第4章
(べつに、兄が弟の未亡人に求婚したからとて、おかしいことはあるまい)とフレッドは考えた。(それにローラが喪服を脱ぐまで、あと半年はあるのだから――その間に、こちらに心を惹きつけておくことが何より重要だ。おふくろの話によると、村の中には俺以外にも、一ダースはローラの喪が明けるのを待っている連中がいるという話だからな――そいつらに比べると俺は、随分有利な立場にいるわけだ。何しろ昼はローズ農場で彼女と一緒に、彼女の手製の料理を食べているわけだし、フレデリックおじさんも、俺がもしフラナガン農場を継ぐ気なら、土地の一部を売ってもいいと言っている……これぞまさしく一石二鳥の計画ではないか!)
フレッドはフレデリックの口から自分のいい話がローラに伝わればよいと思い、ローズ農場では身を粉にして実によく働いた。そして昼休みの一時は、彼にとってまさに至福の一時であった。フレッドには十時間ぶっとおしで話をしても、語りきれぬほどの冒険談があったし――不思議な幽霊船や沈没船、また昔の海賊が残した財宝についての話など――昼食時はおもに彼が話の中心となって、他の三人は模範的な聴衆であるかのように、フレッドの話にじっと耳を傾けていた。
「あなたがいてくださって、本当に助かるわ」ローラは、畑の草むしりをしながら、フレッドがローズ農場を手伝いはじめて半月が過ぎた頃、そう言った。「フレデリックおじさんも、わたしもどちらかといえば無口で、場持ちが下手なほうだし――マーシーもあなたにとても懐いてるものね。将来はあなたのような船乗りになりたいって言ってるのは、ちょっと困りものだけど」
「あの年頃の男の子は、みんなあんなものだよ」と、フレッドもローラの隣で腰を屈めながら雑草を引き抜いた。「僕もそうだったし――(彼は何故か自分のことをローラの前では俺と言わずに僕と言うのであった)――自分の身の丈にあった将来なんて、想像するだにつまらないからね。誇大妄想ともいえるくらい、大きな夢だけ持っててさ。そのうち現実という名の壁に突きあたれば、大抵の場合は目が覚めるんだろうけど――僕は何度も船の上で死にかけたり、仲間を失ったりしながらも、いつまでも自分の夢を諦めきれなかったんだ」
「でも不思議ね」と、ローラは日除け帽にちょっと手をやり、額の汗をぬぐいながら言った。「だったらどうしてロチェスターへなんか戻ってきたりしたの?あなたの今の経済力からいってみれば、ローズ家の農場を全部買いとることだって不可能じゃないでしょうに――それに、こんなふうに毎日汗水たらして雑草を抜いたり、病虫の駆除をしたりしなくてもいい暮らしができるじゃないの。馬鹿馬鹿しくならない?」
「君は自分の今の暮らしをどう思ってるの?」
フレッドは、隣のローラのことを時々盗み見ながら作業を続けた。彼女は着古した綿のブラウスとギンガムのスカートをはいていたが、それでもまったく美しいと、彼は感じた。
「わたし?わたしはこの土地に属している人間なのよ。ちょうどあなたが海から離れがたかったように――わたしもここから離れられないの。それに、ローズ家には返しきれないほどの恩があるわ。わたしの代で農場を閉じなくてもいいように、なんとか工夫して、ここを続けていかれるようにするつもり。じゃなきゃエリザベスおばさんに申し訳が立たないもの」
「それは――つまり……つまりそれは――」ぎらぎら照りつける八月の太陽のためだけではなく、彼は作業着の下の自分の肉体が、熱く火照るのを感じた。「再婚する気があるってこと?」
