理把握能力。
だから、ラゼならば必ず真っ向から自分を見据えてくれるとアスタルテは信じていた。
狙うは目。
レベル差があろうと視力を奪えば無力化は可能。
まっすぐこちらを見た視線に向けて絶速無色の矢が今、解き放たれた。
「う……ぐっ」
上がる呻き声。
崩れる膝。
攻撃が当たった。
攻撃は、当たった。
バラバラに砕け、硬質な音を地面に撒き散らす破片と希望、期待。
不意の衝撃で体が後ろへ揺さぶられる。
しばらくして、背中に伝わってきた冷たさとゴツゴツした石の感触に、自分が地面へと倒れている事を知った。
攻撃は当たった。
「それが誰に」かがアスタルテの期待と違っただけ。
弓を破壊し突き抜けた雷が、アスタルテの左肩を貫いていた。
崩れ落ちたのは、アスタルテの方だった。
「まぁまぁ慌てない。今おあずけにしてたトドメを刺してあげるから」
無色の矢はほんのわずかに傾けられたラゼの頭を掠めて避けられていた。
彼方へ消えていく矢。
殺気を読まれたか。視線を読まれたか。
それともここまで至った道筋全てがラゼの掌だったのか。
その技巧は想像を超え、さらにその上をいっている。
それでもまだ過小評価していたという事実が浮き彫りになっただけだというのか。
そのラゼが小さく笑みをこぼし、アスタルテに背を向けた。
「鴉羽ぁあッ!」
ラゼが振り返った先にあったのは、折れた剣の切っ先を握って突撃を試みるネストの姿だった。
咥えた回復ポーションの瓶を吐き出し、一心不乱に声を張り上げているネスト。
あれは先程アスタルテが捨てたものの1つ。四肢の動かぬ体でイヌの様にそれを拾い、わずかに回復したネスト。なりふりなど構っていられなかったのだろう。
折れた刃では必殺技も撃てない。
もはやヤケクソの攻撃でしかなかった。
それでも、ネストはその一撃を当てると――当たると確信して刃を突き出した。
「……ふふっ」
憐れなものでも見る様に、ラゼは笑った。
動きは容易く読める。
避けるまでもなく、防ぐ必要すらない。至極単純で正直な、つまらない攻撃。
ラゼは既に形成していた魔力刃を動かすと、ネストの刃を掻い潜ってその首を狙った。
ラゼにとってネストの攻撃が触れる前に、より早く魔力刃をその内側へ届けるなどとても簡単な事だった。
最短より最適化された軌道をなぞり、最高のタイミングで最速の攻撃を行い、ネストを絶命できる。
その精密な動作が――
――今は、仇となった。
「投げナイフ……?」
魔力刃を握る右手の甲を貫いた、小さなナイフ。
それに目を止めたラゼが、背後を見た。
そこで目にしたのは、残った右腕でナイフを構えるアスタルテの姿だった。
この戦いでは初めて見せる、アスタルテの最後の武器。
ネストの愚直な攻撃に対し、ラゼは回避も防御も反撃すら許さず、最も効率の良い方法で、正確にネストを絶命させる攻撃をしてくれる。
ラゼならば、そう動いてくれるとアスタルテは信じていた。
従魔達。巨大な馬上槍。そして弓。
その全てを破壊され、左肩には穴まで空いている。
もはや攻撃手段は無いと、それも遠距離攻撃手段など無いとラゼは思い込んでいた。
それがこんなつまらない、まともなダメージすら与えられない小さなナイフが飛んでくるなんて想像もしていなかった。
先の侵攻クエストでは敵領主だったヴェイングロウも避けられなかったその腕前に、ラゼはこの戦いが始まって初めて驚愕に目を見開いた。
「は」
この一瞬で、ラゼの予測が全て狂った。
「やっとあの鴉羽に……初めて一撃入れてやったぜ……!」
ラゼの胸を、まっすぐ貫く折れた刃。
そのボロボロの刃は、ひび割れた刀身と同じくボロボロのネストの笑顔を映し出していた。
次回投稿は4月2日午後8時予定です。
次回第75話『不落の城塞』
お楽しみに!