【最悪だよ】
ボクシングジム。この日も山田はジムを訪れるなりトレーナーの恋塚に声を掛けられた。事務室に来いという。恋塚と共に事務室へ行くと、会長の飯島が待っていた。山田は恋塚に椅子を差し出され、狭い事務室で三人で向かい合うようにして腰を下ろした。
山田が椅子に腰かけると、飯島が改まったような口調で口を開く。
「山田、聞いて驚け」
そして勿体ぶったように間を空けた後、「お前にタイトルマッチの話が来てる」と山田に告げた。
「タイトルマッチですか?」会長の言葉の意味が分からず、山田がぼんやりとした声を上げる。
「ああ、タイトルマッチだ」と飯島。突然の話に、山田の頭は追いつかない。
「タイトルマッチって何ですか?」と素っ頓狂な質問を口にする山田。
「タイトルマッチはタイトルマッチだろ。日本フェザー級のタイトルマッチだ」冷静な口調で飯島がそう返す。
「え、どういう事ですか?」状況の呑み込めない山田が再度質問を口にすると、「村上健吾が五度目のタイトル防衛戦の相手にお前を指名してきたんだよ」恋塚が横から口を挟んだ。村上健吾は山田と同じ階級、日本フェザー級のチャンピオンだ。
「え…」突然の成り行きに山田は言葉を失った。
「今日佐々木ジムの佐々木会長から電話があった。村上健吾が日本タイトル最後の試合でお前とやりたがっていると」飯島が説明する。佐々木ジムとは村上健吾が所属しているジムの事だ。村上は日本タイトルを五度防衛したらタイトルを返上するつもりでいる。既に四度の防衛に成功していた。
「どうする?山田」飯島が山田に訊ねる。
「……」山田は言葉が出てこない。寝耳に水だった。何が起こっているのか、いまいち状況が掴めなかった。山田が黙っていると、「俺はチャンスだと思う」と恋塚が口を開く。
「お前は今乗りに乗っている。今の勢いのまま日本タイトルを取れば一気に名が上がる。村上はいずれ世界も狙えると言われている選手だ。その村上に勝てば注目度だって爆上がりだ。山田の名を多くの人に知れ渡らせるチャンスだ。こんなチャンスは滅多にあるもんじゃないと俺は思うね」恋塚が捲し立てる。それを聞いた山田がゆっくりと口を開く。
「何で…、俺なんでしょう」
「は?」
「何で村上健吾は、俺とやりたがってるんでしょう」山田が疑問を口にする。すると、「理由は色々あるんじゃないか?」そう言いながら飯島が椅子の背もたれに体を預け、腕を組む。
「まず村上の同門の小向を破った事。小向は佐々木ジム期待のホープだ。小向が敗れた事は佐々木ジムにとって大きな誤算だろうし、お前が佐々木ジムにとって無視できない存在になった事は間違いない。それは村上にとっても同じ事だ。そしてお前は今フェザー級で最も勢いのある選手だ。ボクシングファンの間で注目が高まっている。そんなお前と戦わずにタイトルを返上したら、逃げたと思うファンも出てくるかも知れない。村上はプライドの高い選手だからな。タイトルを返上するなら、最後にお前叩いてからにしたい、そう考えたとしても不思議はないだろ」
山田は浮かない顔を浮かべていた。
「村上は弱い相手を選んで試合を組むような選手じゃない。雑誌のインタビューじゃお前のボクシングを否定していたが、心のどこかでは認めてるんじゃないか?じゃなけりゃわざわざ指名なんかしてこないだろ」と恋塚も口を挟む。
「はぁ…」山田が気のない返事をする。
「気が乗らなさそうだな、山田」と飯島。「自信がないか」と続ける。
「自信がないというか、まだ早いというか、俺、まだ八回戦に上がったばかりですよ」そう山田が口にすると、「スタミナに自信がないのか?」と再度飯島が訊ねてくる。
