泡と消へる、その前に
アンリ様主催の『告白フェスタ』参加作品です。
見渡す限りに広がるのは、空だろうか。地面だろうか。
上に広がるのは空とは呼べないかもしれない。青、赤、紫、桃、オレンジ、黄、緑。それらがぼんやりと混ざり、色を変えたりしながら揺蕩っている。
そんな空間に椅子が一つあった。何の変哲もない木で出来た椅子のようである。飾り気もないが、座り心地の良さそうな、素朴な曲線を描いている。
よくよく見れば、椅子の脚はほんの僅かに地面へ沈みこんでいた。いや、それは語弊がある。
どうやら地面は地面ではなく、液体のようなものらしい。
透明なのだか定かでないし、そもそも本当に液体なのであるかも不明なのだが、椅子の脚先は沈んでいる。
濡れて色を変えるでもなく、沈む脚先をようく見ることが出来るのだからして、どうやらこの液体らしきものは、透明であるようだ。あるようではあるのだが、川のように底は見えない。
それは太陽の光のようなものがないせいか。
見えぬほど深く、深く湛えられているせいなのか。
分かりはしないが、仮初めに水面と呼ぼう。それ以外に形容する術を持たないのだから、既存の知識に当てはめるしかないではないか。
兎にも角にも、水面にたった一つ椅子がある。
この椅子が浮いているのか、見ることの出来ない水底の上にあるのか、この際どうでも良いこととした。
そのたった一つの椅子には、座る存在があった。
優雅に腰かけたそいつは、燕尾服に白い蝶ネクタイなどをしめ、頭にはシルクハットを被っている。
大きな青色の瞳を生意気に細め、白いひげをそよがせながらパイプをふかしていた。
ひげは風にそよいでいるのではない。ここは空気の動きなどないほどに凪いでいる。
そいつが口でパイプをくゆらせる度に、両頬に生えるひげが動くのだ。音など響いてはいないが、さわさわと表現したくなるような、そんな動きだった。
そいつは足を組み、背もたれに深く体を預け、時折毛深い手でパイプを持ち、口から放した。
ふかふかと肌触りの良さそうな毛に覆われた手が、器用にパイプを握っている。
ああ。そうだ。
毛深い手ではなく、毛で覆われた手なのだ。
そいつは手どころではなく、燕尾服からひょこりと出ている顔すら毛で覆われている。白と灰色の二色で、そいつが動く度に毛先が柔らかくしなやかに、一本一本の流れを主張していた。
青い瞳は白い部分が見えず、どこまでも澄んでいる。その中にある黒い瞳孔は、縦に細長くなったと思ったら次の瞬間にはくるりと丸くなった。
長く細い、白いひげが、笑ったように逆三角の鼻下から円を描く口と共に動く。シルクハットの脇にある耳は尖っていて、時折ぴくりと向きを変えた。
顔と首、手の先っぽ、見えてはいないが腹も白で他は灰色のようである。
尻に生える長い尾が、椅子の背もたれの格子から出ていて、それ自体が他の生き物のようにくねっていた。
そいつは、猫の姿を模していた。
口からパイプを離し、そいつが煙を吐くかと思ったが、一向に白いもやは現れない。代わりにそいつがパイプを椅子のひじ掛けへ、ポンと叩くような動作をした。すると。
ぷかり。
水面から一つ、泡が浮かんだ。泡は水面からせり上がり、やがて完全に離れる。ゆったりと椅子に座る猫へ向かった。
椅子に座るそいつは手に持ったパイプを高く持ち上げた。浮かんだ泡がパイプへゆっくりと近づいて吸い込まれる。
猫の姿のそいつは、うまそうにパイプを吸った。青い目が細くなり、ひげと尻尾が持ち上がる。上がり切ったところで少しの間ふるふると震わせ、すとんと下した。
「さてさて。珍妙なお客さん。一体全体、ここへ誰かが来るのはいつ以来だろうね」
ふいにそいつが喋った。猫が人語を発することへの驚きはない。そもそもそいつは人のように服を着こみ、あまつさえパイプをふかしている。
普通のパイプのように煙をふかしているわけではないが、泡を吸っているのだから似たようなものだろう。
そいつは革靴を履いた足をぷらぷらとさせてから水面に落とした。両の足を水面に着け、立ち上がる。青い瞳がこちらを見た。
青く、青く、透き通っていて、頭の中まで筒抜けになってしまうのではないだろうかと、錯覚するような瞳であった。
「ふむふむ。なるほどなるほど」
青い目がさらに細くなり、両頬が吊り上がった。ひげも上がり、全身の毛がさわりと揺れる。
「お客さんもまた、後悔の泡を抱えているようだね。ふふふ。全く難儀なものだよね」
にい、と笑ったそいつはとても人間臭く見えた。
