負傷の白
何度も経験していると、もう足音でご主人が帰ってきたのがわかる。
私が自由にできる部屋とそうでない外とを区切るあの扉が玄関。慣れきった手つきで扉を開け、ご主人が帰宅する。
扉は部屋の物品同様に複雑な造りをしているようで、素材もわからないし、どういう仕組みか金属の取っ手がそのまま開閉の仕掛けになっているらしい。錠も扉に組み込まれているようで、内側からならツマミを捻るだけで簡単に開くが、外側からは鍵が無いと開かない。つまりは内側に私がいるので開けようと思えばいつでも開けられるし、いつでも外に出られる。けれど、特別外に興味もないし、寧ろ外に対して怖さまである。ご主人は、知らぬ他人が私の居る部屋に入れないように錠を掛けてくれているのだし、それを無下にしてまで開ける気もなかった。
荷物を置いたご主人は暑そうにシャツを緩めた。……『シャツ』でいいんだよね? 散々日芽に教えられたけれど、知らない単語ばかりで、実は、ほとんど、覚えていない。
「学校って森に行ったりするの?」
ご主人の全身にこびりついた緑色の匂い。初めてご主人と事故った場所が、唯一と言ってもいい私の知っている『外』の景色。それまでの人生でどうしていたのか、今や考えるのも無駄だけれど、少なくとも今の『私』が知っている『外』はアスファルトでできた道とガードレールの鉄柵、鉄の看板や岩の柱、それらに押しのけられるようにどうにか存在する程度の自然。あの時の景色を思い出すに、遠くには青々と茂る山が続いていた筈だが、人の生活圏は未知の人工物ばかりだったように思う。ご主人の通う学校がどんなものなのか、辞典に書かれた解説でしか知らない。だが、山の中にぽつんと建物があるわけではない……と思う。
ご主人はそんな私の疑問と、私が嗅覚を以ってそう訊ねたという原理に気付くと、首元を緩めるどころかシャツを脱ぎながら返してくれた。
「ああ、これはちょっと色々あって……。それにしても流石は狼の嗅覚だ。人型の姿でもやっぱり鼻は効くんだな。」
「狼のほうがよく判るけど……」
ご主人にはほとんど匂いはわからないらしい。洗剤や薬品の臭いも、ずっと生活して慣れ切っているから気にならないのかと思ったけれど、そもそも匂いの判る程度が違うという話だ。
「じゃあ先にシャワー浴びて洗濯するか」
言いながら薄い肌着姿のご主人は、着替えを手に洗面所の方へ入っていった。お風呂と、脱衣所兼洗面所は隣り合った空間になっている。私が日芽に衣装をあれこれ試されたのもその洗面所である。洗濯機もこの部屋にある。
「じゃ、じゃあ私が洗濯してみる……!」
おう、とだけ短く応えてご主人はお風呂場の方へ入っていったらしい。独特な扉の開閉音だ。
ご主人が脱衣所にもういないことを確認すると、今度は私が、半透明の扉越しに水飛沫の音を聞きながら、文明の利器と対峙する。
洗濯機の操作はご主人に教わった。最低限の操作だけだけど、それでもすべてが見慣れない機械、つまずくところは少なくない。そもそもボタンの概念が画期的である。――画期的なのだけど、構造がわかっていない私にとっては困難を助長しているだけである。極彩色の洗濯用洗剤を投入して、それから二、三ボタンを押せばいいだけなのだが、操作が正しいかどうかは小さな表示枠の数字だけで判断しないとならない。
所定の操作をして『開始』ボタンを押すと、一応は水が搬入されて機構が動作しているようだった。誤ったことをすると大惨事になりかねないと聞いていたけれど、あとは無事に洗濯が終わることを祈るしかない。操作も間違えていないハズだし!
