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【こいつ】

 三ツ森はこの日も新宿歌舞伎町を訪れていた。山田は今日、日本タイトルマッチに挑む。今頃は、もうリングに上がっている時刻だ。山田の人生が大きく開かれるかも知れない日だった。山田はろくでもない人生からとっくに抜け出している。自分も抜け出さなければ。三ツ森はそう思っていた。でも、何をどうすればいいのかが分からなかった。山田にはボクシングがある。山田が今日、勝つとは限らない。相手の村上健吾は相当強いチャンピオンだと聞いている。負ける事だって考えられた。でも、それでも山田は大丈夫だろうと三ツ森は思った。相手もプロだ。負ける事だってある。でも、例え負けたとしても、何度でも立ち上がる山田の姿が想像できた。山田は戦っている。それこそ人生を賭けて、文字通りリングの上で戦っているのだ。自分も戦いたいとは思う。でも、何を相手に、どう戦えばいいのかが分からなかった。三ツ森は毎日のように就職雑誌を眺めていた。やりたいと思える仕事は見つからなかった。何の仕事に対しても、興味は引かれなかった。何も見つからない。焦りと絶望ばかりが心を満たした。孤独が一番苦しかった。一人でジッとしている事ができなかった。そして賑やかな歓楽街に引き寄せられるようにして、またこうして歌舞伎町を訪れている。まったく進歩の見られない自分にため息が漏れた。どうしようもないっていうのはこういう事を言うのだろうな、そんな事を思いながら歩く三ツ森は、周囲に薄気味の悪さを感じていた。誰かに見られているような気がする。視線を感じていた。周りの視線が気になった。最近、頻繁に人の目が気になるようになってきた。でも、誰が自分を見るというのか。心当たりは何もなかった。有名人でもない自分に視線を送る人間などいるはずもない。おかしな感覚だった。おかしくなっていく自分を、三ツ森はどうする事もできずにいた。日々、自分が追い込まれていくような感覚がある。自分の内面を覗く時、人って、追い込まれるとこんな事になるんだ…、そう思い、その状況に絶望するくらい、三ツ森の内面はズタボロだった。

 三ツ森は自分という人間がよく分かった気がした。手の施しようがないくらいどうしようもない人間だという事が。まずできる事が何もなかった。何もできる気がしない。これまでの人生において、何もしてこなかったからだ。ゆえに自信もない。人間関係も苦手だ。話題も見つからない。コミュニケーション能力など皆無だった。つまらない人間だ。自分でそう思う。そして自分がそんな人間になってしまった事を、親のせいにしているのだから救いようがない。ホントにどうしようもない人間の典型だと思った。今は職場に恵まれていた。仕事はそんなに難しいものではない上に、口うるさい上司もいなかった。無口な人が多く、そんなにコミュニケーションを取る必要もない。派遣という事で、大して期待もされなければ、大きな責任を負わされる事もなかった。今の職場を離れて、果たして自分はやっていけるのだろうか。そんな自信すら三ツ森にはなかった。自分には経験が足りないのだと三ツ森は思った。何かに全力で打ち込んだ経験、何かを成し遂げた経験、それを肯定された経験、受け入れられた経験。それらの経験が自信に繋がるのではと三ツ森は考えていた。自分にはそれらの経験が圧倒的に不足している。そして最大の問題は、自分が何に対しても興味が持てない事だ。興味は行動の源だ。まずは行動を起こさなければ何も始まらない。行動を起こさなければ何もできないままだ。自分に自信が芽生える事もなければ、出会いも生まれない。出会いがなければ、俺は一生孤独なまま人生を過ごす事になる。こんな自分がまともになる為には、今からでもたくさんの経験を積むしかないと三ツ森は考えていた。経験は武器だ。人生、何事も経験だ。その経験が自分には足りないのだと思った。特に、自分にとってプラスとなる経験が。マイナスの経験はたくさん積んできた。色んな事を諦めたり、興味ややる気を失ったり。いらない経験ばかりだ。まずは行動を起こす事。小さくてもいい、たくさんの成功体験を積み重ねる事。その過程で人と接し、コミュニケーションに慣れる事。そして、仲間でもパートナーでも見つけて孤独な人生から抜け出す事。再出発できたら、三ツ森はそんな人生を歩みたいと思っていた。今からでもいい、できる事を増やしていくしかない。成長していくしかない。でも、そのきっかけとなる行動が起こせなかった。何に対しても興味が沸かない為、何を始めればいいのかが分からないのだ。幼い頃は違った。何にでも興味を示した。やってみたい事などいくらでもあったはずだ。人生の過程で、その全てを失くしてきた。三ツ森はどうしたら自分のような人間が育たないかが分かった気がした。大切なのは好奇心。何にでも興味を示す、その心だ。その心を失った時、人生は色あせる。興味のあるうちが華だった。興味の赴くままに人生を過ごしたかった。興味の赴くままに行動を起こし、様々な経験を積んでみたかった。そんな人生が歩めれば、少なくとも俺のような人間には育たないはずだ。三ツ森は自分がこんな人間になってしまったのは、両親のせいだと思っていた。自分の人生を親のせいにしている自分が情けなかった。でも、人生のどの時点に戻ったとしても、結局はこうなる気がして、自分ではどうしようもない事だと三ツ森は思っていた。父親には反抗すればいい。父親の言う事など一切聞かずに好きに生きればいいだけだ。でも、母親の呪縛からは逃れられる気がしなかった。心に重く圧し掛かるあの感覚、それを無視する事はできそうになかった。何もできないマザコン野郎、三ツ森は心の中で自分を卑下した。

