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第23章

 悲しい事件の幕引きのあと、ローラはしばらくの間、最初の夫の姉である、ジェシカとステイシーの元に身を寄せることになった。正確にはロカルノン市イーストストリート17丁目の110番地である。ロカルノンの名士たちの高級住宅地が立ち並ぶ一角に、自分の店を駅前通りに持つジェシカ・フラナガンと、街の医大付属病院に看護婦長として勤めるステイシー・フラナガンの瀟洒なアパートメントはあった。

 ふたりは広い間どりのその部屋を、共同で借りて暮らしており、費用はすべて家賃から食費、光熱費に至るまですべて――折半して暮らしていた。ふたりとも、並の男性などよりもずっと稼ぎがよかったので、今のところ姉妹の間に金銭的なトラブルは一度としてない――ただ時々ジェシカがお互いの間で決めたルールを破って、ステイシーが夜勤の時などに恋人を連れこんだことがわかった時だけ――激しい大喧嘩になることはあったが。

「我が最愛なる妹よ」そう芝居がかった調子で、ジェシカは人ごみでごったがえすロカルノン駅で、ローラのことを熱烈な抱擁とキスとで出迎えた――ステイシーは大学の講義の関係で、迎えにくることはできなかったが、夕食はともにできるだろうとのことだった。

 この義理の姉妹であるジェシカとローラは、結婚式以来一度も顔を合わせてはいなかったが、それでも互いにすぐ、魂が再びぴったりと惹きつけられるのを強く感じた――ジェシカは結婚式に出席した時と同じように男装しており、彼女の濃い赤毛の髪はばっさりと肩のところで切り落とされていた。ロチェスターのような田舎ではいまだに、女性の髪は長いほうがよいとされているが、人の頭だらけといってもいいロカルノンの駅前通りでは、それこそ男女を問わず様々にお洒落を楽しむ人々がごったがえしている。

 男性は老若問わず、大体スーツを無難に着こなしている場合が多いが、ただワイシャツにサスペンダー付きのズボンをはいているような青年でも――素敵な帽子をかぶっていたり、首に洒落たスカーフを巻いていたりする。そしてこれが女性になると、目もくらむようなファッション・コーディネイトとなる。様々なスタイルのドレスに帽子に春物のショール……ジェシカの話によると、ロチェスターと同じように旧来風のドレスに身を包んでいる人は大体、貴族や上流階級に属する人間が多く、もっとラフなスタイル――コルセットを使わず、最近新しくタイターニアのデザイナーによって考案された下着を身につけ、ブラウスにスカートを着ているような女性は、新興成金の娘か、労働者階級の人間である場合が多いのだそうだ。もっとも、旧来風などとはいっても、その服装はロチェスターの人間のものとは大分違い、洗練されていて、質も上質な素材の、大きく襞をとったようなものばかりではあったが。

 ローラはどうやって肩をぶつかりあわせないで通りを歩いたらいいのだろうというくらいの人ごみの中で、すぐ前をゆくジェシカの赤毛を目印にするかのように、煉瓦の敷かれた歩道を歩いていった。

 すぐ脇の舗装された道路では、辻馬車やら荷馬車やら自動車やらバスやらがひっきりなしにいきかい、よくこんな交通事情で事故にならないものだとローラは不思議になった。時々車や箱馬車の窓ごしに罵声やクラクションが飛びかってはいたが――「どこ見てやがんだ、この野郎!」、(ビッビー!)「てめえこそ顔に目がついてねえんじゃねえのか!そこの標識に左折禁止って書いてあるだろうが!このボケ!」

 駅前にはレストランや百貨店やパン屋、洋菓子店、花屋、書店、老舗の靴屋や帽子屋、洋品店などが並び――ちなみにジェシカの店もこの街の一番通りにある――また市長の邸宅や赤煉瓦造りの市役所なども、観光名所のひとつとして、この界隈にあった。

 ローラはただひたすら、物珍しさのあまり、右に左にきょろきょろ首をまわしながら、ジェシカの赤い髪を目印に歩いていたのであったが、ふとパーラーでパフェやアイスクリームを食べている着飾った御夫人や、煙草を吸いながら新聞や雑誌を広げている紳士の姿に見入っていると――たちどころに、ジェシカの姿を見失ってしまった!

