優しさの白
月曜日。この四日の間にセンラと出会い、そして一緒に過ごした。それから長い週末を経て新たな週が明け、普段通りの学生生活に戻る。
白い狼を拾ったのが木曜の話。それから何が何やらわからぬまま、とりあえずといった感じで金曜を過ごし、そして土曜はセンラの服や日用品を買い、日曜にはセンラが一人でも家で過ごせるように色々教えたり試したりした。金曜の時点でできなかったことも、今ならずっとうまくできるだろう。どうやらセンラも今の環境に興味があるらしく、辞典を片っ端から読み込んでみたり時に漫画を開いてみたりしているようだった。さながら、苦手な外国語の勉強でもするかのように。
センラが家に来て、そして住み着いて。一気に日常が変わってしまったように思っていたが、学校にいる間はほぼいつも通りだ。流石にセンラを通わせるわけにはいかないし、そもそも狼耳の白髪少女を迂闊に外に出させるのは色々と心配だ。センラについて義母とは話がしてあるし、センラには何かあれば固定電話で義母に電話できるように教えてもある。
結局違いがあるとすれば考える対象に、かの狼少女が追加されたくらいなのだ。もっとも、僕にとっては良い変化なのだが。
そんな風に考えながら教室に入る。
「――なんだ?」
教室中が騒然としていた。少なくとも期待や愉快といった感じではない。
「いやー、デカい蜂が入ってきたんだけど……」
近くにいたクラスメイトの言葉で、充分に状況が理解できた。
騒動の中心は、鴻野日芽その人だった。
鴻野日芽。高校のクラスメイトで幼稚園以来の幼馴染み。やや小柄で、痩せ気味。
容姿で特徴的なのは、その黒・茶・赤・金・白の混じった髪だ。
ナチュナルに整えられた髪は、校則に則って色を染めてはいない。つまり、本来の髪色がこう。母親は金髪だったハズだが、それにしたってこうなる理屈はわからない。その母親も、そして父親も、日芽が小さい頃に事故に遭い、既に鬼籍である。父の余財で生活はできているし、身体の弱かった母親のために雇われたいた使用人が、今も無償で日芽の世話をしている。
容姿も学力も群を抜いている(と僕は思っている)が、あまり交友関係は芳しくない。特に高校に入ってからは顕著で、不必要な話題でも話をできる相手は僕を含めて片手で数えきれる程度。
彼女の人間関係の問題は、彼女本人の特性によるものである。
『あらゆる生物と意思疎通できる』というと途端にファンタジーだが、ほぼその通りのことができるのが鴻野日芽である。哺乳類どころか無脊椎動物でも、傍目に分からない微生物になると判断は付かないが、僕の知っている限り彼女はあらゆる生物と意思を通わせられる。
そう。あらゆる生物と、だ。
カエルやカラスはまだポピュラーな方だろう。では、ヘビやムカデでは? ゴキブリだって彼女にとっては何のことはない隣人だ。多くの人が忌み、危険だとか気持ち悪いだとかで近づかない生物も、鴻野日芽は平気で関われる。それだけで人が寄り付かない理由は十分だろう。
だが、それ以上に。
彼女は愛せてしまう。
ザワつく教室。多くは不快と嫌悪の声。
「だから! 怪我してるから居させてあげてって……!」
「誰か刺されたら責任取れないだろう!」
日芽の声と、それから……確か三年の学年主任の声だ。
人垣に混ざりながら前へ出る。ドラマの野次馬のように円になって二人を囲んでいるわけではない。教室なのだから、いくつかのグループがそれぞれの拠点に屯しているままだ。そしてグループ内で代わる代わるに二人を観察し、視線は飛び交い、隠すつもりもなく付和雷同に嘲ける。
異常な光景だが、日芽にとって初めてのことではない。
「――あっ、待って……!」
涙で濡れた日芽の手から、小さく何かが零れ落ちる。と、同時に、さっきまで他人事のような態度だった周囲の人間が今更ながら一歩二歩と引き下がる。同時に筆箱や上靴を手にした幾人かが目に入る。
飛翔できずに床に飛び降りたのは、想像を上回るサイズの大雀蜂だった。
まだ夏も始まったばかり。ハチが弱る季節ではない。遠目ではよくわからないが、日芽の言葉をそのまま信じるならば、その雀蜂は怪我をしていて飛べないのだろう。
「ほら、ダメだ! いい加減に――!」
焦りと怒りに満ちた教員の声。だが、彼が言い切る前に怒声に触発された生徒が動いた。
「おい!!」
咄嗟に前へ出る。
だが、間に合うはずもなく、無責任に投げつけられた金属の筆箱は、目標を見失って日芽本人の方へ。
「ッ――!」
それ自体は大した重さでもないが、人間は投げつけられたものをよく確認してから対処したりはできない。咄嗟に避けようとした日芽だが、狙いが足元の雀蜂だと気付いて躊躇った。
運が良ければそもそもこんな状況になっていない。人の肌に比べればはるかに硬く凶悪な筆箱は、無意識に投げつけたそのままの勢いで日芽の顔に命中した。
その痛みか衝撃か、中途半端に傾いた身体は鉄筋コンクリートの壁に強く衝突し、崩れる。