「いいえ、それは違うわ」ローラは一瞬だけ手を止めると、きっぱりとした口調で言った。「まだはっきりとはわからないんだけど、もし仮に――これは本当に仮にということなんだけど――フレディおじさんもエドおじさんも亡くなって、わたしもある日突然何かの事故か病気で死んだとするわよね?そしたらロチェスターのこの家は、ロカルノンのハリス・ローズ一家のものになると思うの。あなたも知ってのとおり、ハリスおじさんの家は子だくさんですもの。そのうちの中のひとりくらい、田舎に引っこんで農家をやってもいいって男の子がいるかもしれないわ」
「どうかなあ」と、大都市ロカルノンと、そこに住む住人をよく知っているフレッドは首を傾げて笑った。「もしかしたらせいぜいが、夏の別荘っていうところかもしれないよ」
「確かにね」ローラはこの話はこれで終わり、とばかり前へどんどん進んでいき、猛烈な勢いで草むしりの作業をもくもくと続けた。そして陽が暮れかかる頃には、山盛りの雑草を一箇所に集め、それを外にある焼却炉へと放りこんだのであった。
その時もフレッドは、ローラがいつも話の核心部分にきたところでうまくはぐらかしたように感じたし、その感じはいつも彼女につきまとっているものでもあった。とりあえず好意だけは持ってもらえているらしいとは感じるものの、生来彼はせっかちな性分であった。来年の春にローラの喪が明けてからなどと、悠長なことは彼には言ってられなかったのである。
フレッドはある時、堅い、動かしがたい決意を胸に、土曜日の午後、一張羅のダークスーツを着て、ローズ邸へとでかけていった。彼の黒い髪は綺麗に撫でつけられ、手には野で摘んだ、白い百合の花束が握られていた。
「ローラ、僕は<待つ>ということが苦手な人間だ。それに自分の気持ちを隠すのも下手だ。君が弟の妻であることはよく承知しているし、喪が明けもしないうちに何を常識のないことを言っているのかと思われても仕方ないと思う――でもローラ、僕は君を愛している。愛しているんだ、ローラ!」
フレッドは、丘の牧草地帯を突っ切ってローズ家のよく整えられた芝生を横切り、夏の花で満開の庭の小径をとおって、ローズ邸の正面玄関まできた。家のまわりをスイカズラがつたい、タチアオイやキンレンカ、ダリアやデイジー、松葉牡丹などが美しかった。白や黄色や赤の薔薇の花々の上を、ミツバチやシジミチョウなんかが舞っている――フレッドは庭を一渡り見まわして深呼吸すると、ローズ家の真鍮のノッカーを鳴らした。
が、いつまで待っても返事はない。いつもなら彼は、ローラやフレデリック、マーシーに用がある時は、裏の勝手口にまわる。正式のプロポーズの申し込みということで、柄にもなく正面玄関のノッカーを几帳面に鳴らしてしまったが、こうなったら勝手口にまわるしかない。もし留守にしていたら、台所の脇にあるソファにでも座って待たせてもらおう。
そしてフレッドは、裏の勝手口の網戸を開けようとした直前に、それまで彼が聞いたこともないような美しい、楽しげな笑い声でローラが笑っているのを聞いて、ふと足を止めた――誰か、お客がきているのだ。これはまずい。こんな、一張羅のスーツを着ているところを、村の誰かに見られでもしたら――そう。村の御意見番のチェスター夫人あたりに発見されでもしたら――自分は非常識人の烙印を押され、死ぬまで何かと噂の種にされることだろう。それだけはどうしても避けたいと思ったフレッドは、すかさず、ローズ家の台所の窓の下に、ささっと姿を隠した。
だが、ローラがあんなに楽しそうに美しい声で笑っている相手は誰だろうと気になったフレッドは、そこにそのまま蹲って、網戸や開いた窓から洩れ聞こえる声に耳を澄ませていた。
「じゃあ、ロカルノンからわざわざいらしたの?」
