蛙が飛び込んだのは?
「古池や 蛙飛び込む 水の音」──誰もが知っている、松尾芭蕉のあの句だ。
一匹の蛙が、静まり返った古い池に飛び込む。その音だけが響く。
たったそれだけの情景。でも、俺は思う。
本当に蛙は、飛び込んだのか?
それはただの想像、頭の中の風景だったかもしれない。
芸術は、時にあまりにも自然で、あまりにもそれらしくて。
一番ありそうな解釈に、俺たちは何の疑いもなく、引きずり込まれてしまう。
そして、そう信じた瞬間に──それはもう、真実になるんだ。
今回は思い込みの話である。
俺はいつものように、授業中に別の参考書を読みながらやり過ごしていた。
昨日入ったオカルト研究部の奴らは、どうやら全員同じクラスメートだったらしい。
普段は他人に興味がないので見ていなかったが、今日はちょっと暇なので、観察してみることにする。
藤谷涼音。
教室ではすみっこに座って、静かに本を読んでる。昨日はメガネを外して白衣を着て、モデル歩きしながらイキってたのに、1軍女子に話しかけられたときは「あ、うす」としか言ってなかった。
……正直、こいつのキャラがまだよくわからない。
柳田鉄。
坊主頭で、見た目は普通の真面目系男子に見えるが、男子たちと口論してるところをちょくちょく見かける。
どうやら民族学オタクらしく、それ系の本をよく読んでいる。ちなみに今は河童に関する民話の本だ。
それにしても柳田國男とのつながりはあるのだろうか。これで血縁ゼロの一般人だったらちょっと面白すぎる。
潮沢あかね。
名前に聞き覚えがあったので、家に帰ってばあちゃんに聞いてみたら、地元の権力者の家系だという。
どうやら彼女の曾祖父は、昭和の時代にヤクザと政治家のパイプ役を担っていた人物らしい。
口だけで金を稼ぐ天才で、潮沢家がいなかったら瀬戸大橋は今とは全然違う形になっていたとかなんとか。
俺は観察を終えた後、いつも通り掃除を済ませて家に帰るつもりだった。
だが、面倒なことに――今日から放課後は、あの部活に時間を費やさなくてはならない。
渋々、生物室の扉を開ける。今はもう使われていないはずのこの部屋には、なぜかジェンガを囲む3人の姿があった。
俺が入った瞬間、涼音がビクッと肩を動かし、次の瞬間――ガッシャーンとジェンガが崩れた。
「ちょっと空気読んでくんない?」
涼音が、またしても頬杖をついたまま、俺に向かって不満げに言う。
「今めちゃくちゃ重要な場面だったんだけど!ヒヤヒヤしてたのに!」
……もしかして、頬杖しながらジェンガやってたのか、こいつ。
そのままジェンガを片付ける気配もない中、副部長の鉄が立ち上がって“会議”が始まる。
「というわけで、今日の作戦を発表するよ」
「俺たちは、七不思議の1つ――《無限絵の具のガイコツ》を倒しにいく」
……ため息をつきたくなる気持ちを抑えて、俺は一応質問してやることにした。
「君たちさあ、仮に幽霊がいたとして、退治できる算段とかあるわけ?」
意外にもちゃんと活動していたらしく、幽霊のことについてある程度詳しかった。
副部長の鉄が、スライドまで用意して説明してくる。
「まず、幽霊っていうのは普通は“天理の輪”に触れて転生するんだけど、強い思いを持ったやつだけ現世に残る。
で、現世に留まるには条件があって……一番重要なのが“依代”を作ることなんだ。
現実にあるものに寄生することで、霊はこの世界に留まり続けられる。
逆に言えば、それを壊せば幽霊は自然と成仏しちゃうってわけさ。」
なるほど、理屈としてはわからなくもない。だが、問題はその情報の信頼性だ。
「その情報、本当に正しいのか? ソースは?」
俺が問うと、3人は自信満々に答えてきた。
「決まってるじゃん! 臨時で雇われてる、歴史の“徳衛”先生だよ」
「そうそう、あの人、地元のお寺でお坊さんやってるから、そっち関係にも詳しいの!」
「で、怪談話もめっちゃしてくれるんだよね〜授業中に!」
俺はその名前を初めて聞いた。
「……おい、俺、そんな先生知らねぇぞ?」
すると、あかねがまさかの正論パンチを繰り出してきた。
「だってそうでしょう。綾野くん、授業中ずっと無視してるんだから、先生の話なんか覚えてるわけないじゃん」
……ぐうの音も出ねえ
俺は一応、ちゃんとした理屈を用意していた。
「まずさ、夜の学校に忍び込む時点で、わりと犯罪か何かだろ。子供はさっさと家に帰って、勉強する時間だよな?」
涼音がニヤニヤしながら、人差し指を横に振って言ってくる。
「安心して。部活の許可で、私たちは夜の8時までいられるから」
「いや、それは“部活”だから許されるんだろ?同好会は対象外って話を聞いたけど」
俺が食い下がると、あかねが無言で紙を押し付けてきた。
それにはこう書かれていた。
「部活動として認定される条件:
① メンバーが5人以上であること。
② または、メンバーが2人以上で、かつメンバー学年順位が平均5位以内であること。」
俺「……嘘だろ?」
目の前の3人が、涼しい顔をして俺を見つめている。
まさか。こいつら全員、俺と同じくらい成績ってこと……?
