鍵 ~KAVAL SVILI~
ブルガリアン・ヴォイスのCDの中の民謡、
「KAVAL SVILI」|(笛が鳴っている)から着想を得て書きました。
丘の上からの笛の音色に惹かれ、誰が吹いているのか見に行く、と話す娘。
もしそれが村の人であれば、少し恋をし、
ジプシーであれば一生かけて愛する、という歌詞です。
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娘は鍵を持っていた。
首からぶらさげて、
襟もとから服の中にいつも入れていた。
鍵は父の形見である。
父が死んでから、
家には姉夫婦が住み始めた。
「カリンカ!早く水を汲んでいらっしゃい!」
働き者の姉さんに追い立てられるように、
木桶を持って飛び出した。
泉までぶらぶら歩いていって、
水を汲む。
そして一息ついて、
鍵を取り出す。
これはいったいどこの鍵なんだろう。
父は教えてくれなかった。
でも、どこの鍵か分からないからこそ、
いろいろ想像できた。
知らない街の開かずの屋敷を開ける鍵。
王様の宝箱を開ける鍵。
そうやって想像すると、
自分はいつか、
鍵穴を探しに、
この村から広い世界へ
出ていくような気がした。
ある日のこと、
水汲みの帰りに
笛の音を聞いた。
エリカの咲く丘の上から
聞こえてくる。
カリンカが丘を上ると、
切り株に腰掛けて、
ひとりのジプシーの男の子が
笛を吹いていた。
「何ていう曲なの?」
「作った」
男の子は黒い髪に黒い目。
ぶっきらぼうに尋ねる。
「あんたこの村の子?」
「そうだけど」
男の子はカリンカの金髪をじろじろ見た。
それから、カリンカが水汲みに行くときは、
必ず丘に寄った。
「寄り道しないで帰ってくるのよ!」
と姉さんは掃除をしながら、
ドアのカリンカに呼びかける。
カリンカは
「はーい」と返事はいい。
姉さんの髪は茶色だ。
2人の姉さんと、カリンカは
母さんが違う。
上の姉さんは、今一緒に暮らしている。
間の姉さんは、町へお嫁に行った。
この鍵はきっと、
カリンカの母さんの形見が入った
箱か何かの鍵だろう、と、
上の姉さんは言う。
カリンカは、心の中で、
これはもっとすごいものの鍵なのに、
と思う。
ある日、カリンカは男の子に
鍵を見せた。
「これは父さんの形見の鍵なの。
きっとすごいものを開ける鍵なんだよ」
カリンカは目を輝かせて話した。
男の子は「ふーん」とあいづちをうつ。
ある日、姉さんが物置小屋の掃除をしていて、
小さな宝石箱を見つけた。
「カリンカ、これ、鍵がかかってる。
その鍵、この箱の鍵かもしれないよ」
姉さんが持ってきた箱は、
いかにも小さく、古びている。
「あんたの母さんの形見の
指輪か何かが入っているかもしれないよ」
そう言われたが、
カリンカは開ける気にはならなかった。
一人で開けるからと箱だけ受け取って、
丘へ行った。
丘では、男の子が、
やはり笛を吹いていた。
その音色が美しかったので、
カリンカは泣けてきてしまった。
「どうしたの」
カリンカは箱を差し出す。
「見つかったんだね。
開けてみないの」
カリンカはまた目に涙をあふれさせて、
「私の鍵は、
こんな小さな箱の鍵じゃない。
もっと、素敵なものの鍵のはずだったのに」
と言う。
男の子は黙ってしまう。
「こんなことなら、
私はこの箱をずっと開けない方がいい。
開けないで、この鍵はどこかの国の
秘密の扉を開ける鍵なんだって、
想像してた方がいい」
男の子は黙っている。
「それなら、この鍵は、
どんな鍵にだってなれる。
でも、この箱を開けたら、
夢が終わっちゃう」
カリンカは続ける。
「この鍵があれば、
どこかへ行けるんだって、思えたのに。
どこかで私を待ってる扉があるんだって
思えたのに。
この箱を開けたら、
それでどこにも行けなくなっちゃう」
言いながら、カリンカは
不思議な気分になってきた。
私はこの村を出たいんだ…。
男の子は口を開いた。
「この笛も鍵だよ」
カリンカは男の子を見る。
「この笛がないと、
目に見える風景も、
ただの風景だけど、
この笛を吹くと、
世界が違って見える。
この笛で、
人を楽しませたり、
泣かせたりできる。
きっと、
目に見えない扉を、
開けているんだ。
だからこの笛も鍵だよ。
鍵の形をしていなくたって鍵だし、
扉は見えなくても扉だよ。
カリンカもその箱を開けてみるといいんだ。
たぶん、その箱を開けると、
開くのは、箱だけじゃないよ。
鍵もなくならない。
だから、怖がらないでいいんだ。
何も終わらない」
そう言われて、カリンカはただただ
驚いてしまった。
こんなに男の子が喋ったのも、
初めてだった。
「実は、もうすぐ、
馬車が移動するかもしれない。
この村にずっといるわけにいかないし。
もし来たいなら、一緒に来てもいいよ」
カリンカはまた驚いて、何も言えない。
「鍵がなくても、
扉を探しに行く資格はあるし、
扉に呼ばれていなくても、
そうしたいと思うなら、
この村を出ればいい」
カリンカは打ちのめされたような気分で、
ふらふらと家に帰った。
姉さんからは、遅いと怒られた。
箱を開けるのは、それでも怖かった。
箱を開けないまま、
楽しい夢を見て、
叶えようとせずに生きるのも、
自由だった。
真夜中。
カリンカは眠らずにベッドに座っていたが、
ついに、心を決めた。
鍵を首から外して、
小さな箱の鍵穴に差し込んだ。
左に回すと、
かちりと音がした。
ふたを開けると、
中に入っていたのは、
鈍く光る金色の、
鍵だった。
カリンカは暗闇の中、
新しい鍵をじっと見つめて、
そのまま動けなかった。
あの男の子も、鍵だった。
カリンカの心の中の見えない扉を開けた。
出会ったこと自体が、鍵だった。
全てのものが鍵だった。
全てのものが扉だった。
カリンカは暗闇の中、
不思議な感謝の気持ちで、
じっと鍵を見つめていた。
明日、見えない扉を開けに行く。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。