【怖くても戦うんだよ】
「チケット代ちゃんと払わなくちゃね」そう言ってバッグから財布を取り出そうとする良子の手を山田の母親が制止する。
「いいのよ。誘ったのは憲ちゃんなんだから」
「そうだよ、良子おばさん。勝を連れて観に来てくれるだけで十分だよ」山田も母親の意見に同意する。
「でも悪いわよ、無料で招待してもらったら」
「いいよ。いずれチャンピオンになるからさ。そしたらチケット買って観に来てよ」
「そう?じゃあお言葉に甘えちゃおうかしら」
山田の家に従弟の勝とその母親、良子が遊びに来ていた。四人は台所の食卓を囲って座っている。勝は元気のない様子で大人たちの会話を聞いていた。
「じゃあ、俺は部屋に行くから」食卓の椅子から立ち上がり、自分の部屋へと向かって歩き出す山田。「勝も来いよ」そう言って手招きする。
「勝もお邪魔させてもらったら?」と良子が勝の顔を覗き込む。勝が無言で頷いて山田の後を付いていく。部屋のドアを開け、勝が部屋の中へと入ると、山田も中へ入ってドアを閉めた。
「座れよ」山田が勝に座るよう促す。勝がカーペットの上に胡坐をかいて座った。山田はベッドに上がると、そのままゴロンと横になった。勝がそわそわと辺りを見回している。ベッドの下からエロ本が覗いていた。
「勝、最近あんまり学校行ってないんだって?」山田が両手を頭の後ろで組み、仰向けに寝っ転がったまま勝に話し掛ける。
「……」勝は俯いたまま何も答えない。
「理由も聞いたよ。頭来るよなホント」
勝が山田の顔に目を向ける。山田は天井を見つめたまま口を開く。
「周りは誰も助けちゃくれねぇもんな。地獄だよな」
勝はまた俯き、両手を組んで親指を突き合わせる。親指と親指をくっつけたり、離したり、落ち着かない様子でそれを繰り返している。チラッと勝の方へ目をやり、「勝」と呼びかける山田。勝が再び山田の顔へ視線を向ける。
「お前もボクシングやれよ。全員ぶっ飛ばしてやれ」山田が勝をけしかける。「先生だって殴ったっていいんだぜ。時が経てば大抵の事は笑い話になるんだからさ」
勝は山田の顔から視線を逸らし、ベッドの下から覗いているエロ本に目を向けた。
「笑い話にならないような問題を抱えるなよ。このままじゃ一生引きずるぜ」山田がそう言うと、勝はエロ本をジッと見つめたまま静かに口を開く。
「憲太郎お兄ちゃん…」
「ん?」山田が返事をする。
「ボクシング…、怖くない?」
「ん?」山田が少し考える素振りを見せる。
「怖いよ」少し間をおいて、山田はそう答えた。
勝が顔を上げ、意外そうな眼差しで山田の顔を眺めている。山田が怖がっているとはつゆとも思っていなかった表情だ。山田も勝の顔に目を向ける。目を合わせ、そして再び天井に目をやると、「怖くても戦うんだよ」山田はそう続けた。勝はしばらく山田の横顔を見つめていた。山田は天井を見つめたままだ。勝はまた何も言わなくなった。ゆっくりと下を向き、俯いたまま、再びエロ本に視線を向けている。山田もこれ以上何を言えばいいのか分からなかった。勝はいじめの問題に直面している。解決しなければ、一生引きずる事になるかも知れない問題だ。山田は何とかしてやりたいと思っていた。でも先生はアテにならない。良子おばさんも手詰まりだ。こうなったら、解決できるのは勝しかいない。勝自身の手で解決する以外、方法はなかった。いじめっ子と戦う、山田にとっては簡単な話だ。全員ぶん殴ってやりゃあいい。でも、勝にとっては勇気のいる事だ。どうすれば勝に勇気を与える事ができるのか。どうすれば勝がいじめに立ち向かう事ができるのか。かける言葉が見つからなかった。山田が天井を見つめたまま、そんな事を考えていると、勝はチラチラと山田の様子を窺いながらそーっとエロ本に手を伸ばし、ページを捲ろうとする。山田は横目で勝の動作に目を止めた。
「勝も男だもんな」突然山田が口を開き、ビックリしたようにエロ本から手を引っ込める勝。
「怖かろうが、ビビろうが、男が覚悟決めて戦えば、案外何とかなるもんだぜ」山田が寝っ転がったまま足を組む。山田を見つめる勝。
「俺がチャンピオンになってそれを証明してみせる。俺はボクシングで人生を切り拓く。だから…」そう言って勝の顔へ視線を向ける山田。
「俺がチャンピオンになったら、お前も覚悟決めろ。覚悟を決めて、自分で人生を切り拓け」勝も山田の顔を見つめている。しばらく視線を交わす二人。勝がゆっくりと目を逸らし、また俯いてエロ本に目を向ける。山田が微笑んだような顔をして口を開く。
「やるよ、それ。良子おばさんに見つからないように持って帰れ」
勝は照れたような表情を浮かべ、自分の足元に視線を移した。山田はベッドの上で目を閉じる。今はそれ以上言える事は何もない。勝も口を開かなかった。山田の部屋に沈黙が流れ始めた。