「ええ。これもボスの命令で――でも他の農村でも大体似たり寄ったりの扱いを受けましたよ。自分の夫や妻、あるいは家族に保険をかけるだなんて、相手が先に死ぬと決めてかかってるようで感じが悪いのでしょうね。村のほとんどの家を順番にまわったのですが、契約がとれたのはたったの二件だけです」
「まあ……それは大変ね。それはそうと、アップルパイをもうおひとついかが?それともしよろしかったら、今日はうちにお泊りになりません?それで明日、朝一番の汽車でお出になられたらいいじゃありませんか」
「わたしとしても、是非ともそうしたいのですが、今日の夕方にはどうしても発たなくてはならないのですよ。明日の朝九時までにはロカルノンの本社のほうに、出勤しなくてはなりませんので」
「そう……それはとても残念だわ。またロチェスターへお寄りになるようなことはあって?」
「また来月、集金と営業の仕事でやってくる予定です。それと、こちらに昔からの友人がひとりいるので、今度は宿屋でなく、彼の家に泊まろうと思ってるんですよ」
「まあ、そうなの。じゃあ是非またうちにもお寄りになってくださる?もしわたしがその生命保険に入れるといいのだけれど……でもきっともってフレディおじさんは反対なさると思うの。ごめんなさいね、お役に立てなくて」
「いえ、またいずれ伺いますよ。それにしてもこんなに美味しいアップルパイを食べたのは、生まれて初めてだ」
フレッドは、ふたりの会話を聞きながら、太い眉根を寄せて訝しんだ。ローラはこんなふうに、初対面の相手に対して心から打ち解けられるようなタイプの女ではない。相手がロカルノンからのうさんくさい生命保険の外交員ときた日にはなおさらだ。
――一体、どんな男なんだ?
フレッドは危険を犯して、そっと台所の小さな窓から、中のほうを覗きこんだ。男は自分と同じ濃紺のスーツを着た身なりのいい、長身の、金の髪をした男だった。だが背中を向けて座っているために、顔をはっきり見ることができない。ローラは戸棚からくるみの焼き菓子らしきものをとりだしている。フレッドはローラが戸棚から振り返ると同時、さっと窓の下に再び身をひそめた。
「じゃあ、本当に美味しいお茶を、ありがとうございました」
「いいのよ、気にしないで。それとよかったらこれ……汽車の中ででもお食べになって。あっ、それとこれも」
(げげっ、まずい)
フレッドはふたりが戸口のところにでてきたので、慌てて立ち上がり、後ろ手に白い百合の花束を隠した。
「あらフレッド。どうしたの?今日は村の農業組合の集まりがあるって……」
フレッドはウッウン、と不自然な咳ばらいをひとつしてから、背の高い男のほうをちらと見やり、ローラの質問を無視した――家にフレディおじさんがいないと思ったからこそ、こうしてプロポーズしにきたんじゃないか。
「ローラ、こちらの方は?」
「ああ、この方はロカルノンの保険会社の外交員で、アンソニー・レイノルズさんとおっしゃるの」
「アンソニー・レイノルズです。御用の際には、是非よろしくお願い致します」
男はどこか慇懃に挨拶すると、胸元のポケットから、一枚の名刺をとりだしている。
ホールデン生命保険?ああ、あのレインボースクエアガーデンの角にある、どっしりした赤茶色のレンガ造りの建物だな……と、彼はすぐ思いだした。とりあえず、身元はそれなりにしっかりしているようだ。
「それで、この家に一体どんな御用ですか?」
フレッドは、自分がこの家の主人であるかのように、苛々した調子で訊ねた。男はといえば、どこかおどけた調子で、軽く肩を竦めている――何か誤解なさっておいでのようだ、とでも言いたげに。
