『風が吹いている』
久方ぶりに故郷に帰ってきた。
小さい頃はこの街で育ったが大人になる頃には東京の方に出て行ってしまった、何もないこの街が嫌だったのだ。
そんな故郷に何故帰って来る羽目になったのかというと、父親が危篤だという連絡を受けたためだ、だが実際にあってみるとこれが今にも天からの迎えが来るような人なのか疑問に思う程元気だった。
「昨日までは本当に死にそうだったのよ」
とは母の弁だが本当は一人息子にひと目会いたいと父がゴネただけではないかと思う。昔からあの人はわがままで横暴な面があった。
ともかく、来てしまったものは仕方ない。今日は1日休み、明日また電車に揺られて都会の荒波にもまれてくるとしよう。
「おい、海みいいくぞ(海を見に行くぞ)」
唐突に父が俺を誘って海を見に行こうと言い出した。最初は行く気がなかったが「なら一人で行く」と言われては付いて行くしか無い。一応昨日は危篤だったのだ、大丈夫だとは思うが不安になる。
潮の香りを含んだ風を全身に浴びながら海へと続く坂道を降りていく。徒歩10分、子供の時には毎日と言っていいほどこの坂を駆け下り友達と海で遊んだ。
この道を父と降りるのは不思議と初めてな気がした、何回も父と一緒に降りたことは有るはずなのに、だ。
海へ着くと父は浜辺に座り込み海に沈みゆく夕日を見つめ始めた。
「どうして急に海に着たいなんて言い出したんだよオヤジ」
そう問いかけながら俺も隣に座り込む。
「………」
父は答えず黙ったまま、夕日を見つめている。
しばらくして夕日が完全に沈むと父はポツリと一言つぶやいた。
「帰るぞ」
あれ程吹いていた風はいつの間にか止まっていた。
この街には海と山に面しているせいか「凪」と呼ばれる風が止まる時間帯があるせいだ。
家に帰ると母が夕食を作って待っていた、腕によりをかけたらしい。
子供の頃に戻ったみたいで少し懐かしさと新鮮さを感じる。
あの頃父はいなかったが、今日はいるからだ。
俺が子供の頃、父は漁師として海へ行き夜遅くまで帰ってこない生活をしていた。
しかし、俺がこの街を出てからしばらくした時父は漁師をやめた。乗っていた船が嵐にあい怪我をしたためだ。
夜、昔の自分の部屋で客用の布団をしき寝る準備をした。
もう昔の面影はなく、自分の部屋という気が少しもしなかった。確かに昔付けた傷や画鋲をさした穴はあるが他は変わってしまっている。
寝ていると風で障子が揺れ音がなった、この音が昔は怖かったものだ。
そういえば、この音は変わっていない。
次の日母に父を起こしてこいと言われ父の部屋へ行った。
「オヤジ、起きてるか?」
返事はなかった、まだ寝ているのだろうかと思いふすまを開ける。
開けるとまだ寝ている父の姿があった。
揺り起こそうと肩に触れた時、手に冷たさが伝わった。
途端に手の冷たさが体中に伝播し背中まで冷たい感触がしてくる。
「オヤジ!」
肩を揺らすが、父は起きない。
それから先はよく覚えていない、医者や葬儀屋が家に来て話をしたが内容は露ほども頭に入ってこなかった。
そして今、母に家を追い出されたため外を歩いていた。昨日も下った坂道だ。
だが、昨日と違うのは昨日は2人だったが今日は1人だ。
海に着くと昨日と同じく砂浜に座った。そして、暫く水平線を眺めていた。
水平線を眺めていると日が沈んできた。太陽が赤く消え始め、風がやんだ。
その時父が本当に眺めていたものが分かった気がした。
昨日父が眺めていたのは夕日ではない。
海でもない。
風だったのだ。
この止まった風を眺めていたのだ。
確かに風は目に見えない。だが凪の今の時間なら風が見えるのだ。
なぜなら、先程まで唸りをあげていた海がまるで赤ん坊が寝ている時のように穏やかになっているのだ。
「じゃあ、俺もう帰るから」
葬儀も終わりしばらくした後、東京へ帰ることになった。さすがにもう仕事は休めない。
母に別れを済ませ、路面電車に乗るための道を歩いている途中。父の残した問題の答えを考えていた。
父はあの日凪の海を見て、何を考えていたのだろうか。
まだ答えは出ていない、だがいつか分かる気はしている。
なぜなら。
今日も風が吹いているからだ。