第5章
「結婚してほしいんだ、ローラ」
勝手口の前のほうの庭でそうフレッドにプロポーズされても、ローラは少しもときめかなかった。フレッドは落ち着かなそうにスーツのボタンを陽に焼けた無骨な手でいじったり、黒々とした髪をぐしゃぐしゃっとかきむしったりしていたが、ローラのほうはただ、フレッドからもらった純白の百合の花と、今しがたアンソニーが消えていった緑の丘を眺めやるばかりだった。
「もちろん、返事は今すぐじゃなくて構わないんだ。それに、まだ喪も明けないのにこんなこと……常識がないってわかってる。でもおふくろが、ローラには崇拝者が村に一ダースもいるっていうもんだから俺、つい焦っちまって……」
「ありがとう、フレッド」ローラはフレッドの、赤銅色をした、いかにも海の男といった感じの、彫りの深い顔立ちを見上げて言った。
「でもわたし――誰とも結婚する気なんてないの。これから先も一生、そうだと思うわ。だからわたしがお婆さんになった頃、あの時自分と結婚していればよかったのにって後悔させるような幸せな結婚を、誰か別の人としてほしいって、心からそう願うわ。だってあなたは……トミーのお兄さんで、わたしの義理の兄でもある方ですもの」
フレッドはその返事を聞くと、ぐっと喉が詰まったが、それでもこのくらいのことで諦めるフレッドではなかった。彼はローラのうっすらと青く静脈の浮きでた白い腕に蚊がとまろうとしているのを見て、それを払いのけた――そう、これは比喩だとフレッドは考えた。
「今、君の白い腕に蚊がとまろうとしたけど、男にしてみたら君は、ようするに、その……そういう存在だと思うんだ。誰もが君の血を狙ってる……」
フレッドはそれ以上言葉が続かなくなり、またしどろもどろな状態に陥った――くそっ!俺は一体何を言っているんだ!――フレッドは内心舌打ちした。
「まあ、気がつかなかったわ。フレッド、とりあえず中に入ってちょうだい。あらあら、網戸に熊蜂がとまってるわ」
ローラはフレッドの言葉にあまり深い意味を見出さなかった様子で、勝手口から台所に入ると、再び夕食の支度をしはじめた。フレッドは勝手知ったる他人の家といった感じで、先ほどアンソニーが座っていた背の高い椅子に腰かけ、ローラが再びパイの生地を作りはじめるのを、暫くの間ただ黙って眺めていた。
「ごめんなさいね、さっきあの人にクッキーやらチョコレート菓子やらをほとんど渡してしまったの。だから何も……あ、ちょっと待ってて。そういえば貯蔵庫の壺の中にドーナツがあったと思うわ」
「いや、そんなことはいいんだ。ローラ……」
フレッドの言葉がまるで聞こえなかったようにローラは、食料貯蔵庫へいってまたすぐに戻ってきた。
「そうそう。突然のお客さまがきた時のためにって、いつもフルーツケーキとドーナツだけはうちは必ず欠かさないのよ。エリザベスおばさんのお母さまの代から、ずっとそうなんですって。だからわたしもローズ家の伝統を守って……どうかして?フレッド?」
「『どうかして?フレッド?』じゃないよ、ローラ」フレッドはローラの口真似をしながら言った。「俺はたった今君にブロポーズしたばかりだというのに、その傷心をこのドーナツやフルーツケーキで癒せとでも言うのかい?」
フレッドはそう言いながらも、勝手にティーカップにポットから紅茶をつぎ、ドーナツをひとつ、ぽいと口に放りこんだ。
「……そりゃ、君の作ったドーナツもケーキも美味しいさ。けど俺はたまらないんだよ。さっきみたいなどこの馬の骨とも知れない男が、ある日突然君を横からかっさらっていきはしないかと思ってね」
「あの人は馬の骨なんかじゃないわ。アンソニー・レイノルズさんといって……」
「ごまかすのはやめてくれ、ローラ」フレッドは立ち上がると、ローラの手からのし棒をとりあげた。「俺の気持ちは前からわかっていたはずだ。それなのに君は……あんな、流れ者のような男とは楽しそうにしゃべっていながら、俺のことは無視するんだな。いや、俺のことを嫌いなら嫌いでそれでいいよ。ただ他の男と同じく、俺もチャンスが欲しい――君のためなら何年待ってもいいと思ってるんだ、ローラ……こんな気持ちになったのは生まれて初めてなんだよ」