「……ジェシカ!」

 ローラが叫んでも、都会の人間は誰も、ちらとも振り返りはしなかった。そしてそうしているうちにも人波に押され、ローラは途方に暮れて路地裏のほうに座りこんだ。ジェシカにも、見失いそうになったらすぐ名前を呼ぶように言われていたのに、つい――ロカルノンの街並みに見とれてしまって。以前ローラがここへやってきたのは、結婚衣裳の仮縫いのためにジェシカの店を訪ねた時であった。でもその時は――駅前からすぐに馬車を拾ったので、あまりじっくり街の様子を眺めているような余裕はなかったのだ。一緒にいたジョスリンもエリザベスも、鼻を鳴らして都会の人波と喧騒を軽蔑するのみであった。

「どうしよう。迷っちゃった……」ローラがずりおちた肩掛けを直しながら、青ざめて突っ立っていると、

「お姉さん、あたしはここよん」と、ジェシカのからかうような、いつもの陽気な声が後ろからした――年齢的なことでいえば、彼女のほうがローラよりずっと年上ではあったのだが。

「お腹すいたでしょ。ちょっとそこの通りのスタンドで、ホットドッグとハンバーガー買ってきちゃった」

「ホットドッグ?ハンバーガー?」

 ローラはそんな名前のものを食べるのは初めてであった――しかもこんな路地裏で、近道のために歩きながら、マナーなど何もなくかぶりつくだなんて――天国のエリザベス伯母が聞いたら、果たしてなんと言ったであろうか?

 だが半分ずつにして分けたホットドッグもハンバーガーもとても美味しく――ローラは少女の頃からエリザベスに教えこまれてきたとおり、都会がそんなに恐ろしいばかりのところとは、とても思えなくなってきた。むしろ、トミーやアンソニーがよく話していたとおり――チャンスの多い、わくわくするようなとても素敵な場所ではないかと、そんなふうにさえ思えてきたのであった。

「そうねえ。ここの通りをずっと向こうへいったところにはロカルノン劇場があるし――うちの比較的近いところには博物館や美術館、図書館なんかもあるわ。今度休みの時にでも、いきたいところがあったら案内してあげる」

「ありがとう、ジェシカ」

 ハンバーガーを包んだ包装紙をローラが食べ終わったあとにどうしたものかと手の中に握りしめていると――ジェシカは彼女の手からそれをとり、路地を抜けた先の、大きな公園の前にあった公共のゴミ箱へ、それを投げ捨てていた。

「ここの公園を突っきると、イーストストリートまではすぐそこよ。本当はバスに乗ってもよかったんだけどね、わたしよく路線を間違えちゃうもんだから」

 ジェシカはぺろりと舌をだしている。

「なんでかっていうとね、大体移動はわたしの場合、車が多いからなの。ステイシーは毎日大体決まった時間にバスに乗って出勤するから、あの子なら詳しいんだけど……ごめんなさいね、一度バスに乗ってみたかった?」

 ローラは首を左右に振った。先ほど街の大通りで見た紺色のバスの側面には、大きな二頭の、頭に王冠を戴いた金色のライオンが描かれていて――その絵をローラはなんて素晴らしいのだろうと思いはしたが、バスに乗るのは嫌であった。あんな大型の恐ろしい乗り物に乗って死ぬくらいなら――もっと別の方法で死んだほうがまだましだと思った。

 この時ローラの心の中には自殺願望に近い思いが暗い影のように潜んではいたが、それでもバスに乗って交通事故死というのは避けたいような気がした。そしてそこまで考えた時に――二番目の夫、アンソニーの死のことが思いだされた。

(そうだ。彼も、もしわたしが自動車を買ってもいいと言っていなかったら、あんな死に方をせずにすんだのに……)

 じんわりとローラの大きな蒼い瞳に涙が滲んでいるのをジェシカは垣間見たが、見なかったふりをして、広い公園の芝生の上を、頭の後ろで手を組みながら歩いていった。ヴィクトリア・パークは、恐ろしく広い公園で――至るところに花壇があり、大きな池や小さな池、また噴水があったりした。木陰のベンチで休んでいる婦人もいれば、おしゃべりに興じている人、水飲み場で走りまわる子供や、ステッキを片手に散歩している老紳士、犬を散歩させている人、ジョギングをする人などなど、たくさんの市民の憩いの場となっているようだった。

(ローラ……ローラ……)

