蛙飛び込んだのは? 2
高校に入ったばかりの頃、七不思議のひとつを耳にしたことがある。
「無限絵の具のガイコツさん」――。
美術室で、午後七時三十四分にある行動をした生徒は、翌朝必ず意識不明で発見される。制服はびしょ濡れで、目を覚ましても高熱にうなされ、やがて死ぬのだという。
当時の俺は、そんなものはただの噂にすぎないと思っていた。
だが今は違う。目の前で起きている現象が、それをただの迷信ではないと証明している。
人は、車にひかれるだけで簡単に死ぬ。
自分だけは特別だと信じてきた俺も、実際はみんなと同じ――ただの「死ぬ存在」にすぎない。
だからこそ、今が怖い。
目の前にいるのは、車どころか、もっと理不尽で恐ろしいものなのだから。
ただ――ただ、ただ。
蛇口の中から、ヌルリと右手が突き出た。
俺たちは、その異様な光景をただ見つめることしかできなかった。
蛇口が勝手にカチリと右へ回り、じわじわと手首から先、腕へと伸びていく。だが、ある地点で唐突に止まった。
今度は逆だ。ギギギと音を立てて蛇口が左へ回る。
突き出ていた腕が根元から断ち切られた。床に落ちる、生々しい右腕。
続けざまに左手が、右足が、左足が……同じように這い出ては、ねじ切られるようにして落ちていく。
そして最後に――頭。
水の滴る長い髪が蛇口から溢れ、白い顔がこちらを向いた瞬間、俺は本能で理解した。
逃げなければならない。
ただ、それだけははっきりと分かっていた。
……だが、足が動かない。
俺だけじゃない。他の三人も同じだ。
この異常な光景に、誰一人声を出すことさえできず、呆然と見入ってしまっている。
胸が苦しい。
まるで呼吸の仕方を忘れたように。
息を吸うたびに、視界の端がにじんでいく――。
頭、首、胸、腹――。
さっきまでバラバラに切り落とされていたパーツが次々と蛇口から生まれ出る。
床に散乱した手足が、水をまとい、ビシャビシャと音を立てながら勝手に動き出した。
まるで水流そのものが筋肉となり、骨の代わりに体をつなぎ合わせていくように。
そして――完成した。
目の前に立っているのは、正真正銘、俺らの「見てはいけないもの」。
口は動いていない。声も聞こえない。
けれど、なぜか言っていることが分かる。
「……おまえ達のせいだな」
ただそれだけの言葉。
日常で使うような、何でもない単語。
それなのに背筋を氷水で撫でられるような恐怖が、じわじわと体を蝕んでいく。
――来るんじゃなかった。
多分、俺らはこのまま……。
そう思った瞬間。
バシッ!バシッ!バシッ!
頬に響く痛みで意識が戻った。
俺を、鉄を、涼音を叩き飛ばしたのは、まさかのあかねだった。
「てめぇら、ぼさっとしてんじゃねーよ!アホんだら!!」
「さっさと逃げるぞ、このホッコクソボッコども!!!!」
怒鳴り声が美術室に轟いた。
恐怖で縛られていた心臓が、強制的に動かされた。
――走らなきゃ。
俺は必死に扉を押す。
「……なんで、開かねぇんだよ、クソッ!」
取っ手に体重をかけても、扉はびくともしない。
後ろからは、水滴を撒き散らしながら迫る化け物。
濡れた床を踏み鳴らすたび、心臓が喉を突き破りそうになる。
「どけッ!」
涼音が俺を引き剥がし、代わりに扉の前に立つ。
「おい、遊んでる場合じゃ――」
バキィィン!
次の瞬間、木製の扉が音を立てて粉砕された。
思わず目を見開く俺たちに、涼音は髪をかき上げながら鼻で笑った。
「閉じ込められることぐらい、想定済みなのよ」
俺たちは言葉を失ったまま、粉々になった扉を飛び越え、廊下へ駆け出した。
「鉄、走れ!」
「ムリだって、俺運動音痴なんだよ!」
ぜぇぜぇ言いながら転びそうになる鉄の腕を、俺は強引に引っ張る。
後ろを振り返ると――さっきの化け物が水を滴らせながら、美術室を飛び出してきた。
足音がない。音もなく、ただ濡れた影だけが忍び寄る。
「……美術室限定の七不思議ってわけじゃ、やっぱないんだよなぁ」
鉄が半分諦めたように、しかしどこか余裕ありげにぼやいた。
俺たちは必死に走り、まだ練習しているであろう運動部の声を求めて外に向かった。
だが――窓ガラスの向こうに広がるグラウンドは、ひどく静まり返っていた。
「……なんで、いないんだよ」
思わず立ち止まり、喉が乾く。
「今日の昼休み、野球部のやつら“練習だりぃ”とか言いながら馬鹿やってたじゃねぇか……」
涼音が息を整え、冷静に言葉を紡ぐ。
「やっぱりね。私たち、別空間に移動させられたみたい」
「別空間……?」
「この空間はあの化け物が“設定”した檻よ。だから――きっと外には出られない」
あかねは走りながらポケットからメモ帳を引っ張り出し、目を走らせる。
「お前ら、このままやったら全滅するぞ」
「なぁ、さっきから口調おかしくね?」とツッコミかけるが、あかねは完全に無視して言い切った。
「役割分担するしかないやろ。依代を探すチームと、化け物を引きつけるチームや!」
昨日の夜、俺たちはグループチャットで一応の想定をしていた。
この中でまともに動けるのは、俺とあかねだけ。
だから――もしチーム分けが必要になったら、力仕事や危険な役回りは必然的に俺たちがやる。
……こんな時ばかりは「運動できない方がよかった」と心底思う。
涼音が、走りながら息を切らしつつもきっぱり指示を出した。
「とりあえず、私と鉄は三階の図書館に行ってみる。
あんたたちは――物が少なくて動きやすい一階で、あの化け物を引きつけて時間を稼いで」
「……マジかよ」
心臓が冷える。それでも仕方がない。
俺とあかねは、まず二人を三階まで送り届け、
そのあと――限界まであの化け物を引きつけるつもりで走り出した。