第8章
ローズ家の窃盗事件が起きた翌月の十一月には、ガートラー巡査は犯人を突きとめるのを半ば諦め、村人にはおそらく収穫祭の夜、ウィングスリング港からロンバルディーへ帰国したシオン人、リューク・メデュウスが犯人であろうと正式に発表した。もうふたりいたシオン人の雇い人、シャムル・レメット、キルデア・ラムルはともにロカルノンの気の毒なくらい粗末な下宿屋にふたりで住んでおり、三千ドルも金があったとしたら清掃夫の汚い仕事になど就かないであろうと結論を下したのだ。もちろん、突然金使いが荒くなると怪しまれるとの配慮から、そのように装っている可能性がないとは断言できないかもしれないが――彼らの栄養失調のような痩せ衰えた顔つきを見ていると、果たしてそんなことにまで考えが及ぶものだろうかとサイモンは思ったのだ。
とにもかくにもこうして隣人に対する嫌疑は霧が晴れるように綺麗さっぱりなくなり、その頃にはヨシュアやエステルに対する偏見のようなものも、人々の心から消え去っていた。ただサイモン・ガートラー巡査だけは、いつまでもユージン・メルヴィルことジョン・シモンズが真犯人ではないかと睨んでおり、今度奴が何かをしでかした日には――必ずふん捕まえてやろうと覚悟を決めていた。
ローズ家の農場の面倒はフレッド・フラナガンがあらかた見ているとの評判は村の中で知らぬ者はただひとりとしてなく、おそらくローラは喪が明けるのを待って彼と結婚するつもりなのに違いないとのまことしやかな噂が、村中に流布していた。が、しかし、フラナガン家の者はみな、フレッド以外、彼に望みがまるでないことを知っていた――そこで、彼になんとか遠回しにローラのことを諦めるようジョスリンもシンシアもケイシーもジョサイアも諭したのであるが、彼は一向その意見を耳に入れようとはしなかったのである。
このことを誰より思い煩っていたのはローラ自身で、彼女は毎日彼と顔を合わせたり目を合わせたりするのがつらかった。乳搾りやバター作りやチーズ作り、あるいは家畜に餌をやったり鶏やアヒルやガチョウの卵をとったりするという、ローラが以前からやっていた仕事でさえ――フレッドは必要以上に手伝った。
エドワードは座骨神経痛が慢性化しており、今では馬車に乗るのさえ困難な病状であったので、グリーンリバーサイドの家を離れられなかったし、ローラ自身、フレッドがいてくれることでどれほど助かっているか知れなかった。だが毎朝、彼の希望と期待に輝く顔には義理の兄として以上の何ものかがあり、ローラはそのことに目に見えぬ重い負担を感じていた。それで、誕生日でもないのにサフラン色の絹のショールをプレゼントされた時――ローラははっきりと自分の気持ちを口にすることにしたのだ。
「フレッド、わたし、こうしたものはいただけないわ。むしろわたしのほうこそ、あなたに何かお礼をしなくちゃって、そう思うのに……」
「いいんだよ、ローラ。そんなに気にしなくて。フォークナー社のカタログを暇つぶしに見ていたら、たまたま君にぴったりだと思うものを見つけて注文したまでのことだからね。今はまだ黒以外のものを身につけるわけにはいかないかもしれないけど――来年になったらね、もっと花のように綺麗な色彩のものをたくさん着るといいよ。それじゃなきゃ、せっかくの美貌が大なしだ」
ローラはフレッドに対する申し訳なさから、彼の顔を直視できずに、いつものように目を伏せていた。だがローラは知らなかったのだ――その表情は、トミーと同じく、フレッドにとっても一番魅惑的だった。フレッドはローラが目を逸らしたり伏せたりするのを、乙女らしい羞恥心の表れと見ていたし、この時もそんな彼女にキスしたくてたまらないくらいだったのだ。
「フレッド、わたしはっきり言うわ」ローラは決意すると、フレッドに痛いくらい真っすぐな、決然とした眼差しを投げた。「わたし、これから先も一生、喪服を脱ぐつもりはないの。わたしにとってはトミーだけが、一生にただひとりの夫なの。そのこと、わかってくださる?」
フレッドは、ヨシュアが妹のエステルとシリル語で喋っている時のように、理解できないという顔つきをした。そしてローラの言った言葉が、やがて時間をかけて食物を咀嚼する時のように理解できてくると――掠れた声で呟いた。
「……そんなの、わからないじゃないか。もっと時間が経てば、君も気が変わるかもしれないし……」
「いいえ、わたしは変わらないわ」ローラは冷たいくらいきっぱりと、そう言った。そしてフレッドは、ローラが本当はとても激しい気性を持つ娘であると、初めて知ったのだ――その両の瞳に蒼い炎のような強い光を見てとって。
「わたし、本当はずっと言おう言おうと思ってたの。フレッド、フレディおじさんが亡くなってから、あなたがどんなによくしてくださったか、わたし、一生忘れないつもりよ。でも――そのこととこれはまったくの別問題だってこと、あなたもわかってくださるでしょう?」
