【あなたって子は】
分譲マンションの一室。キッチンで山田の母親が洗い物をしている。食卓では山田が食事を取っている。もう夜の九時を過ぎていた。山田憲太郎は両親と三人暮らしだ。
「母ちゃん」山田が母親に話し掛ける。
「ん?」
「何で夕飯、おでんなの?」食卓に載っているおでんに箸を付けながら山田が疑問を投げかける。
母親が山田の方を振り替える。「何で?」
「今、夏だよ」
母親が不思議そうな顔をする。
「夏におでん食べたらいけないの?」
「別にいいけど、うまいから。夏におでんの具なんて売ってんの?」
「売ってるわよ。別に季節関係ないでしょ?」
「マジで?おでんて寒い時に食べるものかと思ってた」と山田が驚いたような声を上げる。
「思い込みよ」そう言いながらシンクの中の皿を拾い上げ、洗い物を再開する母親。
「いや絶対冬だって、おでんは。うまいから別にいいけど」そういいながらはんぺんを口へ運ぶ山田。山田の母親が洗い物をしながら山田の名を呼ぶ。
「憲ちゃん」
「ん?」白米を口へ掻っ込みながら返事をする山田。
「……」しかし、母親の次の言葉が出てこない。「何?」山田が母親の方へ顔を向け、言葉を催促するかのようにもう一度返事をする。しかし、母親は口を開かない。手を洗い、蛇口をひねって水道の水を止め、手拭いで手を拭きながら改まったような顔をして山田の向かいの席へ座る山田の母親。山田が不思議そうな顔で母親の顔を眺める。「どうしたの?」
母親が深刻そうな様子で口を開く。
「勝ちゃんがね…」
「勝?ああ、勝か。うん。勝が?」
「学校に行きたがらないんだって…」
それを聞き、一瞬言葉に詰まる山田。「……、へー…、何で?」
「どうやらいじめられてるらしいのよ」
勝は小学五年生になる山田の従弟だ。山田の母親の五つ歳の離れた妹の長男である。
「マジで?…勝がそう言ったの?」と山田がちくわを箸でつまみながら訊ねる。
「ううん。勝ちゃんは何も言ってくれないんだって。…でも、良子が言うにはね、たまに顔や体に殴られたような傷があるんだって」
良子というのは山田の母親の妹の事だ。勝の母親である。
「マジかよ…、やべぇじゃん」食事の手を止める山田。「それで?勝は学校行ってないわけ?」
「行ったり、行かなかったり、休みがちなんだって」
「マジか…」山田が深刻そうな顔をする。
「それでね、良子が学校に相談したらしいのよ」
「へー…、一応手は打ったんだ」山田が意外そうな反応を示す。
「でもね、学校側はいじめの事実はないって、ろくに調べもしないでそう言ってきたんだって…」
「ふ~ん…」
「良子も精神的に参ってきちゃったみたいで…」
「そっか」
「お母さん相談されたんだけど、相談されてもねぇ…、どうしていいか分からなくて…」
「……、まあ…、そうだろうな…」
「どうしたらいいと思う?」そう言って山田の顔に目を向ける山田の母親。山田は少し考えるフリをした後、そんなのは簡単だと言わんばかりの口調で口を開く。
「勝にボクシングでもやらせたらいいんじゃないの?」
「ボクシング?」
「そう、そんな連中全員ぶっ飛ばしてやりゃぁいいんだよ。いじめっ子なんて弱い奴にしか何も出来ないんだから、ボクシング習ってぶっ飛ばしてやりゃ何もしてこなくなるよ」
「そんな事したら退学になっちゃうじゃない」
「義務教育に退学なんてあるのかよ」そう言いながら再びおでんに箸をつける山田。
「でもねぇ…。勝ちゃんにボクシングなんてできるのかしら」
「誰でもできるよ。プロになれって言ってるわけじゃないんだから。ボクシングやってりゃいじめっ子なんて怖くも何ともなくなる。ボクシングやらせるのが一番だよ」
「……、ボクシングねぇ…」山田の母親が考え込むようにして黙り込む。