「スタミナに自信がないというか…」山田が言い訳を考えながら言いよどんでいると、「スタミナは問題ないだろ。むしろお前はスタミナはある方だ。もし十ラウンド戦うペース配分が分からないって言うならそれも問題ない。お前は配分もクソもないだろ。ガンガン前に出るだけだ。それがお前のボクシングなんだからな」恋塚が山田の心配を打ち消すかのようにそう話す。しかし、山田はそんな心配はしていなかった。純粋に今村上と対戦しても、勝てる気がしないだけだった。要は自信がないのだが、それをはぐらかすような事を言ってしまった手前、今更自信がないとは言い出せなかった。
「向こうからタイトルマッチの話が舞い込んできたんだぜ?もっと喜べよ」そう言いながら俯いてる山田の顔を覗き込む恋塚。
「受けるんですか?その試合」と山田が俯いたまま口を開く。
「それを今相談してるんじゃないか、お前に」と飯島が返す。
「受けるだろ、当然」と恋塚は好戦的だ。
「勝算は…、あるんですかね」山田は一応訊ねてみる事にした。二人がこの試合の行方についてどう考えているのかを。
「チャンスは十分にあると思ってる」と飯島が組んでいた両腕を解いて体を前に倒し、両膝の上に両肘を載せた。「確かに村上は強い。今までの対戦相手と比べたら一つレベルが突き抜けている。距離を取っても上手だし、打ち合いも得意だ。でもお前のいつもの、相手に自分のボクシングをさせないボクシングを展開できれば、十分勝機はあると思っている」
その後を恋塚が引き取る。
「お前相手に距離を取って戦う事はほぼ不可能だ。ガンガン距離を潰して前に出るのがお前のボクシングだからな。お前にはそれができる。圧力に屈して下がるようならこっちの思う壺だ。それこそお前のペース、相手は打ち合うしかなくなる。打ち合いになったらお前のお得意パターンだ。いつも通りのボクシングを展開すればいい。村上と言えどもお前相手に自分のペースで戦い続ける事は難しいと俺は睨んでいる。お前はもっと自信持った方がいいぜ。自分のボクシングに」
それを聞いて山田は驚いた。二人とも本気で勝算があると思っているらしい。自分のボクシングが本気で村上に通用すると思っているようだ。山田は何度も村上の試合のVTRを観た。村上は普段、中間距離を保って戦うボクシングを展開するが、自ら好んで打ち合いに出る事も多い。打ち合いの中でもそうそうパンチはもらわない。ディフェンスもいいのだ。パンチだって強い。相当な破壊力を秘めている。だからKOを量産できる。あのボクシングに、果たして自分のボクシングは本当に通用するのだろうか。山田は二人の話を聞いて尚、今の自分が村上に勝てるとは思えなかった。
「受けない理由がないだろ」と恋塚。
「はぁ…」
「一気に名を上げるチャンスだぜ」
「はぃ…」
「向こうから指名してくるとはな」
「……」
「村上に後悔させてやろうぜ」
「はぁ…」
山田が気のない返事を繰り返していると、「どうした、山田。シャキッとしろ!」と言って飯島が山田の肩を叩く。
「それに、もしここでやらなかったら、村上から逃げたと一生言われる事になるぞ」と恋塚が発破をかける。
「はぁ…」確かに逃げたと思われるのは嫌だった。でも今村上とやるのはもっと嫌だ。断りたい、でも断れない。山田はジレンマを抱えていた。何で指名なんかしてくるんだよ。その理不尽とも思える申し出に、山田は心の中で村上を責めた。
「やるぞ、山田」と恋塚。
「はぁ…」
「勝つからな」
「はぃ…」断れない自分がいた。
「よし、受けるぞ、この試合」と飯島が決心したかように声を上げる。
どうやらこの二人に、俺を時間をかけて育てようという気はないらしい。
「はぃ…」最悪だよ。そう思いながら山田は返事をした。
「よし!絶対勝つぞ!」と恋塚が拳を握り締めながら勢いよく立ち上がる。
「今日からまた気合を入れなおして練習に取り組むからな」と飯島も気合の入った顔つきで立ち上がった。
「はぃ…」山田もつられて立ち上がる。
やるしかない。山田はそう思いながらも、まったく覚悟が決まらないでいた。




