【緊張】
後楽園ホール。リングアナウンサーの声が響き渡る。
「只今より、本日のメインイベント、日本フェザー級タイトルマッチ、十回戦の試合を行います。まず、青コーナーより、挑戦者、山田憲太郎選手の入場です」
重低音が鳴り響く。山田の入場曲だ。山田が会場に姿を現した。白いガウンを纏っている。緊張気味に顔をこわばらせ、それでも気合十分といった表情で鋭い視線を漂わせている。
会場は満員だった。世界を期待される日本の若きチャンピオンと、KO率一〇〇パーセントを誇る、今最も勢いのあるチャレンジャーとの一戦。観客の期待は絶大だった。その会場の一角に、山田の後援会の面々が顔を揃えている。後援会会長の小泉と会員の秦が山田を見守っていた。
「山田、緊張してるな。今日の相手は今までの相手とは一枚も二枚も上手なんだろ?大丈夫かな」小泉が緊張した面持ちで口を開く。
「相手はチャンピオンですからね。でも、山田ならやってくれますよ」秦が答える。同時に叫び声を上げた。「山田ー!ぶちかませ!お前ならやれるぞー!」
すると会場のあちこちから声が上がる。
「山田ー!頑張れー!」
「お前なら村上に勝てるぞー!」
「山田ー!今日もKO期待してるぞー!」
「今日も激闘を頼んだぞー!」
山田の従弟、勝は観客席から山田を見つめていた。こぶしを強く握り締め、目をキラキラと輝かせながら。無言だが、その目から期待の大きさが窺える。山田が負けるなんて、つゆとも思っていないかの表情だ。勝の母、良子はそんな勝の姿を隣で見つめていた。いじめを受けてからというもの、勝は毎日が暗かった。勝がこんなにも目を輝かせるのは、山田の試合を観ている時だけだ。山田だけが、勝の心の拠り所だった。良子は山田に感謝していた。そして期待もしている。良子は勝が山田に宛てた手紙の事も知っていた。山田なら、勝を何とかしてくれるかも知れない。山田だけが頼りだった。縋るような思いもあった。良子はリングに向かう山田に目を向けると、「憲ちゃん、頑張って」と、小さくエールを送った。
山田がリングに登場する。拍手と歓声に包まれていた。リングに上がると、山田は右手を掲げながら四方に頭を下げた。みんなの声援が聞こえていた。自分にはこんなにも応援してくれる人たちがいる。心強かった。期待の大きさも感じていた。それに全力で応えたい。気持ちの昂ぶりを抑えきれずにいた。
「続きまして、赤コーナーより、チャンピオン、村上健吾選手の入場です」リングアナウンサーが声を響かせる。そして村上の入場曲が鳴り響いた。ポップな音楽に合わせ、黒いガウンを身に纏った村上健吾が姿を現す。落ち着いた表情の中にも気合が漲っている。村上の後ろでは、付き人が頭の上にチャンピオンベルトを掲げ持っている。
「村上ぃいいい!」
「村上ー!今日も頼んだぞー!」
「山田に格の違いを見せつけてやれ!」
「キャァアア、村上さんっ!」
「こんなところで負けるなよー!」
「ノックアウト期待してるぞー!」
観客から声援が飛ぶ。黄色い声も交じっていた。会場は村上の人気を裏付けるような盛り上がりを見せる。山田はそれをリング上から見つめていた。村上の後ろで掲げられているチャンピオンベルトに目を向ける。あれを今日、手に入れる。でも、山田はベルトに対して、そこまでの執着はなかった。ベルトは村上に勝てば手に入る、副賞のようなものだった。そんな事より、村上に勝ちたい。村上に勝てば、先が開ける。ここはまだまだ通過点のはずだ。みんなの期待に応えたい。村上に勝って、最高の気分を味わいたい。そんな事を思っていた。そして村上の顔に視線を移す。落ち着き払ったような表情をしている。自信に満ち溢れている表情だ。それは、自分の勝利を信じて疑わない人間の表情だった。緊張が高まってきた。山田は青コーナーに向かい、コーナーにもたれかかるようにして両腕の前腕を押し付けると、グローブに顔をうずめて目を閉じた。地に足がついてるのか、不安が頭をもたげる。落ち着け、集中しろ。自分にそう言い聞かせる。
そんな山田に、会長の飯島が声を掛ける。
「大丈夫だ。お前ならやれる」
トレーナーの恋塚が山田の肩に手を置いた。
「いつも通りのボクシングをすればいいだけだ。大丈夫。自信を持っていけ」
「はい」山田はゆっくりと顔を上げ、そしてリング上を振り返る。
村上がリングに登場した。割れんばかりの拍手と歓声に包まれている。村上は両手を掲げてそれに応えた。村上への声援が飛ぶ。山田への声援も聞こえていた。いよいよ、村上健吾との一戦が始まる。体に力が入るのが分かる。山田は肩を揺すりながら体の力を抜こうとした。しかし、体の強張りはなかなか解けなかった。足が震えそうになる。軽くステップを踏みながら足をほぐす。初めてのタイトルマッチ。会場は異様な熱気に包まれている。会場の雰囲気に呑み込まれそうになる。なかなかいつも通りというワケにはいかなかった。どこか集中力を欠いている、そんな気がした。集中。集中。胸の中でそう呟きながら軽くパンチを繰り出す山田。深呼吸をする。どこか浮足立っていた。気持ちが落ち着かない。焦りにも似た感情が沸き起こる。運命を賭けた一戦が、遂に始まる。山田は、緊張の高まりを隠せずにいた。