「あなたのこと、嫌いだなんて思ったことないわ。大切なトミーのお兄さんよ。彼、いつも言ってたわ。フレッド兄さんにはよく、いじめっ子のビリーをやっつけてもらったって……」
「だから、俺が言っているのはそういうことじゃなく……」
フレッドがじれったい気持ちを抑えきれずに、ローラのことを抱きしめようとしたちょうどその時――テーブルの上の百合の花が、窓からのゆるやかな風に吹かれてぽとりと落ちた。それと同時に、勝手口の網戸が開いた。
「おまえたち、何をしとるんだ!」
フレデリックは、普段開いているのかいないのかよくわからない細い目を大きく見開くと、老人とは思えないとても強い力でローラとフレッドとを強引に引き離した。
「ローラ!おまえはトミーの喪も明けないうちから、男と……男とこんなことを!しかもこいつはトミーの兄ではないか!恥を知れ!」
「違うんです、フレディおじさん。俺はローラにプロポーズしたんですが、彼女が受け容れてくれないのでつい……」
「なんだと?」フレディの燃え立つ青い眼は、ギロリとフレッドのほうへ向いた。「プロポーズだって?あんたもあんただ!ローラはまだ喪も明けていない上に、あんたの義理の妹なんじゃぞ!まったく、近ごろの若い者ときたら……」
フレディはそこで少し咳こむと、暑さに疲れたような様子で、ふらりと台所のソファに倒れこんだ。
「あきれてものがいえん……」
ローラは伯父にコップ一杯の水を持っていったが、フレディは蝿でも追い払うような手つきをしただけだった。
「そんなものはいらん。それより、フレッド・フラナガンには今すぐ出ていってもらえ。給金は明日、まとめて払うから取りにくるがいい」
「おじさん!」
ソファの足許に跪くようにしていたローラの肩を、フレッドの褐色の手が掴んだ。
「いいんだ、ローラ。俺が悪い。すみません、おじさん。明日もう一度ここへくることを許してください」
「ふん!」と、フレデリック・ローズは死んだ姉のエリザベスと同じ仕種で、鼻を鳴らした。「誰がここへきていいと言った?明日、豚小舎か鶏舎にまでとりにこい!それも朝一番でな!じゃなきゃフラナガン家とは金輪際……」
そこでフレデリックはまた、何度か咳こんだ。
「つきあいはないものと、そう思え!」
「……わかりました」
雇い主のフレディに厳粛な面持ちで一礼すると、フレッドはローズ邸の勝手口から出ていった。ローラは台所の小窓からフレッドの後ろ姿を見送り、彼がこのことをどう思ったかということよりも――乾草つみのことや、収穫の時に必要な人手のことが心配でたまらなくなった。
「ごめんなさい、おじさん。仕事の要領をよく飲みこんだ、若い人がいて助かるって、毎晩のように言ってたのに……」
「いや、いいのさ」フレディは外にでて痰をひとつ吐くと、いつもの優しい伯父になって再び戻ってきた。「わしにも本当は、こうなることがわかっとった。それにどのみち――あの男はここからでていくだろうからな。前にも何度か漁師町の人間を雇ったことがあるが、ちょうどフレッドと似たような感じじゃった。あれは、土に属さず、海に属している者の目をしておる……だから、何もおまえがプロポーズを断ったからって、良心に痛みを覚える必要はないのだよ」
「まあ。どうしてわたしがフレッドのプロポーズを断ったって、そう思いなさったの?」
「見ればわかるさ」そう言ってフレディ伯父は細い目を茶目っぽくウィンクさせた。
「じゃあ、それなのにわたしを真っ先にお叱りになったのね?」
「あの時はつい頭にカーッと血がのぼってな。それに、農業組合の会合で、おまえのことをふしだらだと抜かしおった輩がいてな……そのことがまだ耳に残っていたせいもあるかもしれん」
「わたしがふしだらですって!」ローラは打たれたように立ち上がると、テーブルを支えとするように、その角をぎゅっと握りしめた。「一体誰が――誰がそんなことを言ったの?」