「じゃあ君は、俺を利用してたのか?俺がどんなふうに君を想っているか知っていながら……そして秋蒔きのための畑も耕し終わったし、小麦の脱穀ももう終わったし、冬囲いもすっかりすんだから、俺のことをお払い箱にしようっていうんだな?」
「そんなつもりじゃないわ、フレッド。ねえ、わかって……」
「わからないよ!」
フレッドは甘い匂いのする乾草の上にローラのことを押し倒すと、強引にその唇を奪った。モーと乳牛が鳴き、尻尾を振っていたが、彼女たちにはローラの身の上に何が起きているのかを理解するほどの知能はなかった。ローラは声を上げずに抵抗したが、力では到底フレッドにかなわなかった。
「ローラ、お願いだから大人しくしてくれ。ローラ……」
まるで気の荒い雌馬にでも対するようにそう囁かれ、ローラがカッとなって我慢の限界に達したちょうどその時――牛舎に細長い影がふたつ現れたかと思うと、その影のうちのひとつはたちまちのうちにローラに重くのしかかっていたフレッドの体を押しのけていた。
「やめろ!こんなことをして一体何になるっていうんだ!?」
後ろのほうで作業着姿のユージンが、ヒューと口笛を吹いた。それでアンソニーは心ならずも頬を染めた。自分でも自分が、何を言っているのかわからなかった。ただ破れた喪服姿のローラをちらと見て、次の瞬間に彼女と同じくぞっとしただけだった――もし今自分がここへこなかったとしたら、一体どういうことになっていただろうと。
「……やってくれるじゃねえか」
フレッドはベッ、と血と唾を地面に吐きだすと、ここのところ抑えられていた、海の男としての荒い気性が頭をもたげるのを感じた。こんなひょろ長い優男に、自分が負けるはずがない。
「てめえ、ここのところ毎月ローラのところにやってくる、保険の外交員だろ?てめえこそ一体なんの用があってここへきた!?まさかとは思うが、ローズ家の財産を狙っているってんじゃねえだろうな?そっちのユージンなんとかっていう男も……」
フレッドはユージンのことが初めて会った時から好きになれなかった。人に命じられたことはなんでもハイハイと、従順に言われたとおり真面目にこなしたが、それでいて何を考えているのかさっぱりわからない男だと思っていた。今、直感的にこのふたりが知りあいらしいのを見てとって、よからぬ企みの匂いを嗅ぎつけたような気がしたのだ。
「フレッド!もうやめて!アンソニーも……わたし――わたし……」
ローラは喉を詰まらせると、たまらない気持ちになって、泣きながら三人の男の脇を走り抜けた。どうして一番見られたくない人に、あんなところを見られてしまったのか、悲しくてたまらなかった。毎月、アンソニー・レイノルズが家に訪ねてきてくれることだけが、ここ数か月のローラの、一番の楽しみな出来ごとだったのに……でもあんなところを見られてしまったら――彼はもう自分のことを軽蔑して、二度とローズ邸にはやってこないだろう。
「……うっ……うっ……」
あらためてローラはこの時、自分はひとりぼっちなのだと感じた。ベッドの上にうつ伏して、服を着替えることも忘れて泣き続けた。そうだ。マーシーとヨシュアとエステル、それからマックおじいさんをうちに引きとったらどうだろうか?あの子たちは自分にとても懐いてくれているし、マックおじいさんには看病が必要なのだから。そうだわ。それでクリスマスにはみんなでお祝いをしよう。そうすれば、もうさみしくないわ。きっとさみしくない……。
「おーい、ローラ?そっちへ上がっていってもいいかい?」
アンソニーののんびりとした、優しげな声が階下から聞こえてくると、ローラはがばりと寝台から身を起こした。そして急いで別の、黒繻子の服に着替えた。そして破れた黒いちりめんの喪服のほうは、ベッドの下へと慌てて隠した。
アンソニーはひとつ咳払いをすると、礼儀正しくコンコンとドアをノックしている。
「ローラ、入ってもいいかい?」
「ええ、どうぞ」そう答えながらもローラは、夫婦の寝室に別の男を入れるだなんて、不謹慎だと、頭のどこかではわかっていた。それなのに、その時は何故か――そのことがあまり非常識なことのようには思われなかったのだ。
「……フレッドは?」ローラは掠れたような、小さな声で聞いた。
「帰ったよ」と、いつものスーツ姿に身を包んだアンソニーは、溜息を着きながら肩を竦めている。ローラは羞恥心から頬を染め、彼の眼差しをいつものように真っすぐ受けとめることができなかった。
「ローラ、こんなことを言うと、なんだか君の弱味につけこんでいるように聞こえるかもしれないけど――この家には男手が必要だ。そうじゃないかい?」
「ええ、そうね。だけど……」
アンソニーは何を言いたいのだろうとローラは訝しく思った。フレッドの気持ちを知っていながら利用したのだと、彼にまでそんなふうに思われているのだろうか?