俺は昨日の会話を思い出す。
「やったー!これで条件満たした!」「ちょうど暇そうなやつでよかった~!」
……おい待て。
俺の学年順位、1位じゃねーか。
まさか……この俺を“平均順位の水増し”に使ったってことか?
「おい!お前ら全員、学年順位を教えろ!!」
涼音が急に顔を引きつらせる。
「……ちょ、急に発狂しないでくれる?怖いんだけど……。私は、7位?」
鉄はニヤついたまま答えてきやがる。
「俺は、普通に3位だけど」
最後に、あかねが申し訳なさそうに答える。
「えっと、6位だけど……」
……全員バカ高いんかい!!
「っていうかさ! だったらあと2人くらい“暇そうなやつ”幽霊部員にして人数でクリアしたほうが楽だったんじゃないの!? 平均順位で突破とか意味わかんねぇだろ!」
その時だった。
涼音が、スッと俺の目の前に顔を近づけてくる。
ド近距離で、目をギラつかせながら言った。
「いい? 私が目指してるオカルト研究部はね、“少数精鋭の選ばれし集団”じゃなきゃダメなの。」
「……は?」
「それに、オカルトに関わる以上、“生半可な覚悟”で入ってきた人間なんてね、幽霊に祟り殺されるに決まってるの。」
「ちょ、お前今“祟り”って言ったよな!? 聞き捨てならないワード入ってたぞ!? 俺そんな覚悟してないからな!?」
その時、あかねがスマホを取り出して、俺にとある写真を見せてきた。
――そこには、
**「俺が英語の先生に復讐するため、先生の靴箱にネギを差し込んでいる姿」**が写っていた。
……。
「それ、どこで手に入れた?」
「うちの知り合いの組、監視カメラの解析得意なんだよね」
俺は確信した。
この部活、まともじゃない。
午後5時が過ぎて
運動部の人間たちは、夜遅くまで校庭で練習している。
……が、俺たちは、というと――特にやることもなく、手持ち無沙汰だった。
「せっかくだから、七不思議の下見しに行くか」
鉄の提案で、美術室へ向かうことになった。
曰く、「その怪異は、午後7時34分に現れる」らしい。
そんなピンポイントで現れる幽霊がいるのかは知らんが、まあ、暇潰しにはなるだろう。
夜の美術室は、空気が少し湿っていた。
どうやら今日は、美術部の顧問が休みらしく、部員も誰もいないようだった。
いつもなら目もくれないような絵の数々が、今は妙に目に留まる。
歴代の生徒たちが描いた、美しい作品たちが壁一面に飾られている。
その中でも――とくに目を引いたのは、右端にひっそりと置かれた風景画だった。
俺たちの学校が建っている善通寺市にある五色山を描いた絵。
鮮やかな色合いと、かすれたような筆使いのコントラストが、不思議な味を出している。
気づけば、他の3人も勝手に寄ってきて、1枚の絵に視線を注いでいた。
涼音が、頬杖をつきながらつぶやく。
「この絵、いいよね。……うん、私、こういう風刺画好きだな」
(風刺……?)
