【不安】
「お疲れ様でした」
「お疲れ様~」
仕事を終え、工場から出てくる三ツ森。雨が降っていた。今日は一日中雨だ。傘を差しながら、駅の方角へと歩いていく三ツ森。疲れた。とっとと家に帰りたい。でも家になんか帰りたくない。そんな気持ちが揺れ動く。いつもの事だ。休みたいは休みたいが、一人でアパートの部屋に居ても、三ツ森はとにかく落ち着かなかった。気持ちなんて全然休まらない。部屋に帰っても、すぐにどこかへ出かけたくなるのがオチだ。でもどこへ行けばいいのかは分からなかった。とにかく孤独だった。それに耐えられなかった。一人でいると、誰かに会いたくなる。でも誰に会いたいのかは分からなかった。だから三ツ森は歓楽街へ出る。部屋に居ても落ち着きなく煙草を吸い続けるだけだった。でもそんなに頻繁に風俗やキャバクラに通うお金はない。行き場に困っていた。仕事終わりにジムに通う事もある。でも毎日通うほどの活力もない。何もする気になれなかった。でも何かをしていないと、気が狂いそうだった。そんな自分を、三ツ森は持て余していた。
駅前の喫煙所に三ツ森は立ち寄った。いつものルーティンだ。喫煙所はパーテーションで囲われている。屋根はなかった。雨の日の喫煙所は狭苦しい。傘と傘とが邪魔だった。それでも何とか場所を確保し、三ツ森は煙草を吸い始めた。なぜ、自分はこんな状態なのだろう。いつから自分はこんな事になってしまったのだろう。そんな事を考えながら。喫煙所を清掃員が掃除していた。「すみませ~ん。すみませ~ん」そう言って煙たがられながらも、喫煙所内に散乱しているゴミや吸い殻を、ほうきとちりとりで奇麗にしていく。傘も差さずに。当たり前だ。傘なんか差してたら仕事ができない。清掃員は雨に濡れていた。清掃員の仕事も気楽なんだか大変なんだか、三ツ森はそんな事を思った。何かを考えなければならない。でも何を考えればいいのかが分からなかった。生活の事、仕事の事、将来の事、何かが違う気がした。どれにも興味はなかった。自分が何に興味を示すのか、それが一番分からなかった。全部で三つ置いてある灰皿の中の吸い殻を、一つの容器に掻き集め、それを持って清掃員がパーテーションの外へと出ていく。「すみませ~ん、通りま~す」そんな声を掛けながら。「お煙草は中でお願いしま~す」そんな声が聞こえてくる。どうやら狭苦しい喫煙所には入ってこず、外で煙草を吸っている奴がいるらしい。「中でお願いしま~す」清掃員の声が聞こえてくる。「中でったって、中に入れねぇじゃねぇかよ!」別の男の怒声が聞こえる。「みんな中で吸ってますよ」「中で吸ってますったって、こんな状態で中に入ったらどういう事になるか分かるだろぉがよ!」「喫煙は中でお願いします」「うるせぇんだよ馬鹿野郎!ゴチャゴチャ言ってんじゃねぇよ!クソじじぃが!」男の声がヒートアップする。そんな怒声を聞きながら、喫煙所にいる誰もが無関心を装い煙草を吸い続けている。まるで何事も起きていないかのように。実際三ツ森も興味はなかった。全ては他人事だった。まるで視界に膜がかかったかのように、全てが自分とは別世界の出来事に感じられる。生活に現実味など欠片もなかった。清掃員は悪くない。当然の注意をしたまでの話だ。どうしようもなく自己中心的で、イカれた人間なんてどこにでもいる。喫煙所の外で煙草を吸ってる人間なんて、大概自己中だ。そんな人間にいちいち注意する事も仕事の内なのだろう。喫煙所の清掃員も大変だな、三ツ森はそんな事を思った。清掃員が喫煙所の中に戻ってくる。「灰皿を拭きま~す」そう言って灰皿の一つを雑巾で拭き始めた。三ツ森は吸っていた煙草を、清掃員が拭いているのとは別の灰皿へ投げ捨てると喫煙所の外に出た。傘を畳まなければ外に出れなかった。さっきの男はどこへ行ったのだろう、外で煙草を吸っている人間はいなかった。不安だった。何が不安なのかは分からなかった。得体の知れない不安を、三ツ森は常に抱えていた。何が不安なのかが分からない。だから解消のしようもない。そう言えば、三ツ森の人生最初の記憶も不安だった。三ツ森はなぜかそんな事を思い出した。幼い頃の記憶。部屋で昼寝をしている三ツ森の横で三ツ森の母親が寝そべっている。寝そべりながら母親が三ツ森を抱きしめた。母親が不安がっているのが分かった。抱きしめられて、それが伝わった。何を不安がっていたのかは分からない。それでも、母親は何かを不安がっていた。抱きしめられると伝わるものだ。母親の不安が三ツ森に伝染した。伝染した不安が三ツ森の睡眠を妨げた。不安で眠気が一気に冷めた。そんな記憶だ。過去を洗うところから始めてみようか。三ツ森はそんな事を思った。なぜ、自分はこんな状態に陥ってしまったのか。答えは過去にあるような気がした。苦しくて仕方がない。この苦しみから逃れたかった。別に死んでも構わなかった。それでも、自ら死を選ぼうとは思わなかった。死なない限り人生は続く。だったら何か手を打たない事には、いつまでもこんな状態ではいられない。もはや自分が分からない。何が何だかワケが分からなかった。それが一番の問題のように思えた。明らかに破綻している。暮らしも、心も、人格も。なぜ、こんな事になってしまったのだろう。それを分析するところから始めてみようか。三ツ森はそんな事を考えていた。




