変な親
幼少期に負った頭の傷は、単なるケガの痕ではない。それは、欲望と不条理に塗れた両親を僕が初めて冷ややかに見つめた、覚醒の記憶だった。愛も温もりも拒まれた家で、水道水と親の暴言に晒されながら生き抜いた「僕」の視線を通して描く、歪んだ家族の不気味で生々しい記憶の記録。
第一章 変な親
一、歪んだ暗闇とタンコブ
あの家に漂っていたのは、どこか腐敗した果実のような、生温かく重苦しい匂いだった。
小学校三年生の夏の夜。湿気が家中の柱や畳にじっとりとへばりつき、肌に触れる空気すべてがぬめりを帯びていた。
押し入れから引っ張り出した布団に、僕と母親、そして幼い妹の三人が並んで倒れ込むように寝ていた。蛍光灯は消され、豆電球の橙色の小さな光だけが、薄暗い部屋の天井にぽつんと浮かんでいる。古い扇風機が「ガタガタ、首……ガタガタ、首……」と規則的な断末魔のような音を立てていた。
階下から、ドス、ドスと重い足音が上がってくる。
酒の匂いを先立たせてやってくるのは、父親だった。
「おい……洋子……。爪切り、どこ置いた……」
濁った声が廊下に満ちる。母親は布団の中でピクリと肩を震わせたが、返事をしなかった。息を殺し、寝たふりを決め込もうとしている。だが、その沈黙が父親の中にくすぶっていた小さな火種に油を注いだ。
バシャアァン!
暗闇を切り裂いたのは、乾いた破裂音だった。父親は手を伸ばして襖を開けるということすら知らなかった。酒で赤くなった足先で、勢いよく襖の真ん中を蹴り破ったのだ。木枠が悲鳴を上げて歪み、敷居から外れた重い木製の襖が、斜めに倒れかかってくる。
「っ……!」
頭頂部に、鈍い衝撃と鋭い痛みが同時に走った。倒れてきた襖の角が、直撃したのだ。
視界の端で橙色の光がぐにゃりと歪む。だが、父親は足元に転がった木くずを踏みにじりながら、「爪切りはどこだと言っているんだ!」と母親に向かって吠えていた。自分が蹴り倒した襖が息子の頭を直撃したことなど、目に入っていない。いや、視界に入っていても、彼の脳には届いていなかったのだろう。
母親はゆっくりと起き上がり、心底底冷えするような声で「引き出しの二段目」と言い放った。父親は舌打ちを残し、爪切りを探しに暗がりへと去っていった。
僕は暗闇の中でそっと自分の頭に手をやった。頭頂部に、ピンポン玉のような熱い塊ができている。触れるとズキンと脳揺さぶるような痛みが走った。
だが、その痛みの奥底で、九歳の僕が感じていたのは恐怖でも怒りでもなかった。
(……爪切りが見つからないくらいで、なんでこんなことをするんだろう)
暗闇の向こうで、爪切りを探してガタガタと引き出しを漁る父親の背中が見えた。
大人はもっと完璧で、恐ろしいほど賢い生き物だと思っていた。だが、目の前にいるこの男は違う。自分の爪を切るという取るに足らない欲求ひとつ満たせず、酒に酔い、物に当たり、子供の頭の上に木枠を叩きつける。
人間というよりは、感情の制御装置が壊れた奇妙な生き物に見えた。
その夜、僕の頭に刻まれたタンコブは、三十代になった今でも消えずに僕の頭皮の下に残っている。指で押すと、今でもあの夏の湿った空気と、親という存在の得体の知れなさが、ありありと蘇ってくる。
二、日常に潜む「呪文」と不可解な格差
僕の家は、外から見れば「歪み」など何一つない、絵に描いたような一軒家に見えていたはずだ。
母親は近所の総合病院で働く看護師。夜勤もこなし、白いテキパキとした制服に身を包んでいた。父親は本田技研工業――誰もが知る大企業に勤め、毎朝きっちりとスーツや作業着を着て出勤していた。
二人の収入を合わせれば、世間一般よりも遥かに裕福な暮らしができるはずだった。
それなのに、僕が「何か」を買い求めたり、望んだりするたびに、家の中に響くのはいつも同じ言葉だった。
「うちにはお金がないから無理」
それは我が家の呪文であり、すべての会話を遮断する絶対の壁だった。
「みんなが通ってる塾に、僕も行きたい。勉強がわからなくなってきたから」
「あんたは何をやっても無駄だから無駄金は使えません。水道水でも飲んでなさい」
何かを頼むたび、僕は一蹴された。最初は本当に我が家が破産寸前の貧困にあえいでいるのだと信じ込んでいた。だが、同じ家の中で暮らしていると、その「貧乏」という言葉の裏にある、あまりにも不可解で不気味な現実が見えてくる。
我が家には三人の兄弟がいた。一番上が兄、次が僕、そして少し離れて妹。
この三人に対する両親の接し方は、まるで何か不気味な実験でもしているかのように極端だった。
長男である兄に対して、母親は異常な執着を見せていた。
