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オトナリトリック

作者: 裏糊めばり

 十月二日――水曜日。

 午後四時。


 ぴんぽーん、と。


 アパートの一室でインターホンが鳴り、少年は目を覚ました。

「……………………」

 動かない。

 どころか、再び目を閉じてしまう。

 どうやら居留守を使うつもりらしい。

 が、そんなことをすれば当然――。


 ぴんぽーん。


 また、インターホンが鳴る。

 しかし今度は目も開けない。

 出ない。

 そう、少年は心に決めていた。

 こんなものは大体、二回鳴らして出なければ諦めるものだ。

 何かの届け物だったとしても不在票を入れるだろうし、配達員の人には大変申し訳ないと思うが、少年は睡眠を優先させたかった。

 しんどいのだ。

「……………………」

 …………。

 静寂。

 ――思った通り。

 これでゆっくり――


 ぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぽーん。


 軽妙にインターホンが連打された。

 うるさい。

 出ないと決めたのだ。居留守を使うと決めたのだ。

 その意思は固い。

 もし、待ちに待ったアーテイストの新曲のCDをネット通販で予約していて、その届日が今日で、この訪問がその配達なんだと今気が付いたとしても、少年は起き上がるつもりはなかった。

 それくらい――少年の意思は固い。

 ちょっとやそっとインターホンを連打されたからといって、その固い決意が崩れるなんてことが――


 ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴんぽーん。


 ちょっとやそっとインターホンを連打されたからといって、その固い決意が揺らぐなんてことが――


 ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴんぽーん。ぴんぽーん。ぴんぽーん。


「ふっ…………、ふふふ」

 ゆくっりと目を開け、口を歪める少年。

 上等だ。

 少年の決意は割と早い段階で揺らいで崩れた。

 被っていた布団をめくり、立ち上がって玄関まで歩いていく。

「受けて立ってやろう。正々堂々正面から正攻法で不意を衝いて返り討ちにしてくれる」

 もはや相手をなんだと思っているのか……。

 少年の頭は現状、通常の三、四十パーセントしか思考力が機能していない。

 途中、若干ふらつきつつも、ぴんぽん連打の犯人の顔を拝んでやろうと気力で踏ん張る。

 しかし、玄関の扉に手を掛けたところではたと少年の動きが止まる。

 ゆっくりとドアノブから手を離し、深呼吸。

 脳味噌に酸素と血を送り込んで、少し落ち着きを取り戻す。

 あれ…………?

 待てよ。

 いやいやいやいやいやいやいやいやいやいや。

 これ、おかしくないか?

 違和感に気付く。

 普通、人の家のインターホンこんな連打する奴がいるだろうか……?

 近所にそんなことをするような悪ガキな知り合いはいない。

 友達が来てふざけている?

 いや、少年だってもう十八歳なのだ。

 今年で十九歳――自分も友人もこんな悪戯をするような歳じゃあない。

 一応手に持った携帯を確認するが、友人から家に来るような連絡は入っていなかった。

 というか、まだ誰もこの部屋には呼んだことがないのだ。

 誰も、ここに自分が住んでいることを知っているはずがない。


 じゃあ――

 ――誰だ?


 背筋が凍ったように冷たくなった。

 ぼうっとしていた頭が一瞬で冷める。

 苛立ちが、恐怖に変わる。

 心臓が一気に早鐘を打ち始める。

 どっ、どっ、どっ、どっ、どっ。

 目が乾く。

 喉が渇く。

 からからに乾く。渇く。カワク。

 耳鳴りが聞こえてくる。

 あーやばい。

 意識が遠のきそうだった。

 自分の立っている床がぐらんぐらん揺れる。平衡感覚が麻痺してきた。

 瞼が重い。

 そのまま目を閉じ、意識を手放そうとした――直後。

 再びのインターホンが少年の意識を引っ張り上げた。


 ぴんぽぴんぽぴんぽぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴんぽーん。


 またバリエーションを変えてきた。

 その音に少年の身体は一瞬硬直するが、意を決して扉に飛びつき覗き穴に右目を当てる。

 やけくそになっているところもあった。

 もうここまで来たら相手がどんな奴なのか、顔ぐらい見てやらないと気が済まない。

 そう思ったのだが、時すでに遅し。

 少年が覗き込んだレンズ越しの視界に映ったのは、たなびく黒髪だけだった。

 それも一瞬だけ。

「くそっ」

 すぐさま鍵を開け、扉を開く少年。

 だが。

 丁度右隣――隣室の二〇二号室の開きかけの扉が陰になって、ついぞ顔を見ることはおろか、シルエットさえ確認できなかった。

 というか。

 え…………隣?

