状況確認
勢いよく起き上がった。
「わ!?びっくりした!」
膝まで伸びる長い髪に白ワイシャツと紺色のスカートスーツ姿の橘真美が右手に紙コップを
持ちながら目を見開き、立ちつくしていた。
周りを見渡すと一人暮らしぐらいのスペースに季節はずれのもみの木、子供のラクガキにしか見えた事がない有名画家のカラフルな絵、紙コップ式自動販売機が2つと立ち食い用テーブルが一つ、そして自分が寝ていた非常に硬めなソファーが一つ。
そっか、休憩室で…寝てたんだっけ。
「え……っと」
ボサボサな頭を掻き毟りながら、己の曖昧な記憶をゆっくりゆっくり思い出していた。
「はねっち?」
「ん?……あ、真美姉。おはよ……」
目がまだ半開きの俺に真美姉は右ポッケからギンガムチェックのハンカチを手渡す。
「おはよう、大丈夫?寝汗すごいけど……」
「え?」
ベッタリと汗が染み込んだソファーに感化されつつも橘は心配そうな顔で問いた。
「嫌な夢でも見たの?」
さすがに夢の話はできない。現実味がなさすぎるし、珍獣扱いされるのも癪だ。
「ゴーストライターに作曲させていたことがバレて社会復帰できないくらい徹底的に叩かれる夢を見てた」
「いつから作曲家になったのよ、はねっち」
真美姉は少し心配しながらも、これ以上は触れなかった。勘のするどい真美姉は夢でなにかあったこと事態は察していると思われるが、そこから先に立ち入らない優しさこそ真美「姉」と呼ばれるゆえの由来でもある。俺もそんな優しさに触れてからはそう呼んでいる
「それより、さ……俺って寝る前に何していたかわかる?」
「寝る前? えーと……」
右の人差し指を顎に当てて考える仕草をする橘。
「受付の環奈ちゃんの話によると確か……はねっちが県警に黒ずくめの男の首根っこ掴んで入ってきて……受付の前に立ちつくしたかと思ったら上から大阪弁で『胡蝶君、それ投げてくれへん?迎えに行くのめんどくさいねん』って零崎君が上から言って……それではねっちが上に向かって男を投げて……上で物凄い音と叫び声が聞こえたけど、無視してそのままエレベーターに向かっていった……って聞いたよ」
「……」
覚えてはいないが傍から見れば異常な光景だろうな…
「法律に触れちゃっているけれど大丈夫なのかな~?それも、県・警・内・で」
「……すんません」
やっと思い出してきた…
昨日の晩のことだ。仕事からの帰宅時刻がまだ真っ暗な朝4時で妹は警視庁に泊まり込みで仕事をしていたために眠りについたら確実に遅刻すると判断した俺はそのままブラックコーヒーを飲んでダラダラと録画の溜め撮りをしていたドラマを見ていた。が、結局寝落ちし、目覚めれば午後2時という怠け者レベルの遅刻をし、颯爽と地元津田沼から電車ではなくわずかながら早い千葉県警行きバスに乗り込んだ。
結局この後バスがジャックされちゃって……黒づくめの男捕まえて……投げて……第二波の眠気に負けて寝た。
で現在に至る、と。
はぁとため息をついて落胆とする真美姉だが、顔は少し笑顔だった。
「ま、はねっちらしくていいけどさ」
手に持っているコーヒーを一口啜って間を取る。
「夜明さんには私から怒らない程度に捏ね繰り回して報告しといたから大丈夫よ。後、環奈ちゃんの口止めもチロルチョコで買収済みだから安心して」
「随分安い女だな、あの子」
「ちょっと! 環奈ちゃんを馬鹿にしないで! あの子、バレンタインデーも好きな上司にチロルチョコあげて告白するぐらいの鋼のハートの持ち主なのよ!」
「もはや思考回路も安いじゃねぇか」
でも、と前ぶりをして言う。
「助かるよ。ありがとう」
真美姉は笑顔で応えた。
「どういたしまして」
橘真美。歳は俺より2つ上。とんでもなく面倒見がよく、姉のように優しい性格に最近はつくづくそのあだ名が似合う人だなと思う。
「あ! お兄ちゃ……羽雪!」
24時間体制で聞き慣れたその声主はSIFバッジの付いた黒パーカーに現役JK級に短い丈のエメラルド色スカートをひらひらさせていた。女性として心配になるほど貧困な胸元に書類で溢れた段ボールを抱えていた我が妹、胡蝶琴音はその段ボールをドシンと床に落とすと駆け足で近づいてきた。
「おう、琴音」
「あ、ことねる」
駆け足で寄ってきた琴音は俺の身体を労わるように心配……をするのではなく、俺の前を通り過ぎて真美姉の方へ向かい、バッと頭を45度下げた。そんな琴音に真美姉もギョッとする。