「気にするでない」フレディはローラの持ってきてくれたコップの水を飲みほした。「ただの焼きもちみたいなもんじゃよ。おまえが教会のピクニックで、誰それに色目を使ったとか、そういうくだらない話だ――そして決まり文句のように、『トミーが死んで一年にもならないのに』って言うのでな、当然わしは言ってやった。『ローラは今でも、トミーのことを愛している』とな」
だがそのフレデリックの言葉も、ローラにはなんの慰めにもならなかった。よりにもよって、この自分がふしだらとは!喪服を脱いで、ダンス・パーティにでもいったというのなら、話はまだわかる――それと、女性ばかりの裁縫の会のような場所で陰口を叩かれるのなら。だが男ばかりの、農業組合の会合のような場所でそんなことを言われるとは!ローラは思わず眩暈すら覚えた。
「ねえ、おじさん、誰なの――?わたしのことをふしだらだなんて……そんなことを言うのは?だって、心あたりがまるでないんですもの」
「おまえが以前プロポーズを断った、ビリーとヘンリーじゃよ」
そこまで聞いて、ようやく合点がいったが、ローラはあのふたりの顔を思い浮かべるのも嫌だったので、そのまま黙ってただ黙々と、夕食の支度の続きにとりかかった。やれやれ。保険の外交員の訪問やら、フレッドのプロポーズやらで、すっかり準備が遅くなってしまった。
「わしはちょっと、牛舎のほうを見てくるよ。そろそろポリーのやつが子牛を産みそうだでな。マーシーにばかり世話をさせるわけにもいかんだろうし」
ローラがいってらっしゃい、と頷くと、ニッカーボッカー姿のフレデリックは、勝手口から牛舎へ向かった。現在ローズ家にいる牛は全部で十八頭で、この他に豚が二十頭、鶏が三十羽、七面鳥が二十二羽、ダチョウが八羽、アヒルが十四羽いる。これら家畜の世話の他に、とうもろこし畑や大豆、小麦、じゃがいも、玉葱、ビート、かぼちゃ、えんどう豆、さやいんげんなどを栽培している野菜畑が裏の樅の林まで広がり、その面積はおよそ二百エーカー以上にもなった。
フレデリック・ローズは兄、エドワードの助けをこれまでのように受けるわけにもいかず――彼は持病ともいえる座骨神経痛に悩まされているので――その広大な畑に、滋味豊かな、秋の収穫を今から予感させる成育中の野菜たちを眺めやり、深く嘆息した。
(将来的に、この土地をローラひとりで切り盛りしていくのはまず無理だ。マーシーもやがては結婚して、独立していくだろうし……その場合、マーシーにローズ家の土地を少し与えたとしても……やはりローラにはしっかりとした伴侶が必要となるだろう。しかし、ローラにとってトミー以上の男など、果たしてこの地上にいるものだろうか?)
そしてフレデリックは、晩年のエリザベスがよくそう考えたように――自分がせめてもう十年若ければと、溜息を着きながら牛舎の扉を開き、これが初めてのお産であるポリーの腹のあたりを優しく撫でた。もうそろそろ、いつ産まれてもおかしくない頃合であった。
「アンソニー・レイノルズ……」
ローラは寝台の上で、今日の午後にきたお客――生命保険の外交員――のことを考えた。そして彼の名刺を胸に、甘い溜息を洩らした。
(果たして彼は来月も、うちへ寄っていってくれるかしら?)
正面玄関の真鍮のノッカーが鳴った時、料理の準備でちょうどローラは手が離せないところであった。村で用のある人は大抵そういう時、勝手口のほうにまわるか、納屋か畑のほうへいくものなので――ローラは台所の小窓に人影がよぎるのを待って、声をかけようと思っていた。だがその人は家の裏手をぐるっとまわってからようやく勝手口の網戸を発見したらしく――その時にはローラは、てっきり行商人でもやってきて、留守なのだろうと思い、引き返していったのではないかと思っていたのだ。
ところが暫くして勝手口のほうに人の気配がし、その人物がネクタイを直したり、軽く咳払いをしているのを網戸ごしに見たローラは、林檎の砂糖煮を調理台の上にのせると、料理用ストーブの熱気ですっかり汗ばんだ額をタオルで拭った。そして相手が何か言う前にさっと網戸を開け――ローラは金縛りにあったように、その場から動けなくなってしまった。
(……トミー!)