 少年の部屋が一番奥である。

 左側には壁しかない。一応覗いてみるが当然何もない。

 廊下の突き当りだ。

 がちゃん。

 隣の部屋の扉が閉まる。

 丁度同じタイミングで隣の人が帰ってきただけ……?

 いや――それはない。

 ぼんやり浮かんだ疑問を、少年はしかし思い直して否定する。

 このアパートは二階建てで、一階はすべて大家さんの居住スペース。二階には三部屋のみの決して大きくない建物である。

 加えて壁もあまり厚くない。少し大きな音を立てれば隣の部屋に聞こえるし、廊下やそこに繋がる階段を歩く人がいれば、必要以上にこっそりとしない限り、その振動と音は部屋の中にも伝わってくる。

 その音も振動も少年がキャッチしていないということは――つまり。

 外部の人間は関わっていないということになる。

 見たまんま。

 見た通り。

 さっきから少年の住む部屋――二〇三号室のインターホンをこれでもかというほど連打していたのは、隣の二〇二号室の住人ということになる。

 これこそが、状況から推測できる論理的な結論であり。

 ほぼ疑いようのない事実だった。

 いや、だからなんだ。

 むしろ疑いようのある疑惑の方が全然よかったわ…………。

 少年は頭を抱える。

 ぴんぽん連打の犯人がわかったところで、また次の疑問が生まれてきたじゃないか、と。


 何故――どうして。

 なんの目的で――こんなことをしてくれたのか。


 まあ、こうなったら直接話を聞くのが一番手っ取り早い。

 どうせこのまま放置すればまた来るだろう。

 そのときに顔も拝んで、こんなことをする理由も問い詰めてやろうと考える。

 もし来ないなら来ないで、別にいいのだし。

 取り敢えず一度部屋に戻ろうと、少年が扉を閉めようとすると。

「…………ん?」

 少年の部屋の丁度真正面の壁。

 アパートと隣家との距離が近いため、視界を遮る目的で設置された廊下の壁。

 少年の目線の位置に一枚の張り紙があった。

 そこには一文字――否。

 一記号――『↓』の矢印だけが記されていた。

 今朝、ゴミ出しのために一度部屋の外に出ているが、そのときこんなものは見なかった。

 となると、その後、今の今までの数時間の間に貼り付けられたことになる。

 すーっ、と。

 それを貼り付けただろう人物の思い通りになるのは癪だったが、純粋な好奇心が勝った。

 少年は矢印の指し示すほうへ徐々に視線を下げていく。

 と。

 丁度自分の足元の脇。

 玄関の扉のすぐ脇に、コンビニのロゴがプリントされたビニール袋が置かれていた。

 それもまた、朝にはなかった代物だ。

 怪しい。

 あからさまに不審だ。

 普通こんな身に覚えのない物は見て見ぬ振りをするだろう――すでに好奇心は失せた。

 だから、少年もそうした。

 そっと視線をそらし、壁に貼られた紙も、扉の脇に置かれたビニール袋も、見なかった、気付かなかったことにする。

 がちゃん、と扉を閉める。

 状況から考えると――まあ、そういうことなのだろう。

 いや、全く全然、これっぽっちも、一切に渡って意味がわからないが。

 そういうことに他ならないのだろう。

 どうしたものか――である。

 いっそ全て投げ出してもう一度寝れば、何もかもなかったことになっていないだろうかと、少年が現実逃避気味なことを考えていると。


 がん!