 突然心に直接呼びかけられて、ローラは驚きとともに、もう一度あたりの景色をあらためて見返した。楡の樹や樫の樹、白樺の樹などが、春の風に葉をそよがせながら、しきりに語りかけてくる。

『嬉しい、ローラ。わたしたちの存在に、気づいてくれたんだね。こういう都会では、滅多にあんたのように話のできる人間に会うことはないんだよ――さあ、元気をおだし。わたしたちだって、こんな都会の片隅で、誰に顧みられることもなく、がんばって生きているのだからね』

 いつものローラなら――<彼ら>になにがしかの返事をしたことであろう。だが今の彼女は、ただ彼らに心の中で「ありがとう」と呟き、軽く手を振るのみであった。こんなところまできても、樹木や花の声が聴こえてくるだなんて――自分はひょっとしたら少し頭がおかしいのではないだろうか?

 ローラは実は、ロカルノンに精神の療養が目的でやってきたのであった。トミーの一番上の姉、メアリの夫のロジャー・ボールドウィンが、彼女に転地を勧めるとともに、少し自分の療養所へ通い、もし必要なら、彼がロカルノンの郊外に持っている保養地でゆっくり休んだほうがいいかもしれないと診断したためであった。あまりにも鬱状態のひどローラを心配したジョスリンが、普段は『気違い医者』と呼んで軽蔑している娘の婿のことを、結婚以来初めて当てにし、ロチェスターまで出張してローラのことを診てほしいと電話で泣きながら頼ったのであった。

 ジェシカもステイシーもロチェスターであった殺人事件のことは新聞の報道などでよく知っていた――ジョスリンにも、夫の死のことや、可愛がっていた雇い人の兄妹(実際にはこれが違ったわけだが)のことなどをあまり思いださせないようにと、電話の受話器を通してしつこいくらい念を押されている。

 ローラは快活に道を歩いていくジェシカにとぼとぼついていきながら、ほとんど話というものをしなかった。普段はおしゃべりなジェシカにもそれはべつに苦ではなかったし、ジェシカはローラのことを、彼女が一番末の弟のトミーと結婚した時から、本当の妹のように心に掛けてきたのであった。

(死んだ弟の未亡人でなかったら、恋人にしたいところだわ)

 ジェシカは自分の斜め後ろを歩く、自分より九つ年下の、いまだ少女のような顔立ちの、色白の義理の妹を時々ちらと見やった――まるで思春期の少年がよくそうするみたいに。

(まあ、気分の落ちこんでいる時につけこむなんて、なんにしてもいけないことよね)

 えんえん歩いてようやくヴィクトリア・パークを抜けると、そこは閑静な住宅街であった。通りにはパン屋や雑貨店、喫茶店などが並んでいるが、街の駅前通りとは違い、とても静かな印象である。歩道は石畳みでできており、舗装された道路のほうも、交通量はあまり多くはない。

 ステイシーとジェシカのアパートメントは、パン屋の裏手にあり――明るいクリーム色の、賃貸とはとても思えないような、瀟洒な建物であった。アーチ型の門を通りすぎて、緑色の階段をのぼり、茶色い木目のドアを開けると、真っ黒な猫のボビィが迎えてくれた。

「にゃあ」と人懐こくその猫は鳴き、早速とばかり、ローラの足元へすり寄っていっている。

「あらまあ、珍しいこと」ジェシカは首に銀の鈴のついた、碧い瞳のその猫を抱きあげた。

「こいつはね、あんまり人に懐かない奴なのよ。一度なんか、あたしの恋人がこの部屋に足を踏み入れた途端、すさまじい勢いでフーっと毛を逆立ててね、バリバリバリッ!と彼女の顔を引っ掻いちゃったの」

 彼女、と聞いてもローラは全然ピンときていない様子であった。ローラはたぶんジェシカが言い間違えたのだろうと思ったのだ。だがジェシカのほうでは、ローラは意外に進歩的なものの考え方の持ち主なのかもしれないと考えた――道端で売っているホットドッグやハンバーガーの存在すら知らなかったとしても。

