【心配】
三ツ森の部屋は煙っていた。三ツ森は煙草を片手にこたつテーブルの上に載っているパソコンの前に陣取っていた。胡坐をかきながら落ち着かな気に膝を揺らしている。母親に泣かれた。そうキーボードで打ちん込んだ後、吸っていた煙草を灰皿で揉み消し、もう一本の煙草に火をつける。あれは小学生の時、そろばん塾をサボった時の事だ。三ツ森は記憶を辿りながらパソコンに文字を打ち込んでいく。開いているのはホームページの作成ソフトだ。ホームページを使って過去を洗う、自分を分析する、その最中だった。そろばん塾から母親に連絡が行った。俺がそろばん塾へ姿を現さないと。俺はそろばん塾へは行かず、友達の家で遊んでいた。何でそろばんなんて習っていたのかは分からない。俺が習いたいと言ったのか、強制的に通わされていたのか、記憶は定かではないが、そろばんになんて興味はなかった。友達の家に母親から電話が来た。「何塾サボって遊んでるの。帰って来なさい」と。俺は怒られる事を覚悟しながら家に帰った。しかし、俺を出迎えた母親は怒る事なく、目に涙を浮かべながらなぜサボったのか、その理由を問い質した。それはまるで、俺が悪い子に育ってしまった事が悲しいかのような涙だった。その涙を見た瞬間、俺の心は一気に重くなった。サボった理由なんて行きたくないからに決まっている。そろばんなんて習うより友達と遊んでた方が楽しいのだ。俺は何も答える事ができなかった。母親は涙を拭いながらもうサボる事がないようにと俺に言いかせた。俺はしぶしぶながら、それを了承するしかなかった。最悪の気分だった。俺は母親に怒って欲しかった。怒ってくれれば逆らう事もできる。言い争いの行方よっては二度とそろばん塾に通わなくても済むかも知れない。俺はそんな展開を望んでいた。怒られる覚悟はできていた。母親と言い争うくらいが丁度良かった。でも、泣かれたら逆らう事もできない。逆らう事もできないまま、俺は母親の言い分を呑むしかなかった。母親の涙には逆らえない。逆らう事もできないまま、俺は母親の思い通りに生かされる。いい子ちゃんを強いられる。この先もずっとそうなのか、そんな予感が心を重くした。心が憂鬱になった。
母親はとにかく心配性だった。あれは高校生の時、文化祭の準備で学校からの帰りが遅くなった時の事だ。駅から出てきた俺を、突然母親が出迎えた。今にも泣き出しそうな顔をして。母親はこんな時間までどこに行っていたのかと俺に訊ねた。いつまでも帰ってこないから心配して警察に届け出ようかと思っていたところだと言った。俺は驚いたと同時に恥ずかしくなった。遅くなったと言ってもまだ八時とかそんな時間だったはずだ。高校生がそのくらいの時間に帰宅しても心配するほどの事ではない。しかも俺は男だ。何がそんなに心配なのかが分からなかった。思春期だった俺はそれが恥ずかしくて仕方なかった。男として何かが萎えた。心が一気に重くなった。
その後も母親は俺の帰りが遅くなるたびに心配した。友達と遊んで帰りが夜中になっても、母親は寝ずに起きて待っていた。帰って来てからじゃないと安心して眠れないのだという。それがまた俺の心を重くする。母親が心配して待っている、そう思うと、遊んでいても楽しくない、心のどこかに心配する母親の存在が引っ掛かり、何をしていても憂鬱だった。また、高校入学前、高校に入ってから何の部活に入ろうか考えていた時の話だ。母親はラグビーとボクシングだけはやめて欲しいと俺に言った。怪我が心配だからという。ラグビーには興味がなかった。ルールがよく分からなかったから。でも、ボクシングには興味があった。ボクサーに憧れもあった。男なら誰でも一度は憧れるのではないか。やってみたいという気持ちがあっただけに、母親のその言葉は俺を憂鬱にさせた。俺はボクシングもできないのか。母親が心配するという、ただそれだけの理由で。
母親はとにかく俺を心配した。それは病的と言っても過言ではなかった。俺が道から外れる事を心配し、俺の身に何かが起きる事を心配し、俺の行く末を心配した。常に心配していたと言っても過言ではない。母親の心配性は俺に重く圧し掛かった。母親に心配されている、そう思うだけで心が重くなる。心の中に常に母親が存在するようになった。心配する母親の存在だ。俺はとんだマザコンになっていた。母親が重かった。何をするにも心配する母親の姿が頭に浮かび、何をしていても楽しめなくなっていた。心が晴れなくなっていた。毎日が憂鬱だった。それが俺の行動を妨げた。心を重くした。三ツ森はそんな事を思い出しながら、ホームページ作成画面に文章を書き綴っていく。両親との関係が息苦しかったのか、俺は両親が出掛けると、そのまま帰って来なければいいのに、と、そんな事を考える子供だった。二人とも、俺の知らないところで幸せに暮らして欲しい、そんな事を考え、なぜか悲しくなって一人涙を流した事もある。まだ幼い頃の話だ。そんな記憶も蘇る。両親に愛情がなかったわけではない。むしろ、両親の俺に対する愛情は深かったといえるのではないか。世の中には親の愛情を受けずに育つ人間もいる。そんな人間と比べれば、俺は恵まれているのかも知れない。それでも、俺は子供の頃、毎日を憂鬱の中で過ごした。日々、心が晴れない中で生活していた。その愛情が重かった。子供の頃から、俺は苦しかったのだ。そんな事を考えながらタバコの煙を吐き出し、三ツ森はパソコンの画面を見つめた。母親の呪縛。今はどうなんだろう。俺は呪縛から解き放たれたのだろうか。家を飛び出し、親の事はあまり考えなくなった。今も苦しい。でも、この苦しみがどこから来ているのか、それは分からなかった。心配なんてして欲しくなかった。その心配が、重荷だった。三ツ森は灰皿で煙草を揉み消し、もう一本の煙草に火をつけると、自分の書いた文章を読み返し、しかし途中でめんどくさくなってそのままホームページを更新した。