兄は別に塾など行きたがっていなかった。だが母親は兄を無理やり高額な進学塾に通わせた。そして、持ち帰る通知表に「オール5」以外の数字が一つでも混ざっていようものなら、我が家は地獄と化した。
「なんでここが4なの!? あんたにいくら注ぎ込んでると思ってるの!」
金切り声を上げた母親は、兄の胸ぐらを掴んで玄関へと引きずっていく。そして、兄の背中に重いランドセルを背負わせると、そのまま真夜中の暗闇へと押し出した。
「5を取ってくるまで家に入るな!」
バタン! と扉が閉まり、鍵がかけられる。
時刻は夜の十時を回っている。街灯もまばらな静かな住宅街に、玄関の扉を叩く兄の泣き叫ぶ声が響き渡る。
「お母さんごめんなさい! 開けて! お母さん!」
部屋の隅で膝を抱えていた僕は、その声を聞きながら震えていた。
なぜ、お金がないと言いながら兄には高額な塾代を払い、挙げ句の果てに夜中に追い出すのか。母親の目の中に宿るあの執念のような光は何なのか。僕には何もわからなかった。
一方で、末っ子の妹は違っていた。
妹は幼いながらに家の空気を察する能力に長けていた。兄が虐げられ、僕が無視される姿を見て育った彼女は、どう振る舞えば親の刃が自分に向かないかを熟知していた。
「お母さん、今日のお手伝い何すればいい?」
甘え、要領よく立ち回り、母親の懐に入る妹。母親も妹には甘く、叱られることなど滅多になかった。妹だけが、この狂った家の中で温かい料理や新しい服を与えられているように見えた。
そして、真ん中の僕――。
僕は兄のように「期待される対象」でもなければ、妹のように「可愛がられる対象」でもなかった。
言葉を選ばずに言えば、完全に「透明人間」として扱われていた。
三、存在の消去と冷たい水
僕は勉強ができなかった。かといってスポーツができるわけでもなく、足も遅かった。
取り柄のない子供。それが僕だった。そして両親は、そんな僕の存在そのものを不快がった。
何かを話そうとしても、母親はまるでそこに誰もいないかのように僕を無視した。僕が「ねえ、お母さん」と話しかけても、テレビの画面を見つめたままお茶をすする。
さらに不可解だったのは、近所の人や親戚が訪ねてきた時の母親の顔だった。
「いやあ、洋子さんのところは上のお兄ちゃんが優秀で羨ましいわあ」
近所の奥さんがお世辞を言うと、母親は嬉しそうに目を細めた。そして、廊下の端で立ち尽くしていた僕をチラリと見やり、わざと聞こえるような大きな声でこう言うのだ。
「でもねえ、下のが全然ダメで。見ての通り、頭も悪いし運動もできないでしょう? ほんと、世間的に私、こんな子産んじゃって後悔してるのよ」
母親の顔には、謙遜ではなく、本物の「嫌悪」が浮かんでいた。
実の親が、自分の生んだ子供に向ける視線ではない。まるで足元に落ちている正体不明のゴミを見るような目だった。
言葉のナイフが胸に刺さる感覚すら、次第に麻痺していった。
自分が生まれてきたこと自体が、この家にとっての「不具合」なのだと、僕は毎日教え込まれ続けた。
我が家の台所には、大きなファミリー用冷蔵庫があった。
学校から帰り、喉が渇いてその大きな扉を開ける。だが、そこに並んでいる光景は、いつだって異常だった。
冷蔵庫のドアポケットから奥の棚に至るまで、びっしりと詰まっているのは――ビール、缶チューハイ、日本酒、ウイスキーのボトル。父親と母親の「酒」だけで埋め尽くされていた。
子供たちの飲み物は、どこにもなかった。
「お腹すいた、喉乾いた」と訴えても、母親は冷たく言い放つ。
「蛇口ひねれば水が出るでしょ。水道水でも飲んでなさい」
真夏の酷暑の日、外で泥だらけになって帰ってきても、僕たちが口にできるのは、ぬるくカルキ臭い水道水だけだった。
そんなある日、冷蔵庫の奥に、手のひらサイズの小さなプラスチック容器が入っているのを見つけた。
コーヒーに入れるポーションタイプのミルクだった。
喉が乾ききっていた僕は、誰も見ていないことを確認し、そっとその小さなミルクのフィルムを剥がした。ペロリと舌に乗せる。わずかな濃厚さと甘みが口の中に広がった。
だが次の瞬間、後ろから頭髪を強く引っ張り上げられた。
「痛っ!」
振り返ると、仁王立ちした母親が鬼のような形相で僕を見下ろしていた。
「あんた、何勝手に人のもの飲んでるのよ!」
「これ……コーヒーのミルク……」
「誰の金で買ったと思ってるの! あんたみたいな役立たずが贅沢なもの口にするんじゃないわよ!」
バシッ! と頬を張られた。
たった数ミリリットルの、安物のコーヒーミルクを舐めただけで、僕は泥棒のように罵られ、叩かれた。