「レイノルズさんはただ、お仕事でいらっしゃったのよ。でもうちはわたしとフレディおじさんのふたりきりだし――せっかくきてくださったのに申し訳ないと思って、せめてお茶だけでもって思ったの。あちこちの家で邪険に扱われて、疲れきってらっしゃるようだったから」
「そうなんですよ。都市部では、今はもう生命保険に入ることなど当たり前といった風潮があるのですがね、やはりこうした田舎――いや失礼。農村部では、うさんくさい人間として追い払われることが多いものですから」
男は苦笑した――いかにも営業用スマイルといった感じだったが、なかなかの男前であるため、見る目のない人間ならころりと騙されてしまうだろう。ことに女性は。
「生命保険なんて……」フレッドは、どこの馬の骨とも知れぬ男を見るような冷たい目つきで、馬鹿にしたように言った。「君、知っているかい?彼女の夫君はつい先頃あった戦争で亡くなったのだよ。ではつまり何かね?自分の夫が戦地へ赴くような場合、その妻はみな夫の命に保険をかけるべきだと、君はそう言いたいのかね?」
「フレッド……つまらない言いがかりはよしてよ。アンソニーさんだって、お困りになられるわ」
「いや、いいんですよ」アンソニー・レイノルズは、胸元から金の懐中時計をとりだすと、時刻を確認して言った。「フレッドさん……でしたかな?保険金がおりるためには、まず亡くなった方の死亡証明書が必要になります。ただ、ああした戦争が今後起こった場合――当社では加入を御遠慮いただくことになるかと思います。何故なら、死んだと思っていた者が生きていたりしたケースが実際幾つかありましたからね。だからといって軍人を夫に持つ方が当社の保険を御利用できないわけではありませんが。ただその場合は戦闘地以外の場所で亡くなられた場合に限ります。何故ならその場合は政府から補償金が支給されることになっていますからね」
ふたりの男の間では何故か、本能的な火花のぶつかりあいがあり、ローラは狼狽したように、あたりに視線を彷徨わせた。そしてふと、フレッドが手に持つ白い百合が目に入ってきたのである。
「まあ、フレッド。もしかしてそれ、わたしに?」
花に弱いローラがぱっと顔を輝かせるのを見て、フレッドの表情も幾分やわらいだ。アンソニーもまた、冷たい一瞥をフレッドに投げかけ、その場を去ろうとした。
「それでは奥さま、またお目にかかれる日を楽しみにしております」
ローラは気づかなかったが、アンソニーはローラにもまた、軽蔑の視線を最後に投げてよこした。
(なんという女だろう。ついさっきまで俺のことをちやほやしていたかと思えば……この早い身の変わりよう。男からあんなしけた、そこらへんで摘んだような花をもらっただけでうっとりしやがって。ようするに、こういうわけだ。あの女は男なら誰でもいいんだ。夫を戦争で亡くして、心細い身になったから、早く再婚したくてたまらないんだろう)
アンソニーは牧草地を横ぎり、昨夜泊まった下宿屋へと向かいながら、ローラのこと――フラナガン夫人のことを考えた。下宿屋のおかみから馬車を借りて、それでクイーン駅までいく予定だった。たぶんその前に、あの斜視の黄色い顔をしたおかみが、何か食べさせてくれるに違いない。あまり、食事の内容については期待できないにせよ。
(あの人がくれた焼き菓子は、汽車の中ででも食べることにするか)
アンソニーはまだ温かいくるみの焼き菓子の包みを持ち直すと、思わず口許がゆるむのを感じた。彼女は自分が勝手口に立ってまだ一言も口を聞かないうちから――いやに親切な態度だった。
(「まあ、どうなさったの、あなた。早くお上がりになって」なんて、言わなかったっけ?)