 びくぅっ……、と少年の方が吊り上がり、全身が硬直する。

 玄関の扉が叩かれた。

 いや叩かれたにしては低い位置で音が鳴ったような気がする。

 叩いた、というよりは蹴った、に近いような……。

 まあ、そんなことはどうでもいい。

 今度こそどんな奴がこんなことをしているのか顔を拝んでやろうと扉を開けて右を見るが、今度も一瞬遅かったらしい。

 すでに隣の扉は開かれ、三号室の扉に蹴りを入れたであろう人物は波打つ黒髪だけを見せて扉の陰へと消えていった。

「…………ち」

 思わず舌打ちが漏れる。

 こうなったら今度はこっちから隣の家に突撃してやろうかと少年が玄関から出ようとすると。

 貼り紙が増えていることに気付く。

 増えているというか、さっきの矢印の張り紙の上に、雑にもう一枚の紙が貼られているのだ。

 そこには貼り方同様に雑な文字で『拾って』と、書かれていた。

 その雑さは、どこか切羽詰まっているようにも見えた。

 それを見て少年の視線は当然、あのビニール袋に向けられる。

 矢張り――そういうことらしい。

 これまでの一連の迷惑行為の目的がこのビニール袋にある。

 執拗に姿を現さないところを見るに、普通に訪ねても扉なんて開けてくれないだろう。

 インターホン越しにでさえ、喋ることもできない可能性が高い。


 とは言え――怪しいのだ。

 

 こんな得体の知れない物体を拾い上げるのは抵抗があった。

 せめて中に何が入っているのか知っておきたい。

 そう思って少年は、ビニール袋の傍らにしゃがみこんで、恐る恐る手を伸ばす。

 と。

 ぱちん!

「…………いたっ」

 勢いよく何かが少年の額にヒットした。

 痛む額を摩りながら視線を上げると、いつの間にか開かれている二〇二号室の扉。

 扉の端からは白く細い手だけが出ていた。


 その手には――銃が握られていた。


「…………また懐かしいものを」

 少年が呟く。

 銃とはいってもそれは、割り箸だけで作られた銃だった。

 本物の銃のように引き金を引くことで、引っ掛けられた輪ゴムが前方に勢いよく打ち出されるという仕組みのものである。

 誰しもが子供のころに一度は遊ぶだろう、手作りおもちゃである。

 しかしおもちゃであろうと、この距離で思いっきり引っ張られた輪ゴムを当てられたら痛い。

 そこそこ痛い。

 まあまあ痛い。

 ちょっと涙がちょちょぎれるぐらいには痛い。

 ――この野郎。

 少年は立ち上がりざまに勢いよく廊下を蹴り、開けられた二号室の扉に飛びつこうとする。

 こんなことのために扉を開けたのが運の尽きだ。

 今度こそ相手の顔を拝んでやろう。

 そしてあのビニール袋の中身がなんなのか、そもそもあんなものを渡してくる理由はなんなのか、手っ取り早く本人の口から聞いてやるのだ。

 幸い、あの銃の欠点は単発式で一回一回ゴムの装填に時間がかかることにある。

 手は引っ込んでしまったが、次のゴムを装填するよりも少年が開いた扉に手を掛けるほうが早い。

 まあ。

 その少年の読みは、計算は、二号室の主が、今打ち出したばかりの銃に次弾を装填すれば――の話なのだが。

「…………え?」

 嘘、だろ…………少年の目が驚愕に見開かれる。

 少年が扉に手を掛ける手前。

 しっかりと輪ゴムを装填された銃が、少年の顔面に突き付けられていた。

 ばちん!

「いってえええええええええええ!」

 咄嗟にかわそうと顔を振ったのが災いしたのか、輪ゴムは少年の右目にヒットした。

 幸い目を瞑っていたからよかったが、たとえ瞑っていたとしてもそこは顔の中でも皮膚の薄い部位だ。

 近距離で撃たれれば、普通に痛かった。

 右目だけから涙がにじみ出る。

「こんにゃろう……っ」

 負けじと再び扉に飛びつこうとする少年だったが、またしても手を掛ける手前でその突撃は阻止された。

 ばちん!