「ボクシングを習う、全員ぶっ飛ばす。いじめがなくなる、一件落着。簡単だろ?」事もなげにそう言い放つ山田。
「そんなに簡単に行くかしら」
「簡単だよ。ボクシングなんか習わなくても一度いじめっ子をぶん殴ってみりゃいいんだ。それだけで解決するかも知れない」
「ぶっ飛ばすとかぶん殴るとか…、あなたって子は…」
山田はおでんを掻っ込んでいる。再び改まったような口調で母親が口を開く。
「憲ちゃん」
「何?」
「毎日アルバイトして、毎晩ボクシングジムに通うのはいいけど、就職はどうしたの?就職活動はやってるの?」
「ああ…、もうやってない」
「やってない?」
「うん、就職はもう諦めたよ。俺には向いてない。俺、ボクシングで喰っていく事にした」
「ボクシングで喰っていく?」
「うん、ボクシングに賭ける事にしたよ」
「ボクシングに賭けるって…、ボクシングってそんなに甘い世界なの?」
「甘くないけど、就職するより向いてるよ」
「……」黙り込む母親。最後の一口を口へ掻っ込み、ご飯を食べ終える山田。お皿はすっかり空だ。
「ごちそうさま」そう言って立ち上がろうとする山田に母親が再び声を掛ける。
「憲ちゃん」
「何?」中腰で動きを止め、返事をする山田。
「お父さん、何も言わないけど、憲ちゃんが就職する事を望んでると思うのよ」
「親父が何を望もうが無理なものは無理だよ」再び椅子に腰を下ろす山田。
「無理って、どうしてすぐに諦めるの?司法試験の時だってそうだったじゃない。あの時だって弁護士で喰っていくって言ってたじゃない。でもすぐに勉強が嫌になって諦めて…」
「人にはね、向き不向きってもんがあるんだよ。勉強も就職も俺には向いてないと思うんだよね」
「ボクシングは向いてるの?」
「精神的にね。世の中には能力的な向き不向きと精神的な向き不向きがあって、例え能力的に向いてたとしても、精神的に向かなかったら続かないと思うんだよね。逆に例え能力的に向かなかったとしても、精神的に向いてれば長く続けられると思うんだ。長く続けられれば何事もそれなりに上達するでしょ」
「就職した事もないのにどうして就職が自分には向いてないって事が分かるのよ」
「だって、親父毎日帰ってくるの夜中じゃん。そんな生活俺には耐えられないよ。就職なんかしたら俺、病んじゃうよ」
「お父さんは雇われ社長だから忙しいのよ」
「関係ないよ。俺みたいな二流大学出の人間を採用するような企業なんて、みんなブラックだよ。いいように使われて終わりだね」
「そうかしら」
「そうだよ。そもそも就職以前に俺は面接に向いてない。やりたい事もないのに志望動機なんか聞かれたって何も答えられないよ。動機なんて金とか世間体とか、ろくな理由じゃないし、嘘を考えるのは苦痛だしね」
小さなため息をつく山田の母親。
「ボクシングで食べていけるの?」
「さぁ、でも向いてる事をやった方が人生楽しいじゃん」
「ボクシングは能力的にはどうなのよ。自分には向いてると思うわけ?」
「俺、一応四戦四勝四KOのプロボクサーなんだぜ」
「四戦四勝?あなた…、いつプロになったのよ」
「とっくになってるよ。言ったじゃん、プロテスト受けてくるって。しょっちゅう試合にだって出かけてるし」
「試合してるのは知ってたけど…、あなたプロだったの?」
「そうだよ。今度東日本新人王トーナメントの準決勝がある。就職活動なんかしてる暇ないね」
「準決勝?」驚きとも戸惑いとも取れる表情を浮かべる山田の母親。「……。あなたって子は…」
「ごちそうさま。おでんうまかったよ」そう言って立ち上がり、食卓を後にする山田。その様子を目で追いながらまた小さなため息をつく山田の母親。