 やはり視線を感じる。三ツ森は立ち止まって辺りを見回した。店の呼び込みらしき男と目が合った。呼び込みの男は電話で何やら話をしている。三ツ森と目が合っても男は視線を逸らさなかった。そして電話を切るとこちらに歩いてくる。男は三ツ森に声を掛けた。

「お兄さん、どんな店お探しです?」

「いや、結構です」三ツ森は短く断りを入れて歩き出す。

「キャバクラでしたらいい店紹介できますよ」男は後を付いてくる。「若くて可愛い子ばかりのお店。今でしたら飲み放題三千円で行けますよ」

 三ツ森は無視して歩みの速度を速めた。すると呼び込みの男が三ツ森の腕を掴み、「お兄さん、そっちじゃない。こっちです」と言って引っ張った。三ツ森はその手を振り払おうとするが、男はその手を離さない。三ツ森が怪訝な顔をして男の顔を見ると、「いいから来いよ」男が低い声を響かせた。

「あ?」三ツ森がイラ立ちの声を上げる。男が口元にだけ笑みを浮かべた。「いいねぇ、お兄さん。その態度」そして三ツ森の腕を放すと、「あんまり歌舞伎町でデケェツラするなよ」そう言って三ツ森の後方に目を向ける。

「こいつでしょ?和田さん」男が三ツ森の後方に話し掛ける。三ツ森が振り向くと、そこにはピンクの革ジャンを着た男が立っていた。

「ああ、実は俺、顔をよく覚えてねぇんだ。何しろいきなり殴られたもんでよ」和田と呼ばれたピンクの革ジャンの男がそう言いながら三ツ森の顔を眺め回す。三ツ森はすぐに思い出した。こいつはあの時、山田に膝蹴りを喰らわしていた男だ。

「こいつだ。こいつで間違いねぇ」あごに髭を蓄えた男がピンクの革ジャンの男の横から口を出す。こいつはあの時、俺が最後に殴り損ねた男だ。三ツ森は男たちが山田に暴行を働いた一連の出来事を思い出した。呼び込みの男が電話で呼び寄せたのか、他にもホスト風の男が三人並んでいた。どれも知らない顔だ。あの時、野次馬の中にホスト風の男たちもいた気がするが、顔までは覚えていなかった。俺の感じた視線の正体は、こいつらだったのか。

「その節は世話になったな、お兄さん。お前、歌舞伎町であんな騒ぎ起こしておいて、またのこのことやって来るなんていい度胸してるな」

 三ツ森は六人の男たちに囲まれていた。

「ちょっと、付いてきてもらおうか」ピンクの革ジャンの男が声にドスを利かせる。有無を言わせぬ口調だった。

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