猫のように見えて本当は人間なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。けれど表情も、仕草も、恰好も、人間のようなそいつ。
そいつがぷう、と泡を吐きだした。先ほど吸った泡だ。泡は煙のようにぷかりと浮かんで、ふわふわと漂う。
「これは後悔の泡。やってしまった事実が作る泡。ある時ぽこりと現れて、消える」
そいつがパイプを持った手をこちらへ向けた。すると泡の漂う方向がこちらへと定まった。
「消える前に、覗いてみるかい?」
そいつの問いに頷いたのか、そうでなかったのかは知らない。
けれど、泡に映る人影が見えた。
****
行ってきますの行方
かかとが潰れ、柔らかくなったスニーカーの中へ足を入れる。いいくらいにくたびれて履きやすくなったスニーカーは、適当に脱いでいた筈なのに揃えて置いてあった。
そのありがたみなど感じることもなく、俺はいつものようにつま先を玄関の床へ打ち付けて、踵をスニーカーの中へ収めた。
「行ってらっしゃい」
玄関にいる俺の背中へ母親の声がかかる。無視してドアノブへ手をかけた。
「忘れ物はない?」
答えもせず、振り向きもせず、俺はドアを開けて外へ出る。後ろで閉まるドアへちらりと視線を走らせると、少し寂しそうにこっちを見る母親の顔が見えた。
口うるさくて、鬱陶しくてイライラする。もう高校生なのに、そんな小学生に聞くようなこと言うんじゃねぇよ。
心配する顔が煩わしい。あれこれ世話を焼かれるのが嫌だ。だからといって、自分では何もしたりしなかった。
母親が洗濯してアイロンをかけた制服に袖を通し、作ってくれた飯を食う。掃除だってしてもらっていた自分の部屋、晴れた日のベッドのシーツからは太陽の匂いがしていた。
何もかもやってもらっていたくせに、不平不満だけが一人前。
俺はガキで、母親に文句ばっか言いながら、甘えてばかりいたんだ。
仏壇の前にある、妙にふかふかした座布団を感じつつ、俺は何時間も座っていた。ゆっくりと煙を上げていた線香は、とっくに白い灰へと姿を変えていた。
「行ってらっしゃいって、見送ってくれたのに」
胸にはふつふつと後悔が湧いてくる。ぼこぼこと泡だって、弾けて、また湧いて。
俺が見る最後となった、あの時の母親の顔が、声が、耳と頭に何度も再生された。
行ってきますも言わずに向かった学校で、母親の訃報を聞いた。買い物帰りの途中、車にはねられて即死だった。
当たり前のようにしてくれていたこと。当たり前のように注いでくれた愛情。
全てを当たり前だと思って、受け取るだけだった強欲な日々。
「行ってきますって、言えば良かった」
たった一言。
宙ぶらりんになった、行ってきますの一言。
この一言を伝えたくて。胸の中へ後悔が何度も何度も泡だって、いっぱいになっていく。
また脳裏に再生される、あの時の母親の顔と声。寂しそうに、でもどこか誇らしそうに、柔らかく微笑んだ、あの顔。優しい声。
「行ってきます、母さん」
仏壇の前に座る俺は、もう制服ではなかった。
母親が応援してくれていた夢を叶え、今日、俺はこの家を出る。
あの時伝えられなかった一言を俺は告げる。今度は後悔しないために。しても、割り切れるように。
「行ってきます」
****
ぱちん。
目の前に浮かんでいた泡が弾けた。きゅうっと縮まり、弾けて、輪郭のみが残像のように少しの間だけ残り、小さな飛沫が宙に浮き、それも落下する。
それらは水面に波紋を立てることすらなく、水へと戻っていった。
また水面から泡が生まれる。一つではない。
気が付けば無数の泡が、ぽこりぽこりと生まれて宙に浮き、漂っていた。
そいつがパイプをくわえ、泡が次々と吸い込まれていく。十分吸えば、満足げに体中の毛を震わせて、パイプを口から離し、ふうと吐いた。
しゃぼんの泡のように、そいつの口から泡が飛び出していく。その全てがこちらへ向かってきた。
****
ありがとうが言えなくて
「あなた。お茶を置いておきますよ」
「ん」
「今日はいいお天気ですね」
年老いて肉のなくなった手が、ゆっくりとうちわを動かす。そよそよと肌を撫でる風が熱を取っていってくれた。
「んん」
ちりちりんと縁側に吊るされた風鈴が鳴る。ガラスが光を透し、紙がくるくると回った。
返す言葉は、いつも短かった。お前を見もせず、唸るだけ。
「ありがとう」
いつも思っていた。「ん」の中へこめていた、感謝。
