温かな白
「あ、あぁ、あぁああぁ…」
抑えられるはずもなかった。
一つ以外の全ての事象が棚上げされる。
「わああああああぁぁぁぁぁあああぁあああぁァァアアァァァアあぁっ‼‼‼」
ご主人がどうして蘇生したのか。首の骨がどうなっているのか。そもそも今私とご主人がどんな原理で会っているのか。そんなことは全て二の次だった。
私は、ただ無我夢中でご主人に飛びついていた。
自分が一糸まとわぬ姿であろうと、此処が油臭い不似合いな場所だろうと、全く関係ない。ただ、一心に、自分のただ一つの喜びの為にご主人の胸に顔を埋める。
溢れる涙が止まらない。それは、私が覚えていた絶望の涙とは違う。
温かい雫はただ嬉しくて、奇跡を噛み締めるように零れ続けた。
ご主人も同じであるようだった。
奇跡を信じたことはなかった。
偶然な幸運を引き当てたことは無いに等しく、偶然な不幸しか引くことはできなかった。それが俺の人生の基本ルールであった。
50:50の確率割合は、俺が引くと80:20にレート変動する。皮肉を言っているわけではない。統計だと、理解してほしい。
それでも、信じるしかなかった。
なんだか、逆に、負けを認めるような感覚だった。
正直に歓喜、とはいかない。そんな立場だ。
でも、これは違いなく、『奇跡』である。
俺は、何故か目を醒ました。
醒める筈は無かった。そう計画したうえでの実行だったからだ。首は折れ、さらに頸を圧迫して二重で絶命できる筈だった。
ひょっとして天国か地獄か三途の河の畔とかでのお目覚めでは、と思ったが、こんな油臭くサビ臭い創造の世界があってたまるか、と否定した。
この場所は俺が頸にロープを掛けて、屋根から飛び降りた廃工場に違いない。全ては最初のままに戻っていたように思える
ただ。ただ一つ、俺に被さる形で眠る白毛狼耳少女――泉雫を除いて。
原理は解らない。どう考えても俺はそこまでだった筈なのだが…。
それでも、そんなことは今、関係なかった。理屈や手段など、全てがどうでもよくなってしまうことが、抵抗の暇もなく起こったためだ。
情に合わないことは確かだ。
――それでも、俺は自分の涙を止めることなんてできなかった。
感情はなんと名状すればよいのか解らない。理解できない。納得できない。説明できない。解析できない。
涙の痕が酷く残るセンラを起こさないように、ゆっくりと俺は座った。彼女がやったのだろうか、俺は横たえられ、その俺に抱き着くような形でセンラは寝てしまっていた。『泣き疲れた』としか言えないが、そんな幼稚なものでないことは解る。深い涙の痕はそれを示してくれていた。
そのセンラを起こすことが無いよう、俺は身体を引き抜き、そして、地面に直に寝かせるわけにもいかないので膝の上に頭を乗せてやった。
性別的立場は、よくあるカタチなら逆なので、敢えて『膝枕』とは言わない。しかし、動作としてそうであると言われればそうだ。
悲し気な表情のまま眠っている。心が痛む。
だが、どうすればよい。どう考えても、『死んでいた人間が気が付いた時生き返っていた時の都合のよく状況にうってつけな台詞』なんてわからない。
しかし、なんといえばよいのか。どうしてなのか。
どうして、俺なんかのために。
そんなふうにただ自己完結を繰り返してしまう無限思考に陥り、ただそれを繰り返していた。溢れる涙の量だけが、ひたすらに増し続けていた。
どれくらいの時間が経ったろうか。時間の感覚など、もとよりなかった。
いずれとは思っていたが、センラが本当にゆっくりとした動作で目を開けた。
それに気が付くのと同時に、いくつかの涙の雫が、彼女の頬のあたりに落ちて伝っているのに気が付いた。
軽く涙を拭うと、センラにも状況が幾らか理解できたらしい。
そして、センラも信じられないという表情のまま、夢中に飛びついてきた。
姿は裸。でも、それを、俺の言いつけを破ったと怒ることが、どうしてできようか。
深く考えなくても、センラが俺を探すために狼形態で、つまり持てるすべての能力を持って東奔西走したのだろうとわかった。おっと、語弊があったか。多分俺の臭いを追跡してきたのだろうから、東奔西走はしていないか。
でも、俺には深く考えてもわからないことが、今在った。
一体どう口を開けばよい?わかるはずもない。それに、そんな都合よく機転を利かせられるほど、俺は有能ではない。
いや、そんな才能なんて要らないか。
ほぼ、無意識だった。
俺の口から出た言葉は、涙の混じる拙いものだった。流れる涙のままに。謝罪や懺悔の言葉より先に。ただ俺と同じ心情に涙を零す少女へと告げた。
「―――ありがとう。」
センラが急に飛びついてきたうえ、俺は放心していたような状態だったから、ずっと棒立ち、いや棒座りのまま抱き着かれていた。
でも、俺の自然に湧いて出た気持ちは、漸くあるべき動作を復元した。
「本当に…。すまなかった……‼‼」
ぎゅっと、そして一層の温かみを感じられるよう、少女の身体を抱きしめ返した。
首が交差する形で、つまり互いの表情は見えない筈だ。それでもお互いがお互いの表情なんてわかっていた。何よりも、親しく素直な泣声が、必要のないヒントまでくれていたほどだ。
時の過ぎるのが速く感じられ。
俺には不釣り合いなほどの幸せを、ただこのときばかりは味わっていたかった。