「とても素敵なお部屋ね。しかもここって、電気が通っているんでしょう?」

「モチのロンよ」と、ジェシカは嫌がるボビィをおろしながら答えた。彼はプイと飼い主から顔を背けると、すたすた歩いて玄関の猫専用の出入口から出ていっている。

「素晴らしいんでしょうね、電気って。でもとてもお金がかかるんでしょう?」

「んー……どうかしら?」このままいくと、蛇口をひねっただけで水がでるのを見た日にはどうなるかしら?と、ジェシカは心の中で少年のような悪戯心が騒ぐのを感じた。

「まあ、田舎みたいに電気のかわりにランプ、水道のかわりに井戸水っていうのとどっちがいいかっていうのは、ちょっとばかり疑問だわね。けどまあ、一度この便利な生活をお金を代償に経験してしまうと、田舎へ帰ろうっていう気には、あまりなれないわねえ」

「やっぱり、そうなんでしょうね」

 ローラは哀しげに呟いた。せっかく少しずつ会話が盛り上がりつつあったのに、ローラはまたも重く沈みこんでしまったようだった。

(あたし、なんかまずいこと言っちゃったかしら?)

 ジェシカの心配をよそに、ローラは広いフローリングの床の上を歩いて、窓辺へいった。情緒のある煉瓦造りの家並みの向こうに、教会の尖塔が見える。そしてそこの教会の鐘が、三時という時刻を告げ報せようとしていた。

「ああ、あれね。聖アナスタシア教会よ」

 ローラの視線を辿って、ジェシカはそう答えた。

「えっとそういえばローラ、あなたやっぱり日曜日は教会へいくのよね?あたしやステイシーはあんまり……というかほとんどいかなかったりするんだけど、長老教会派の教会はここからちょっと遠いのよねえ」

「べつに、気にしないでジェシカ」

 ローラは弱々しく微笑んだ。ロチェスターのような小さな村で、日曜日に教会へいかないような不信心者は――即刻村社会から締めだされても仕方ないくらいであったが、今生まれて初めてローラは、神という存在に挑戦したいような気持ちになっていた。これまでずっと、ローラはよほどのことでもなければ、礼拝を欠席したことなどないし、祈祷会にも欠かさず参加し、バザーがあれば骨折ってパッチワークのベッドカバーを作ったりと、これまで奉仕の道に邁進してきたつもりであった。それがいまやどうであろう、その神からの返礼がこのひどい状態であるというのなら――日曜礼拝へなど、参加するだけ無駄というものではないか?

 そしてそんなことよりも、とローラは考えた。もしトミーが生きていたら、自分はここロカルノンにいたのかもしれないのだわ。そして電気のある便利な生活を送っていたのかもしれない。アンソニーにしてもそう……彼は口にださないまでも、いつも都会の暮らしを恋しがっていた。彼はユージンともよくこう話していたものだ――この田舎からロカルノンが、せめて車で二時間くらいの距離だったらなあ、と。

 ローズ農場は今、マックおじいさんとマーシー、それとジョサイアに完全にまかせきりの状態だ。これから春は庭や果樹園が花盛りとなり、その景色に比べたら都会など――とそれまでローラは考えていたが、こうして都会の景色を実際に眺めて見ると、そう悪くもないような気がした。どこもたぶん、住めば都ということなのだろう。

(農場だって――なんとかしようと思えば、結構なんとかなるものなんだわ。わたしはあそこから離れるわけにはいかないと、盲信的なまでにずっと信じていたけど、マーシーはもうすっかり一人前の農夫だし――彼とマイクおじいさん、ジョサイアおじさんには、今年の収穫のお金を、三人で分けてもらわなくちゃ……)

 ローラは首を振ると、植えつけの仕事はどのくらい進んだかしらとか、林檎の花の間引き作業は……などと農作業にまつわることを頭の中から振り捨てることにした。今はもう、何も考えるまい。ただ高名なトミーの一番上の姉の夫、ロジャー・ボールドウィンの療養所へ通い、アンソニーの生命保険の手続きをし、それから銀行員のフランク・メイヤーに、資産の運用と管理のことで、一度相談へいかなくちゃね……と、ローラは事務的なことを、機械のように味気なく、頭の隅で考えた。

 アンソニーは、ホールデン生命保険会社に入社して以来、自分に対して保険金をずっとかけていたのであった。最初、その保険金の受取人はジョン・シモンズで、結婚後はローラに、名義が変更になっていたのだ。