お前のことだから、分かってくれていたのだろう。けれど、はっきりと言葉にすれば良かった。言ってやれば良かった。
ありがとう。長年連れ添ってくれて。迎えに来てくれて。照れくさいなんて思わずに、もっと早く言ってやれば良かったというのに。
お前が先だってしまった後、仲睦まじい息子夫婦や孫夫婦を見る度に後悔がぷくりと浮かび、消えた。年々、後悔の泡は量を増し、老いぼれの胸を塞いでいった。
黒服に身を包んだ息子や娘、弟夫婦、孫たち。親類や世話になった人々が集まっている。泣いてくれたり別れを惜しんでくれるのはありがたいが、それよりもお前と会えることが嬉しかった。
見下ろしていた視線を上げれば、肩までの黒髪、白いワンピース。出会った頃のお前がいた。
「迎えに来てくれたんだな」
「当り前でしょう」
くすくすと笑うお前へ腕を伸ばす。点滴の針も、しわもない腕でお前の体を抱いた。
どうしてもお前へ伝えたくて、どうやらこんなところへ来てしまったらしい。
「ありがとう」
万感の思いでもう一度告げれば、お前はふわりと微笑んだ。
****
ぱちん。
また一つ泡が弾け、こちらへ泡が飛んでくる。
****
押し込めたごめんなさい
あなたは私より十も年上で、妻子持ち。とても素敵で落ち着いていて、あなたと居れば何も怖くなかった。
「ごめんなさい」
誰もいない駅のホームで、私は呟いた。
言えなかった。押し込めて、押し殺して、封じ込めた、一言を。
ごめんなさい。あなたのことが好きでした。本当は諦めきれませんでした。
だから私はあなたの元を去りました。あなたへ言ってはいけない、想いを押し込めて。
あなたを忘れるために田舎へ帰り、見合いをして結婚しました。子供も出来て、絵にかいたように幸せな家族です。
けれど夫に愛を注がれる分だけ、私の心に後悔の泡が立ちました。洗っても洗っても、ぶくぶくと泡立ちぬめって、一向に流れません。
「ごめんなさい」
今の呟きは駅のホームなどではなく、リビングです。共にソファーへ腰かけているのは、あなたではなく、貴男。
「そのごめんなさいは、俺に愛がないからだろうか」
私の涙をそっと拭う夫へ、頭を振った。
「いいえ。あなたを愛しているからです」
好きだったあなたは過去へと消え去り、後悔だけがいつまでも泡だっていました。今愛している貴男を裏切っているようで。
「今までの私が今の貴男へ謝ります。貴男を愛しているから」
貴男へ洗いざらい打ち明け、やっと消えそうな泡にほっとします。
「ごめんなさい」
押し込めていた言葉と一緒に、後悔の泡が流れてゆきました。
****
ぱちん。
ぱちん、ぱちん。ぽこり、ぽこり。ぱちん、ぱちん。ぽこ、ぽこり。
泡が次々と生まれ、次々と弾ける。生まれた泡がパイプを通して吸い込まれ、吐きだされて、弾けて消える。水面が泡立ち、離れ、凪ぐ。
現れては消え、壊れては生まれる。
無限に繰り返される、それ。
それを吸い込んで吐きだす、猫の外見を持ったそいつ。
泡はぷかりぷかりと漂って、パイプに吸い込まれた。そいつの毛がさわさわと波打って、青い目が細くなる。
「君にも後悔の泡があるだろう。そいつはどんなに気を付けていても生まれて、増えて、いつの間にか消えるのさ」
そいつはまた、椅子に座った。
満足そうにふう、と息を吐くと、肩が沈み込んでひげと毛が下がった。灰色の尻尾が、くにゃり、くにゃりと揺れる。
水面は静かにどこまでも続き、泡がまた一つ、生まれた。
****
ぱちん。
何かが弾けるような、小さな音で私は目を覚ました。
ゆっくりと起き上がり、下を見る。
日々、増え続ける人間たち。生活域を広め、他を脅かし、自身も争い、食いつぶし合っている。我が物顔で蔓延るこの生き物を、生み出して本当に良かったのだろうか。
そんな思いが、泡となって浮かんだ。浮かんであの夢を見た。
見たのか、見せたのか、見たいと思ったのか、思わなかったのか、知らない。
夢であり、現実であり、美しいようで、あんなに泡立つのならば汚染されているような気もする。
しかしその小さな胸に後悔を抱えているのなら。生まれ、消えていく泡を抱いているのなら。
もう少し目を瞑っていてもやってもいいだろう。行き着く先がどこかは知らないが。
私はもう一度眠るため、体を横たえる。
もしもあまりに醜悪ならば。リセットし直してしまおう。
そう、誰にともなく独りごちて。
特に宗教、思想など関係ありません。
単なる作者の頭へ浮かんだ、泡のようなイメージです。