にやにや笑いを浮かべたまま、アンソニーはローラの一挙手一投足を細かいところまで思い浮かべた。
「まあまあ、どうしましょう。ああ、そうだわ!」と言ってローラは手を打ち合わせながら言った。「今ちょうど、アップルパイが焼き上がるところですから、よかったらご一緒に召しあがりませんか?」
「それはどうも」
アンソニーははっと思いだしたように帽子をとると、ローラに勧められるがまま、台所の背の高い椅子に座った。ローラが昔の知友を歓迎するような態度であるのに対して、彼は面食らったというより――彼女の美しさにやや呆然となっていた。彼がこれまでまわってきた家の娘たちはみな――田舎の垢ぬけないイモ娘とまでは言わないが、アンソニーのように都会の洗練された女たちを見慣れた者の目には、やや物足りなく映る女性がほとんどだった。
それに彼は、これでロチェスターの最後の一軒だと思い、村中を歩きまわって疲れた足を励ましつつ、ローズ邸へと向かったこともあり――どうせここでも断られるに違いないとの思いを胸に――ローラのように美しい女性を見ただけで、それまでの疲れが一息に吹き飛ぶのを感じた。
「あの、俺……いや、わたしはロカルノンにある、ホールデン生命保険会社の者でして……」
アンソニーがいつもの闊達な弁舌もどこへやら、しどろもどろになって濃紺のスーツの懐から名刺をとりだすと、彼女は穴が開くのではないかというくらい、それを手にとってじっと眺めていた。けれどもある瞬間にハッとすると、「いけないっ!」と一言叫んで立ち上がり、オーブンから慌ててアップルパイを取りだしていた。その際に軽く天板に触れてしまったのだろう、「あつっ!」と手を引っこめている。
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫。気になさらないで」
思わずアンソニーがローラの後ろから心配気に彼女をのぞきこんだ時――ふたりの眼差しが出会った。そしてしばしの間、言葉もなく互いに見つめあい――アンソニーは思わず、この出会って間もない女性にキスしそうになっていた。
「あ、あのっ……」
流石にアンソニーのほうでも、ローラの体に手をまわしそうになったところでハッと我に返った。それで再び元の椅子のほうへすとんと腰かけ直し――ローラがアップルパイを切り分けたり、紅茶を淹れたりしてくれるのを、ただ静かに見守っていた。もはや彼にとっては商談のことなどどうでもよく、ただうっとりと、これまで自分にとってまったくといっていいほど縁のなかった家庭的な雰囲気に包まれて、しばしの間ぼうっとした。
鋳鉄製の料理用のストーブに、瀬戸物や銀器のしまいこまれた食器戸棚、後片付けが終わったばかりのテーブルの上には、焼きたてのアップルパイと紅茶、そして一輪挿しの花瓶には大輪の八重咲きの薔薇の花が快い芳香を放っている。自分には、こんなふうにおやつをふるまってくれる母親などいなかった……そうだ。孤児院ではいつも、粗末なとうもろこしパンとか、えんどう豆の蒸したのや、そんなものをまわりの子供たちと奪いあっていたのだっけ……。
アンソニーはローラの、慈しむような、優しいなんともいえない微笑みに見入ると、(この人は、なんという目で俺のことを見るのだろう)とそう思った。そしてそのせいかどうか、これまで誰にも話したことのないこと――自分が孤児院で育ったことや幼い頃両親を天然痘で亡くしたことなどを、いつの間にかローラに聞かれるがまま、話してしまっていた。
「とても大変な子供時代をお過ごしになったのね」と、ローラは同情的な眼差しで、悲しく呟くように言った。「わたし――わたしもね、小さい頃、両親がふたりとも結核にかかって死んだの。でもわたしの場合は、母の姉にあたる方がこうして引きとってくださったから、施設にはいかずにすんだんだけど……ごめんなさい。なんだかとても他人ごとだとは思えなくて……」
ローラの大きな蒼い瞳に涙が光るのを見て、アンソニーは突然、鳥肌の立つような恍惚感を何故か覚えた。そして自分のこれまでの人生がいかに嘘にまみれてきたかということまですっかり話してしまい、最後に後悔しながら、おずおずとローラのことを見上げていた。