(三万ドル……ああ、アンソニー。もしそのお金を払うことで、あなたが戻ってくるのなら……わたしは喜んでそのお金を天に支払うでしょうよ。あなたが部品に欠陥のある車に乗っていたというので――そのことを新聞の公告で知らなかったのかと、しつこいくらいさんざん、保険の調査員には聞かれたわ。ずっと前に、部品の無料交換と修理をするフォード社の公告が大きくでていたんですってね……なんでも、あなたが車を買ってすぐくらいの話だったらしいけど。欠陥車だと知っていながら乗りまわすような、そんな恐ろしい真似、あなたがするはずがないって言ったら、しぶしぶ納得して帰っていったわ……すごく嫌な男でね、わたしが未亡人だからって、足元を見ていたみたい)

 ローラはこんなふうにして、ところかまわず、いつでもどこでも、アンソニーだけでなく、トミーとも、心の中で語りあう時間が増えていった。

 ボールドウィン博士は、ローラに転地療養を勧めたが、ロカルノンが彼女にとってトミーやアンソニーが生きていたらとか、彼らがこの街のここの通りを歩いたかもしれないとか、そのように常に死者との思い出と密接に結びついているのを治療の過程で見てとると、やはり郊外の保養地へいってはどうかということになった。

 そう博士によって最終的に決断が下されるまで、ローラは週に二回、三か月の間、彼の治療施設のあるドクター・ストリートの外れへと通ったわけだが、その頃にはすっかり――ジェシカもステイシーも、ローラのいない生活など考えられなくなっていた。ローラは居候させてもらっているせめてものお礼にと、掃除や洗濯などの家事を喜んでこなし――中央通りのレストランのシェフもびっくりの、美味しい料理を朝晩支度してくれていたからである。

「ローラ、本当にいっちゃうの?」

 三人揃って居間の大きなテーブルで食事をしていると、ジェシカが今にも泣きだしそうな、切ない眼差しで向かいの席のローラのほうを見た。そんな姉のことを、隣のステイシーが肘で軽く小突く。

「ロジャーが言っていたじゃないの。ロカルノンはローラにとって、あるひとつの――あるいはふたつだけど――過去の可能性を示唆する、よくない影響を与える都市だって。つまり、トミーの言っていたとおり、ローラが片意地を張らずにローズ家の農場を捨て、トミーとロカルノンで暮らしていたら――弟はきっと、戦争へなどいかなかったでしょう。そして戦争へいくことがなければ、死ぬことも……」

「ステイシー!」

 なんてことを言うの、というように、ジェシカの緑色の目が大きく見開かれた。それ以上言ったらフォークで刺し殺す、とでも言いたげな、恐ろしい表情であった。普段この姉妹は、しっかり者のステイシーが姉のようで、何かとそそっかしいジェシカが、妹であるかのような役割なのだが。

「いいのよ、ジェシカ。ステイシーの言うとおりだもの」

 ボールドウィン博士との治療――というか対話――を通して、ローラの中ではあるひとつのことが明白になりつつあった。それはもしもという可能性に精神が縛りつけられるのであれば、勇気をだしてそれを徹底的に追求してみる、ということだった。

「そうね。でも結局トミーは……友達のカーティスさんやフィリップさんと同じように、戦争へいったかもしれないとも思うの。それとアンソニーのことも……わたしが彼に車を買う許可をだしてしまったが故に彼は死んだんだってずっとそう思ってたけど……ボールドウィン博士の指摘していたとおり、車を買わなかったら買わなかったで、もっとひどいことになっていたかもしれないとも思うの。なんていうか、その……車を乗りまわすことがアンソニーにとっては、一番の気晴らしだったみたいなところがあるから、もしそれがなかったら……しょっちゅう夫婦で喧嘩ばかりしていたかもしれないって、そう思って……」

 ローラはフォークでパスタをからめていたが、かしゃん、と音を立ててそれが床に落ちた。夕食は、ローラが料理の本を見ながら作ったホワイトソースの野菜パスタにオニオンスープ、それにパンとローストチキン、とうもろこしとえんどう豆のサラダ、アイスクリームのデザートなどであった。

「泣かないで、ローラ」

 ジェシカは立ち上がると、不意にすすり泣きはじめたローラのことを抱きしめた。ステイシーは床のフォークを拾って流しに下げると、新しいのを食器戸棚の引きだしからとりだしている。

「ごめんなさい、わたし……こんなつもりじゃなかったのに……」

 ローラは自分で作った食事にほとんど手をつけることもなく、すぐに客室のほうへとひとり引きこもった。ジェシカとステイシーのアパートメントには居間を含めて全部で七部屋あり――そのうちの客間のひとつをローラは使わせてもらっているのだった。