冷蔵庫を埋め尽くす酒を毎日飲み散らかしている人間が、子供が舐めた数十円のミルクのために狂ったように怒り狂う。
その不条理さに、僕は吐き気すら覚えた。
四、夜のネオンと消えた金
「お金がない」というのは、嘘だった。
では、彼らの稼いだ金はどこへ消えていたのか。
夕方、仕事から帰ってきた二人は、台所で冷えた総菜を僕たちの前に並べると、さっさと着替えを済ませる。
「じゃあ、行ってくるから」
時刻は夜の七時。二人は車に乗り込み、出かけていく。
行き先は、国道沿いにあるド派手なネオンを輝かせたパチンコ店だった。
二人は毎日のように、夜の十一時近くまでパチンコ屋に入り浸っていた。
共働きで稼いだ金、子供たちの習い事や塾の費用を「ない」と言って切り捨てた金は、すべてパチンコ台の吸い込み口と、夜の酒代へと消えていたのだ。
夜の十時半、十一時。
静まり返った家に、ガレージへ車が入ってくる音が響く。
ジャラジャラとパチンコ玉の匂いと、タバコの煙の匂いを全身にまとわせた両親が帰ってくる。
勝った日は不気味なほど機嫌が良く、コンビニで買ってきた高いアイスクリームを自分たちだけで食べ、負けた日は玄関のドアを蹴っ飛ばし、家の中で些細なことに怒鳴り散らす。
なぜ、この二人は親になったのだろう?
暗い子供部屋で、兄と妹と身を寄せ合いながら、僕は考えていた。
子供を愛するわけでもなく、家庭を築きたいわけでもない。ただ自分たちの欲望のままに酒を飲み、パチンコを打ち、思い通りにならないイライラを子供にぶつける。
彼らにとって、家庭とは何だったのか。
僕たち兄弟は、彼らの不器用で醜い人生の「犠牲者」なのか、それとも「ただの暇つぶしの道具」だったのか。
その答えは、どれだけ考えても闇の中に消えていった。
五、残された傷痕
小学校を卒業する頃、僕はすっかり大人になっていた。精神だけが、歪んだ形で老け込んでいた。
両親から何を言われても、傷つくことはなくなった。「あんたは無駄」「産まなきゃよかった」という言葉は、僕の心を通り抜け、ただの風切り音のように響くだけだった。
兄は成長するにつれ、母親の狂信的な期待に押しつぶされ、瞳から完全に光が消えた。ロボットのように言葉を失い、ただそこに存在するだけの影のようになっていった。
妹は相変わらず器用に立ち回り、親の顔色をコントロールしながら自分の世界を守っていた。
そして僕は、相変わらず「出来損ない」のままだったが、頭の中にひとつだけ恐ろしい道具を手に入れていた。
それは、「冷徹な観察眼」だった。
酒に酔って暴れる父親も、金切り声を上げる母親も、僕は少し高い場所から見下ろすように冷ややかに見つめることができるようになった。
(ああ、この人たちは可哀想な人たちなんだな)
(自分の人生の虚しさを、子供を叩くことでしか埋められないんだな)
そう理解した瞬間、恐怖は消え去り、あとに残ったのは圧倒的な「冷め」だった。
大人になった今でも、僕の頭頂部にはあの夏の夜のタンコブが残っている。
指で押すと、少し硬くなった皮膚の突起が確かな実体を持ってそこにある。
あの変な親たちは、僕に愛も、温かい思い出も、教育も与えてくれなかった。
だけど、ひとつだけ消えないものを残していった。
この頭の傷痕と、「親だからといって、人間として正しいわけではない」という、冷酷なまでに鋭い世界の真実を。
髪の毛をかき分け、指先でタンコブを強く押し込む。
ズキリとした小さな痛みが走る。その痛みを感じるたび、僕は自分がまだ生きていて、あの狂った家から無事に抜け出せたのだということを、静かに確認するのだ。
物語の中で描いた頭のタンコブは、今も変わらずそこにあります。
子供の頃、親という存在は絶対的な世界のすべてであり、神様のようなものでした。だからこそ、「なぜ自分は愛されないのか」「なぜこんな理不尽な目に遭うのか」と悩み、自分自身を責めてしまうこともありました。
しかし、成長するにつれて気づいたのは、親もまた未完成で、時に愚かで理不尽な一人の「人間」に過ぎないという事実です。
この「第一章 変な親」は、過去の傷を悲劇として嘆くためのものではなく、理不尽な環境の中でも自分自身の目と心を持ち、冷酷な現実を客観的に見つめることで生き延びてきた一人の少年の「静かな生存の記録」です。
過去の傷痕は消えませんが、それは乗り越えてきた証でもあります。同じように理不尽な環境や不条理な言葉に苦しんできた方々にとって、この物語が「自分は悪くなかったのだ」と心を解放するほんの小さなきっかけになれば幸いです。