「だから、その……今の会社に入る時にも俺は、経歴を偽って入社したんです。両親が幼い頃に天然痘で亡くなってから、ロカルノンの親戚に引きとられて育ったって……べつに孤児院育ちだっていうのが恥かしいわけじゃないけど、俺の人生はそれまでずっと職を転々として嘘にまみれていたから、その状態に慣れてしまってるんだ。今ではほんの小さなどうでもいいことにでもつい嘘をつく癖がついちまってる。保険の内容については嘘偽りないけどね――それでも、この舌が軽やかにぺらぺら動くことったら……まあそうする以外に生きる道はなかったんだから、こんなふうになっちまったんだろうけど……」
「御自分のことを、そんなふうにおっしゃってはいけないわ」ローラは感じ入った、熱心な眼差しでアンソニーのことを真っすぐに見つめている。「弁舌が立つというのは素晴らしいことだわ。それで人を騙したりするのはいけないかもしれないけど……保険に入っていたことで助かった人が、これまでに何人もいるはずですもの。この村のドーソンさんとこの立派な納屋が燃えた時――えっと、わたしもよくはわからないんだけど、何か保険に入ってたらしくて、結構なお金が入ったらしいのね。もしあれで保険に入ってなかったとしたら、下の子供の大学に入る入学資金がどうなっていたかって言ってらしたわ」
「つまり、あなたは――ローズさんは、生きていくために必要な嘘は仕方ないって言いたいんですか?」
「えっと、その……うまく言えないけど……そういう嘘はきっと、神さまも許してくださると思うの」
思わずアンソニーは大声で笑った。この人はなんて純真な、清らかな人なんだろう!この自分、アンソニー・レイノルズがこれまでに人についた嘘といったら!中には詐欺まがいのものや明らかにペテンとしか思えないものまであるというのに!しかも女性についた数々の甘い嘘ときた日には……。
「そんなに、簡単に人を信じるものじゃありませんよ、ローズさん」
アンソニーはローラの左薬指に光る銀の指輪をちらと盗み見ながら言った。正直、こういうパターンは初めてではない。相手が人妻であっても、色目を使われたことはこれまでにも何回となくある。ただ、こういう田舎の純粋なお嬢さんが相手というのは初めてだと思った。
「でもわたし――レイノルズさんと会った瞬間に、感じたんです。この人はきっと、信頼に足る人だって。こう見えてもわたし、人を見る目はあるほうですのよ」
アンソニーはそこで、アップルパイをもう一切れ勧められた。彼の幼い頃からの夢は――お腹がはちきれそうになるくらい、ケーキやパイをたくさん食べることであった!そして今でも甘いものに目のない彼は、遠慮なくすぐにぺろりとローラの作ったアップルパイをたいらげた。
(あれは、確かに本当にいい女だ)と、アンソニーは駅の舎内で汽車がくるのを待ちながら考えた。(こんな田舎にいるのがもったいないくらい、器量のほうは文句のつけようがないし、あの台所の落ち着いた雰囲気からいっても、毎朝美味しい料理をだしてくれそうだ。しかもあの瞳――まるで生まれてから一度も人を疑ったことがないような、美しい澄んだ瞳……あの男が何者なのかは知らないが、彼女が未亡人であると知ることができたのは幸いだった。来月またロチェスターを訪れた時には、孤児院で一緒だったユージンに、彼女がどんな人なのか、詳しく聞いてみることにしよう)
アンソニーはロカルノンいきの列車に乗ると、しばしローラのことは忘れた。そして契約をとった二件の家――ダニエル・ドーソンとケネス・ミラーと交わした契約書に不備がないかどうかをチェックし、これで月曜日に会社の上司にどやされなくてすむなと考えた。
それから暫くの間は、車窓の景色を眺めやりながら過ごし、久しぶりに会った幼友達のユージンのことを考え――彼はロカルノンの会計事務所で会計士をしていたが、ある時会社の金を横領し、そこの社長にその罪をすべて押しつけたのであった!――彼の提案した魅力的な計画に乗るべきかどうかと思案した。
(今のところ、生活はまあまあ順調だ。だがユージンの言うとおり、俺もこんなしがない生命保険会社の外交員で一生を終わる気はない。ただ都会の生活を捨てて、あんなど田舎に腰を落ち着けるっていうのがどうもなあ……)
その時、ふと空腹を覚えた彼は、ローラのくれたくるみの焼き菓子のことを思いだした。そして一口一口味わうようにゆっくりそれを食べながら――アンソニーは再び優美なエプロン姿のローラのことを考えた。もし彼女がこの自分、アンソニー・レイノルズのものになってくれるというのなら……あのど田舎で結婚式を挙げるのもそう悪いことではないかもしれないと、俄にそんな気がしてきた。