青灰色のスーツを着た、その身なりのよい男は、ローラの今は亡き夫、トミー・フラナガンにとてもよく似ていた。いや、正確には双子のようにそっくりであるとか、そういうわけではなく――背格好や年の頃、顔の輪郭、髪型、瞳の色、鼻や唇の形など――全体的な雰囲気が午後の強い陽射しに曖昧にぼかされ、一瞬の錯覚がローラの心を捕えたのだった。
「……トミー」
思わずローラが愛する夫の名を呟くと、その男はぼんやりと顔を上げて返事をした。ローラは息もとまらんばかりだったが、すぐにこのトミーによく似た男の来訪を、天使の訪れのように喜んだ。
「まあ、どうなさったの、あなた。早くお上がりになって」
ローラの声が震えていることに、アンソニーは少しも気づかなかった。ただ、ローラの美しい強い力の宿る眼差しに捕えられ、(こんな田舎にはなんともったいない、美しい娘だろう)とぼんやり考えただけだった。
「あの、俺、いやわたしはホールデン生命保険会社の者でして……」
アンソニーはこれまでにないくらい、しどろもどろになった。ローラは彼から受けとった名刺を穴があくくらい見つめたかと思うと、今度は彼自身のことを、まったく同じ眼差しで見つめてきたからだ。
「あっ、いけない!」
ローラは突然夢想から覚めた者のように現実へ立ち返ると、オーブンに入れっぱなしのアップルパイのことを思いだし、それを急いで引っぱりだした。
「あつっ!」
天板に軽く手を触れてしまい、ローラは手のひらをすぐに水に浸した――よかった。パイのほうはまだ焦げてない。
「大丈夫ですか?」
男が自分の後ろに立った時、ローラはどきりとした。ちょうど背後からのぞきこむようなこの感じは――トミーに特有のものだった。ローラは思わず抱擁を期待して、潤んだ瞳でアンソニーのことを振り返っていた。
ふたりはしばしの間見つめあい――ローラは、この男が望むことならなんでもしてやりたいという気持ちにさえ、そのほんの、三十秒たらずの間になっていた。
それでも流石に男が自分にキスしようと身をかがめた時に、ハッと我に返りはしたが。
「あっ、あの……」
アンソニーが身を引くと、ローラもまた何ごともなかったかのように、再び彼とテーブルを挟んで向かい合わせになった。
『ホールデン生命保険会社
アンソニー・レイノルズ
ロカルノン市セントラルストリート19番地……』
(アンソニー・レイノルズ。彼はトミーじゃないんだわ。でもなんて似てることでしょう)
ローラは紅茶を入れたりアップルパイを切り分けたりする間も、淑女のたしなみなどすっかり忘れてしまったように、彼のことを遠慮なくじろじろと見た。
(確かに髪はトミーと違って金色だけど……目の色や眉の形はそっくりだわ。あの不器用そうな微笑みを浮かべた口許も……)
そしてローラは、何故彼がさっき自分にキスしてくれなかったのだろうと残念に思っている自分自身に驚いて、頬を染めた。
そのあとアンソニーは、生命保険の話など一切せずに――自分の身の上話や、小さい頃に育った孤児院のことなどを話しはじめ、ローラは彼の言葉をひとつも聞き逃すまいとするかのように、熱心に耳を傾けていた。
もちろんローラも、その話を聞いていて、彼――アンソニー・レイノルズがトミーとはまったくの別人であるとはっきりわかっていた。ついこの間ロカルノン・ジャーナルにでていた記憶喪失の男の話のように――トミーが戦争で受けた砲撃のショックで妻の顔も忘れてしまったのだとか、そんな突拍子もないことを考えていたわけではまったくない。ただローラには、アンソニーの話す言葉の響きが耳に心地好かった。なんてこの人は声までトミーにそっくりなのだろう――ローラはまるで、貝殻を耳に押しあてた時のようにうっとりしていた。
(ああ、トミー!わたし、どうしたらいいの?)
ローラは寝台の、隣の空白部分に向かって心の中で問いかけた。今日の午後は、カルダンの森までいっている時間がなかったけれど――今では以前まで姿のなかったルベドが、トミーの姿となってローラを自然の官能の世界へと誘っていた。ところが今度は、実際に彼が肉体を持ってローラの目の前に現れたのだ!
ローラは死んだトミーの唇の感触や指の感触を、今でもとてもよく覚えていた。だから、それをもう一度再確認するかのように、アンソニーの指で、その感覚を再び甦らせたかった。そしてそのことがどこかいびつな間違っていることだと心のどこかで感じてはいても――目の前にもう一度もしアンソニーが現れたとしたら、その誘惑に抗するのは難しいだろうと、ローラにはそのように思われた。