不幸などと茶化せる話ではない、人間の悪意と無知への怠慢な対処。
「――先生! 保健室に!」
眼前の状況に狼狽える頼りない教員を急かし、僕自身は日芽の方へ駆け寄る。周囲は一転して静まり返っていた。誰がやっただとか、誰が悪いだとか、そんな言い合いすら起こらない。
クラス一同の前には嫌われ者が二人、誰もがその仲間に入ろうとはしなかった。
その日の放課後。
「目、大丈夫……?」
「……」
学校の運動場よりもさらに奥。
未開拓の森林といった具合の雑木林。
「あの後は生徒会長さんが保護してくれたよ。生徒会の用があったみたいで、その場にいなかったことを謝ってたよ。――ああ、そんで、日芽がその蜂と話してくれてたからか、会長も安心して保護できたらしい」
「…………」
日芽の右目には医療用の眼帯。左手には今朝の雀蜂が乗っかっていた。
あの後、日芽は教室に戻ってこなかった。重大な怪我じゃないかと何度か保健室に行ってみたが、ことごとく門前払いだったので放課後まで様子がわからなかった。
放課後になって諸々の事情を把握した担任から頼まれ、その後の様子見も兼ねて付き添いに来たというわけなのだが、心はとてもじゃないが穏やかではないだろう。
力不足を嘆きたい、人望と信頼のなさ、いったいどうすれば角を立てずに事を済ませられたのか。そんな後悔や不安が日芽の中で入り乱れているに違いない。
日芽にとって、ハチ一匹の事情は人一人の事情と同じ。弱った雀蜂を助けようとした日芽に対して、周囲は危険だから放り出せと言うばかり。そんな認識の差の中日芽はたった一人だったのだ。一方で、そんな日芽を何一つ助けられずにノコノコ出てきた僕だ。お互いが気まずい。一体どう接したものか……。
無言のまま日芽は先を歩いてく。時々手の甲に乗せた雀蜂とコミュニケーションをとっているようで、木々をすり抜け道筋を辿っていく。
行き先は恐らく、かの雀蜂の自宅だろう。飛んできた雀蜂とどうコミュニケーションをとったら道筋を辿れるのか見当もつかないが、聞いたところで今の日芽が答えてくれそうにもない。
「でも、やっぱり日芽はすごいよな。僕なら諦めてたかもしれない」
「……、」
空いた右手のやり場に困るような仕草を見せ、彼女は少し動揺しているようだった。
昔から変わらない。
僕にはできないことも、日芽にはできる。僕が今日あの場に立っていたとしても、自分の信念を守ることもままならずにとっくに諦めてしまっていただろう。勿論そうしたいわけじゃないが、『したいこと』と『できること』の差だ。努力だとか気合だとかいったことも含めて。僕が頑張り切れないところまで、日芽は走り切れる。だから僕は日芽の傍を歩いている。
一〇分ほどさまよって、たどり着いたのは少し開けた草原のような場所だった。人の手が入った場所のようには見えないが、一般住宅の一軒くらい余裕で建てられそうな広さの空間が、木々を押しのけて存在していた。
オオスズメバチの巣は地中だ。普通なら人間が近付けば即座に攻撃されて、命懸けでなんとか場所を特定できるような一面の危険地帯。だが今回は日芽がいる。巣に近付けば場所はすぐにわかるようで、直線的に茂みの方へ近づいて行った。
「……もう帰れるよね」
漸く口を開いた日芽の第一声はやはり指に抱きつく雀蜂が相手だった。相手が耳のない生き物だったり、聞こえる周波の違う生き物だったりしても、日芽は声に出して話すことは多い。多分、声が直接届くというよりも、その時の『意思』が通じているのだろう。
気付けば周囲にちらほらオオスズメバチが飛んでいた。特有のカチカチという警戒音はしないし、特別こちらを敵視するような雰囲気でもない。日芽がいるから外敵とは認識されていないらしく、せわしなく飛んでいるハチも皆、普段通りの餌探しをこなしているだけなのだろう。
「ところで、負傷したハチって巣に戻ってどうするんだ?」
「幼虫の世話とか……? 本来なら、敵に襲われたり事故で怪我をしたりしたら巣に帰ることもできないんだけど、あの蜂は人間のせいで怪我したんだから」
「……どうりで」
ただ不幸な事故で負傷したのなら、日芽もあそこまで食い下がらなかったかもしれない。大方、窓から逃がすべき迷い込んだ蜂を、誰かが反射的に攻撃したのだろう。流石にオオスズメバチともなれば叩いたくらいで大きく損傷はしなかったわけだ。羽根が千切れたり外骨格が大きく割れたり、そういった目に見えてわかる損傷はなかったが、人間でいう打撲だとか筋を痛めたようなものなのだろう。お互い過干渉なく済んだトラブルだったのに、人の手で必要以上に傷付けたとなれば、生き物と心を通わせられるレベルで親しい日芽が荒れるのも無理はない。
あの蜂が再び飛べるようになるのか、そこまでは日芽にもわからないだろうが、ひとまず無意味に殺すことなく済んだ。もっともそれで日芽が満足することはないだろうが……。
ただ、今はあの蜂が仲間の元に帰っていく様を二人で眺めているだけだった。