あかねは、首をかしげながら答える。
「私は、ただの風景にしか見えないけど……? っていうか、風刺ってどこが?」
鉄は絵の右下を指差した。
「この小さく描かれてる人物、見える? 俺、この子が主人公だと思うな。全体の静けさと対比して、何か言いたげな雰囲気があるんだよね」
涼音がメガネを上げながら、白衣の袖を少しつまんで語り始めた。
「いい?3人とも、ちょっとこの絵よく見て? 太陽の位置、それに空の明るさ、木々の影の角度から察するに、季節は明らかに“春”なのよ。なのに、桜の木が1本もない。咲いている気配すらない。あるのは緑だけ。――つまりこれは、地球温暖化によって季節感が失われていることへの無言の訴え、いわば環境風刺画なのよ」
あかねは静かに首を振った。
「それは考えすぎだと思う。だってこの絵って、確か10年前の作品なんでしょ? その頃は、今ほど地球温暖化って深刻じゃなかったはず。だから、これはきっと、作者さんがただ――五色山の美しさをそのまま残したかっただけなんだよ。誰かに何かを伝えるためじゃなくて、自分の記憶の中にある好きな風景を残すために描いた、そんな気がする」
鉄はいつものように腕を組み、口元だけで薄く笑った。
「君たち、少し視野が狭いんじゃないかな? 冷静に考えてごらん。もし“風景”そのものがテーマなら、人物なんて描く必要ないはずだよ。わざわざ小さな人影がこの五色山を登ってるんだ。これはつまり――“人間は大自然の前ではただの子供に過ぎない”っていう、存在のちっぽけさを描いた象徴的な表現なんだよ。しかもあえて色調は明るくして、皮肉じゃなくて、共存の理想を語ってる……そう思わないかい?」
…とまあ、いつものように、この3人は自分が一番賢いと思っているので、誰も譲らない。
俺はその横で、「なんか全員、めんどくせえな……」と思いながらも、
少しだけ、この絵に込められた**“誰かの思い”**が、なんとなく気になり始めていた
3人が、俺の顔を順番に見てくる。
「で、綾野は? どの解釈が正しいと思うわけ?」
涼音が顎に手を当てながら、意地の悪い笑みを浮かべて言った。
俺は仕方なく、特別に答えてやることにした。
「……おそらく、この絵を描いた奴は、実際に五色山を見ながら描いたわけじゃない。
自分の中にある“理想の風景”だけを、頭の中からそのまま描いたんだと思う」
3人は黙ったまま、聞いている。
俺は続けた。
「ほら、よく見てみろ。山のふもとに咲いてる花……全部、季節がバラバラだ。桜にツツジに、夏の朝顔まで混じってる。
普通なら不自然だが、これはわざとなんだ。
俺、前に漢文で似たようなやつ読んだことある。蘇軾の『書黄子久山水巻後』って作品だ。
あれも“自然”じゃなくて“心の中の風景”を描いていて、季節がバラバラでも、それが“思いのまま”であれば美しいとされるんだ」
「つまり――この絵は、風刺でも記録でもなく、**その人にとっての“心象風景”**をそのまま形にしただけなんだよ」
そこまで話した瞬間――
涼音がスマホをいじり始める。「……話、長い」
鉄もタップ音を鳴らしながら、「今きっと、自分に酔ってるよね」
あかねは曖昧な笑顔を浮かべながら、「えっと、うん……すごく物知りだよね?」
俺は思った。
全員ぶん殴りたい。
その時、美術室の蛇口から――
ぽと……
水滴が1つ、落ちた。
最初は1つの蛇口だけだった。
だが――
ぽと…… ぽと……
2つ、3つと増えていく。
やがて、音のリズムが速くなる。
ぽと…… ぽと…… ぽと…… ぽと……
ぽと…ぽと…ぽと…ぽと…ぽと…ぽと…ぽと…ぽと…
ぽと、ぽと、ぽと、ぽと、ぽと、ぽと、ぽと、ぽと、ぽと……!
ぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽと
音が、部屋全体を埋め尽くしていく。
ぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽと
ただの水音だったはずなのに――
まるで、誰かがすぐそばで何かを囁くような音に変わっていた。
ぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽと
俺は、息を呑んだ。
ぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽと
帰りたい。ぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽと
ぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽ
なんだこれは。ぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽと
まるで、ボロボロの服で高級レストランに迷い込んだような、ぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽ
ボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボト……“自分がこの場にいてはいけない”というボトボトボトボト強烈な違和感。ぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽとぽぽとボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボ
ボトボトボトボトボトボトボトボト――――ボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボト
天井からボトボトボトボトボトボト音が“落ちてきた”。ボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボタボタボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボ
ボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボトボボダボダ
不思議とボトボトボトボトボトボトボトボトボトボト普ボトボト段なボトボトらボトボトボトボトボトボト心地よいボトボト水の音がボトボトボタボタ?ボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボタボ
水は、一斉に止まった。
それはあまりにも唐突で、逆に不自然だった。
ぽと、という最後の音が空気に消えた瞬間――
蛇口から、“腕”が生えてきた。
人間のものに見えた。
だが、皮膚がない。
水でできた肉のように、透明で、ぬめりと重みだけが伝わるような質感だった。
俺は、動けなかった。
その異常が“恐怖”として脳に届くよりも早く、本能が結論を出していた。
――ここに、いてはいけない。
逃げたい。怖い。そういう単語では言い表せない。
俺は、“存在してはいけない場所に来てしまった”。
ただ、それを自分が理解しているという事実に、なぜか焦りも恐怖も浮かばない。
……いや、違う。
「怖がらなきゃいけない」と思うべき場面なのに、心がそれを拒んでる。
その“恐怖すら湧かない状態”に、
俺は、生まれて初めて、“本当の恐怖”というものを知った。