これでしばらく放置していれば勝手に洗濯が終わるはずだ。近くで見守りたいところだけど、シャワーを終えたご主人の邪魔になるのもよくないので、辞典の続きでも読みながら待っているとしよう。
さほど時間をおかずして、ご主人は身体から湯気を発しながら戻ってきた。
「センラはシャワーどう?」
ついで、という感じだけど、もう私も着替えたし、洗濯中だし、そもそも必要がない。
「いったん狼になったり人に戻ったりすると汚れも消えるから……」
「なにそのチート」
ご主人も私自身も、今更不思議には思わなかった。
人型から二回変身してもう一度人型に戻ると、身体は色々な状態が一定の状態に戻る。昨日変身の限度や程度を試したときに気が付いた要素だ。狼型になった時点で服は弾き飛ばされるから、同様に身に付いた汚れや余分な汗は身体から離れるらしい。清潔さだけならこれまでの数日のようにシャワーを浴びるよりも有効だ。
呆れるのも束の間、冷蔵庫から冷えた麦茶を出しながら、ご主人は料理を覚えてみないかと提案してきた。
「お昼とか、センラの好きに作れた方がいいだろうし」
そんな風に言いながら、私が返答するよりも先に調理器具の準備を始めるご主人。ただの火ならともかく、不自然に臭いのついた発火装置の火はやはり不気味で近寄りがたさがあるのだ。遠くからご主人が扱うのを見るだけならいいけれど、ましてやそれを使って調理するとなるとちょっと抵抗があった。……のだけど、既に拒否させてもらえなさそうだった。
「ご主人の手間が省けるのはいいことだけど……」
このままいくと、しばらくご主人が家に帰らなくても生活できてしまいそうだった。できる限り自力で生きていけるようにすべきだし、それ自体は嫌ではない。もっとも、ご主人にやってもらうからこその嬉しさもあったりするけれど。
ご主人が取り出したのは卵と炊飯器から出したご飯。
「基本のチャーハンを作ります」
料理に関しては本でごくまれに知る機会があった程度で、さすがに数日で『知っている』と言えるくらい把握はできなかった。つまり知識は事前に知ることなく初めからご主人から直接教わる形になる。もっとも、多くの身近な知識はそうだったけれど。
「卵を割ったり」
言いながらご主人はよく冷えた卵を手渡してきた。でも卵の扱い方なら何となく判る。たぶん、言葉と同じく経験したことがあるのだ。そして、本当に記憶を失うほど忘れたかった嫌な記憶とは関係なく。
器に卵を割り、そのままご主人に押し付ける。
「溶いたり」
そのまま、いや菜箸付きで戻ってきた。こちらも少し怪しかったが、ご主人の手による修正付きでなんとかこなせた。
そして、溶いた卵をご主人に押し付けると、今度はご主人が場所を空けた。ここに立て、ということらしい。
「油をしいてフライパンを加熱します」
いよいよ発火装置の調理器械を使うということらしい。ご主人の手ほどきに従って油を垂らし、そして器械のツマミを捻る。……が、何も起こらない。
「ご主人、駄目です」
「押しながら回さないとダメだな」
急に素に戻ったご主人の言葉に従いながら、今度は押して、回す。
バチバチと器械が音を鳴らしたかと思うと、突然調理器具の真下が発火した。
「――ッ!?」
思わず飛び退く。……後ろが洗面所で、ここが狭い通路であることを忘れたまま。
「……んくっ!?」
脱衣所の扉の取っ手に腰を強打した。――悶絶である。ご主人に自転車で轢かれた時よりも痛かった。
尻尾が挟まれなかったのは不幸中の幸いだった。床に崩れる自分の身体を止められないけれど。
「あー……」
ご主人も予想していなかったらしい。二の句が継げずにいた。
「わ、私、料理無理かも……」
あまりの痛みに涙が視界を歪める。
カチッという音はご主人が火を消した音だろう。火を点けているときの嫌な臭いも薄まった。
「とりあえず今日はここまでです」
私、再起不能により途中棄権であった。
旧作(これまで在った書き直し前の状態)には無かった、全く新しいストーリーです。書き直しで消滅したハンガー・ブーメランのくだりの代わり的な感覚です。
次話の書き直しも同様にゼロから書くことになるかと思いますので、少し時間がかかりそうですが気長にお待ち下さい。