 今度は額にヒット。

 くしくも一発目がヒットした場所と同じところだった。

 左目からも涙がこぼれる。

 二号室の主は、次弾を装填しているのではなく、元々装填してあった銃を代わる代わる打っていた。

 つまり、最低でも割り箸銃を三丁持っているということだ。

「一人三段撃ちなんて、器用な真似を…………」

 無情にも少年の目の前で扉は閉まった。

 がちゃん。

「くそぅ…………、意味がわからん」

 涙を袖で拭いながら少年はぽつりとこぼした。

 そもそも。

 なぜ自分はこんなことに付き合っているのか。

 冷静になって考えてみれば、どこにもそんな理由はないのだ。

 相手が隣人だろうがそうじゃなかろうが、得体の知れない物体なんて見なかった振りをして、貼り紙なんて知らなかった振りをして、無視していればいいのだ。

 無視し続けていれば、きっと二号室の人も飽きるだろう。

 あるいは、諦めるだろう。

 どっと疲れた……。

 少年は自分の部屋の扉を開けて部屋に戻ろうとする。

 が。

 べちゃ。

 背を向けた少年の後頭部に何か柔らかいものが当たった感触。

 触ってみると、ぶよぶよ、ぐにょぐにょ、ひんやりしていて――手にまとわり付く。

 そんな気持ち悪い感触の正体は――エメラルドグリーン色のスライムだった。

 更にこつん、と少年の後頭部に当たって地面に落ちたものが、ころころと足元に転がってくる。

 空の容器だ。

 容器にはメモが張り付いており――『スライムはこれに入れて保管してください』ご丁寧にそんなことが書かれていた。

 やかましいわ!

 スライムは比較的簡単に髪の毛から剥がれた。

 それを容器に戻して振り返る。

 扉が開いている。

「なんの用、なんですか…………」

 少年が疲れた声でぼそっと訊くと、またしても扉の端から白い右腕が伸びてきて、人差し指を伸ばし、指し示した。

 壁に貼ってある貼り紙を。

 『拾って』と書かれた貼り紙を。

「いや、拾ってって……、さっきそうしようとしたらそっちが攻撃してきたんじゃ――」

 少年が言うと、苛立っているのかなんなのか、人差し指は何度も貼り紙を指さす。

 とんとんとん、と音に合わせて廊下が振動する。

 指さす動きに合わせて二号室の住人が跳ねてでもいるのだろうか。

 興奮している様子だった。

 よっぽど少年にビニール袋を拾わせたいのかもしれない。

「なんなんだ……」

 しょうがなく少年は再びビニール袋の傍らにしゃがみこんでその中に手を伸ばす。

 べちゃ。

 顔面にスライムが張り付いた。

 次いで容器が足元に転がってくる。

 少年は思う。

 ――精密なコントロールじゃねえか。

「じゃなくて! 一体何をさせたいんだっつの!」

 スライムを剥がしながら少年が扉に近づいて白い腕を掴む。

 見た目通り、細い腕だった。

 力もそこまで強くはない。

 少年は逃れようとする腕を掴んだまま、ぐいっ、と身を乗り出して扉の向こう側を覗こうとする――と。

 ぐにゅう。

 何か柔らかいものが顔に押し当てられた。

「んぐ……っ」

 鼻と口が塞がって息ができない。

 どんどん顔面への圧力は強まり、ついに。

 ばちっ。

 破裂音が少年の耳に届いたときには、顔面が水浸しになっていた。

「冷たっ! は? 水?」

 驚愕と衝撃で手を放してしまい、二号室の主はここぞとばかりに部屋の中に逃げ込み扉を閉じた。

 呆然とする少年の足元には、水色の切れ端が落ちていた。

 破れた水風船だった。

 顔面だけでなく、もう体の前面がびしょびしょである。

 この水量…………、どんだけでかい水風船作ってたんだか。

「くそっ、こうなったら徹底抗戦だ。全面戦争だ。意地でも中身を見てやる」

 扉に背を向け少年は再びビニール袋の傍らにしゃがみこんで袋の中に手を突っ込む。

 よし!

 今度こそ中身を確かめて――

 ぐにゅ。

 またしても後頭部に柔らかい感触の物体が当たる。

 しかし、そんなものは想定内だった。

 もうスライムぐらいでこの手を止めてやるものか。

 そう思っていたのだが。

 次の瞬間。

 後頭部に当たったそれが、破裂した。

 びしゃあ、と。

 首筋を伝って大量の水が服の内側に流れ込んでくる。

「ひぃ…………っ、冷たい冷たい冷たい……、こんのっ」

 驚きで飛び上がったついでに振り返ると。

 開いた二号室の扉の端から右腕が飛び出し、手にぱんぱんに膨らんだ水風船を握っていた。

 しかも既に振りかぶり済みの体勢。

 少年は身構えることもできずに顔面に被弾。

 もう前も後ろもどこもかしこも、少年の全身はくまなく水浸しになっていた。

 何がどうなっているのかわけのわからない状況で、髪から水を滴らせながらうつむく少年の足元に。

 ひらり、と。

 一枚の紙が滑り落ちてくる。

 それは水浸しになった廊下に落ちて灰色に変色していくが。

 そこに書かれた文字を少年は読み取ることができた。

 『中身は部屋の中で見てよね』

「…………っ!」

 上等だ!

 絶対この場で見てやる!