「だからといって、好きでもない男の人と結婚するっていうことはできないわ。フレッドのことは、もちろん好きよ――でもそれは義理のお兄さんとしてっていうことなの。わたし、なんとか考えて自分ひとりでもここの農場をやっていかなくっちゃ」
「ローラ、俺のことはどう思ってるの?」
アンソニーはローラの隣に腰かけると、目線を逸らそうとする彼女の顔を、両手の中にしっかりと捉えた。
「ただの毎月やってくる、保険の外交員?それとも……」
「アンソニー、あなたは……」
(戦地で病死した夫と、とてもよく似ているの)とは、ローラには言えなかった。だがアンソニーの青い瞳の中に、必死な何かを見つけだすと、拒みきれない魅惑的な思いにローラは絡めとられた。
「知ってるよ、ローラ。ユージンが何もかも俺に教えてくれた。俺は君の亡くなった御主人によく似ているんだろう?マントルピースの上の、御主人の軍服姿を見て、どこかで見た顔だとは思ったんだ――それが自分だと気づくまでに、大分かかったけどね。でも俺は君の御主人のかわりでもいいから、君に愛されたいんだ、ローラ」
「だって、そんな……あなたにはロカルノンでの仕事があるでしょう?都会の生活を捨ててこんな田舎の村までやってきてほしいだなんて、わたしにはとても言えないわ」
「大切なことはひとつだよ、ローラ」アンソニーはローラの嘘を見破ろうとするかのように、彼女の瞳をじっとのぞきこんだ。「俺のことを愛しているかいないか――ふたつにひとつだ。そして俺は君のことを愛している。君がここを離れられない事情もよくわかっているつもりだし、それなら、俺も君が守りたいと思うものを一緒に守っていきたいって、そう思うんだ」
「アンソニー……」
ローラはアンソニーのキスを、フレッドの時のようには拒まなかった。ここはトミーと自分の夫婦の寝室で、いくら夫によく似ているとはいえ――別の男とキスするだなんて、いけないことだといくら自分に言い聞かせようとしても駄目だった。ローラはアンソニーのキスを二度三度と繰り返し受け容れ、最後には彼に抱きしめられ、その肩に頭をもたせかけながら――自分からプロポーズしていた。
「ねえアンソニー、わたしと結婚してくれる?」
ローラとアンソニーは、翌年の四月に――ローラの喪が明けるのを待って結婚する約束をした。それまでにアンソニーはホールデン生命保険会社をやめ、ロカルノンの小さなアパートメントを引き払い、ローズ邸へ越してくる予定であった。
フレッドはロチェスター村を去っていった――ローラに自然の精のルベドが味方しているように、彼にもまた海の女神がついていたからだ。その嫉妬深い海の精霊は、ずっと彼が陸地から海へ戻ってくるのを、辛抱強く待っていた。フレッドは十六歳の時に誰にも何も言わずにロチェスターを出ていったのと同様、今度もまた、誰に何を告げるでもなく、ただジョサイアとジョスリンが我が目を疑うばかりの大金だけを残して――生まれ故郷をあとにした。
彼のよき相棒でありセント=ミュリシア号の副船長でもあるニコラス=シュトラウスは、フレッドが必ずや考えを変えるであろうと信じていたので、自分のただひとりの信頼すべき親友が戻った時、至極当たり前のことのように彼のことを甲板で迎え入れた。
こうして長い間真の主人を欠いていたセント=ミュリシア号は、再び巨万の富と物資を積みこむべく、エルキューレ岬を目指して出発した。東洋はシナ国の有名なシルク製品、インディアの紅茶、香料諸島の胡椒やナツメグなどの香辛料などなど……フレッドはこの航海に際して、クリスマスにローラへプレゼントしようと思っていた花ミズキのかんざしを、海に放り捨てた。ニコラスは彼がどうも失恋したらしいと感じていたが、口にだしては何も言わなかった。そして海の女神は――自分の愛する男が賢明な判断を下したのを見てとって満足し、その花ミズキのかんざしを、紺碧の海の白い泡の中で確かに受けとったのだ。
これから十年後、フレッド・フラナガンの名は海運王として世界中に知らぬ者のない名前となるが、彼は二度と故郷へ帰ることはなく、ただロチェスターの両親の元へは、多額のお金だけが毎月決まって送金され続けることになるのである。また彼は、恋の噂の絶えぬ男としても有名であったが、死ぬまで誰とも結婚するというような愚行を犯さなかった――そして海の精霊たちはフレッドのそのような自分たちへ操を立てるかの如き行いをとても喜び、彼の船旅はいつでも安全のうちに守られ、祝福され続けたのである。