「こ、ことねる?」
「私のゴミバカ兄がご迷惑をおかけしました!」
ゴミバカ兄って…
ってか、ここにきて琴音のウザいほどの几帳面な性格が出たな。
「そ、そんな迷惑だなんて。ちょっと見てただけだよ~」
「しかし、結構な時間見ていただいたと聞いていますが…」
「え~…」
真美姉はちらっと掛け時計を確認した。現在、6時18分。
「う~ん、まあ、ざっと2時間ぐらい? かな……あはは」
「!!?」
琴音は血相を変えて俺の顔を睨む。
やっべ
「まぁ、あれじゃん。真美姉もいい休憩時間になったし、俺もこうして目覚めたし、めでたしめでたし………あいたたたたたたたた!!!」
俺のホッペをリンゴでも握り潰すのではというぐらいの握力で冷酷な目をした琴音はギギギと引っ張る。
「反省しろ、カス虫が」
「ふみまへん、ふみまへん! ふみまへんへひたぁぁぁぁ!」
やっと解放された異次元ほっぺ捻りは未だにヒリヒリする。真美姉は呆れたような乾いたため息を吐く。
「はねっち、今のは君が悪いよ」
「わかってるよ……」
琴音もホッペを膨らましながら拗ねているようにため息を吐く。この休憩室には俺に対する評価が著しいほど下がっていた。琴音はそんな俺を後ろに
「真美さん、ほんとにありがとうございました」
再び真美姉と話していた。今度はさっきほど頭は下げずに背の高い真美姉をクリッとした子猫のような上目遣いで申し訳なさそうにしているが、さきほどよりは固くなくラフな感じだった。真美姉も楽そうだ。
「いいのいいの、ほんとのところ朝から休憩なしのデスクワークで疲れてたから丁度いい休憩になったのは事実だしね」
「そう言っていただけると助かります」
そして、再び琴音は俺の方を向き「本当に反省してるの」「もっとしっかりして」などと色々と説教をしてきた。それを傍らで見ていた真美姉がふとこんなことを言った。
「ことねるぅ、別に私の前では無理しなくていいんだよ?」
「と、言いますと?」
「はねっちの呼び方。無理に羽雪じゃなくて、お兄ちゃん、でいいんだよ?」
「んなっ!?」
お、今日初めて顔赤くしやがった。意外と可愛いのが俺も病気かなってちょいちょい思う。
「さ、さすがに上司の前でそのようなことはっ!」
「別に気にしないからいいよ? っていうかそーいうラフな雰囲気な方が私も一緒にいて気が楽だなぁ、
なんて」
「し、しかしっ」
「真美姉がそうしてって言ってんだからそうすりゃいいじゃねぇか、ってか前々から気になってはいたが何なんだその癖は? ツンデレか?」
別に妹が兄をお兄ちゃんということに何を躊躇する必要性がある? 家じゃ地声でお兄ちゃんって言ってる奴が。
「仕事する場なんだから常識でしょ!」
「あっそ」
興味ねぇ
「まぁ、確かにデスクとかではマズいけれど、ここは休憩室だし? こんなとこでも気を張りつめちゃ身体が持たないよ。それに、なんか壁作られてる感じしちゃうから、なるべくならそうして欲しいか
なぁ?」
「そんな! 壁だなんて!」
「それじゃあ」
真美姉は笑顔で俺に近寄って俺の顔を琴音の方向に向けて固定する。無理やり動かしたもんだからグキッとして痛い!
「試しに言ってみそ?」
「~~……っ!」
おーおー、妹がまたまた照れとる。
「……お、お……おにい」
「おーい、誰だ? 廊下に段ボール置きっぱの奴は」
休憩室につながる廊下から男性の声が聞こえた。
「は、はい! 私ですっ! 今すぐどかしますっ!」
琴音は目にも止まらぬ速度で廊下に向かった。というか逃げ出した。聞くのを楽しみにしていたのか真美姉はえー?なんていいながら悔しそうな顔をしていた。
「何にこだわってんだ真美姉……」
琴音は先ほどの資料たっぷり段ボールをよいしょと持ち上げる。
「それじゃ私は先にデスク戻ってるから。羽雪はこの後、夜明さんに会っ」
「あ――――――――――」
真美姉が急に琴音の言葉をワザとらしく遮り、俺の両耳を手で塞いだ。なんのつもりだろうか。
「羽雪、じゃなくて?」
「~~―――――っ!」
真美姉…まだこだわってたのか…
琴音は顔を真っ赤にしながらもヤケクソになり、声を荒げながら言った。
「お兄ちゃんは夜明さんに会って事件の概要報告! 3階の取調室Eにいるからっ! 必ずノックして入ることっ! いいねっ!?」
もう、俺もため息しかない。
「はいはい」