 新たな決意を胸に少年は一度自分の部屋の扉を開けると、玄関脇にあったあるものを持ち出し、廊下に戻ってビニール袋の中に手を突っ込む。

 屈んだ体勢の少年の脳天に水風船が炸裂するが、もはや全身水浸しになっている少年にとってそんなものは痛くもかゆくもなかった。

「更にこれでどうだ!」

 少年は部屋から持ち出した傘を前方に展開。

 少年の防御力がアップした。

 水風船が傘にあたって廊下に落ちる。

 運よく割れずに落ちた水風船を拾って投げ返してやろうかとも思ったが、そこは思いとどまりビニール袋の中身の確認に精神を集中する。

 防御は鉄壁。

 これでどんな妨害も気にせずにビニール袋の中身を確認できると――

 ばしゃっ。

 かがんだ少年の後頭部に落ちてきた水風船が破裂して水をまき散らした。

 どうやら前方に展開した傘を回避するため、上から放物線を描くように投げ入れてきたらしい。

 いや、ほんと、どんな精密コントロールなんだよ……。

 そして用意している水風船の数!

 割り箸銃の三段撃ちどころじゃなかった。

 更に続けて二個、三個と水風船が少年の後頭部に落ちてくる。

 どれもがクリティカルヒットだった。

 少年の精神力が下がった。

「ちっ……」

 仕方なく一時的に傘を上に向ける少年。

 だがそれこそが。

 その行為こそが。

 今回一番の少年の失策だった。

 考えなしの愚策であった。

 前方に開ける少年の視界。

 少年の目に映ったのは――丸い穴だった。

 細く黒い穴――そしてそれを握る白い手。


「…………おい」


 嫌な予感が少年の脳裏をよぎる。

 危機感に突き動かされて上に向けていた傘を再び前に向けようとするが。

 ――時すでに遅し。

 しゃーっ!

 とものすごい勢いで黒い丸穴から噴射された水が少年の顔面を直撃した。

「ぶぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ…………ごばあっ!」

 遂にホース持ち出してきやがった!

 傘でガードを試みるが、どうしてもガードしきれない部分がある。

 相手はそこを的確に狙ってきていた。

 傘を前方に展開すれば、上から豪雨のように水が降り注ぎ。

 上に展開すれば顔面へ直撃する水の奔流。

 為す術はなかった。

「ああもうっ! …………わかったわかった。僕の負けだよ。言う通りにするよ」

 少年はたまらず玄関の扉脇に置かれていたビニール袋を手に取り、部屋の中へと退散した。


                        ●


 びしょ濡れになった服を全て脱ぎ、新しい部屋着に着替えた少年は床に座り、少し困ったような、けれど嬉しさが隠しきれない表情でテーブルの上を眺めた。

 ペットボトルのスポーツドリンク――二リットルのものが一本。

 十数秒で体力が回復するとふれこみのゼリー飲料――五つ(通常のものが三つにビタミン入りが一つ、アミノ酸入りが一つ)。

 千円近くする栄養ドリンク――一本。

 タッパーに入ったおじや――一つ。

 タッパーにはご丁寧に付箋が貼られ、『おじや』と書かれていた。可愛らしい丸文字だった。

 最後に葉書の半分ほどのサイズの厚紙が一枚。

 淡いオレンジの背景に紅葉がプリントされた厚紙――そこには文字が綴られていた。

 『ここ二日、夜中の間中酷い咳が聞こえます。

 病院は行きましたか?

 あまり咳が酷いと最悪、肺炎の心配もあります。

 どうしても咳が止まらない場合は寝る時もマスクを付けると良いですよ。

 兎に角食べて、飲んで、体力をつけてしっかりと休息、休眠を取るのが大事です。

 いいですか?

 早く治してくださいよ。

 二〇二号室より』


                        ●


 翌日。

 十月三日――木曜日。

 少年は高熱を出した。

 当たり前だ。

 風邪をひいている中であれだけずぶ濡れになれば、悪化するのは当然の結果である。

 結局――その週丸々少年は寝込むことになった。

 少年が回復するまでの数日間、高栄養で彩鮮やか。真心、愛情過多の手作り料理が毎食分届けられたことは――二人だけの秘密である。

 その全てを、少年が残さず綺麗に平らげたことも。

 毎回戻ってくる空の容器とお礼のメモに――彼女が頬を赤らめ微笑んでいることも。

 本人達しか知らない秘密である。

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