「あーあ、あんたが悪いのよ。あんなにはっきり本当のことを言うから」

 ジェシカはせっかく美味しい料理なのに、とがっかりしながら、とうもろこしとえんどう豆をスプーンで掬って食べた。するとなんとなく、これにチーズとワインを一緒にして食べたいような気分になり――硝子張りのキャビネットからグラスとワインをとりだした。

「あんたも飲む?」

「ええ、お願い」

 ステイシーは疲れたように前髪をかき上げた。べつにトミーのことでローラのことを責めるつもりはまったくない。ただ、ロジャーの治療が進む過程で、ある程度論理的に物事が言語化され――トミーのことは彼女の記憶の中ですでに過去のことになっているのではないかと思っていたのだ。むしろローラの心の傷は夫のアンソニーの交通事故死とあの忌わしい殺人事件にまつわることが主な原因なのではないかと。けれどもそうではなく――そもそもこのアンソニーという二番目の夫は、ジョスリンの話によれば、顔がトミーにそっくりだということだから――すべてはローラの心の中で繋がっているのだと、ステイシーは自分の失言を後悔した。

「あの子って、とてもいい娘だと思わない?」姉妹でワインのグラスを傾けながら食事を続けつつ、ジェシカは溜息を着いた。「トミーなんかのどこがよかったのかよくわかんないけど、トミーはきっと幸せだったんじゃないの?短い間でも最愛の女性と結婚生活を送れて……」

「そうね。トミーも死に際に似たようなことを言ってたから、そうだったんだろうけど……ねえ、姉さん知ってる?ローラの二番目の旦那さんのアンソニーっていう人、トミーに顔や背格好がそっくりだったんですって。それでローラは再婚を決めたっていう話よ」

「そっくりったって……」ジェシカはジョスリンが送ってくれた、フラナガン農場特製のチーズを摘みながら笑った。「いくらなんでも双子みたいにそっくりってことはなかったんじゃないの?たとえば目元が似てるとか、まあ後ろから見たら体つきが同じような感じとか……そんな馬鹿みたいにそっくりってこと、あるもんかしらねえ?母さんは昔から話を少し大袈裟にするきらいがあるから」

「でも母さん、そのアンソニーっていう人を初めて見た時、トミーの亡霊が甦ってきたかと思ったそうよ。ローラが彼と結婚する時も、ちょっとした噂になったそうだし……母さんの話によれば、そういうせいもあってレイノルズさんはローラに対してとても独占欲が強かったんですって。彼女が村の集まりやパーティなんかで彼以外の人とちょっと喋っただけでも――すぐにつむじを曲げたり、機嫌が悪くなったりして、ローラも焼きもち焼きの亭主を持って大変だっただろうけど、トミーといいアンソニーといい、あの手の顔立ちの男は若死にする運命にあるんだろうかって、嘆いていたもの」

「そう……」ジェシカは食事の手をとめると、しばし思案に耽った。「じゃあローラは、トミーをふたり、というより二回亡くしてるともいえるわけよね?もしそのレイノルズっていう人が母さんの言うとおりそんなにトミーに似ているとしたら。この世には似た顔の人間が三人いるって話だけど、まさかねえ、その三人目の男を探して見つけるってわけにもいかないし……」

「容姿じゃなく、性格っていう点ではね、あの殺人事件の犯人だったシオン人のヨシュアっていう男の子、トミーに似てたらしいわよ。絵を描くのがうまくて、真面目で繊細で……女の子にもとてもよくもてたそうなの。でも彼はローラのことを崇拝していたんですって。ローラは彼のことを弟みたいに物凄くよく可愛がってたって、母さんはそう言ってたわね」

 ここまでくると、ジェシカは不意にじっと妹の卵型をした小さな顔を見つめた――十人いた兄妹の中で、ステイシーは顔立ちがどことなく一番トミーによく似ていたためだ。

「ようするにあんたは、こう言いたいわけね?ローラは弟によく似た夫を亡くしてとても傷ついているし、その上シオン人の殺人事件にも巻きこまれて――精神がいまだ混乱の極致にあると。だから心身の保養のために、速やかに快く彼女を気違い医者のロジャーの保養地へ送りだしてやれってことを、このあたしに言いたいわけね?」

「そういうことよ」いつもは鈍い姉が、珍しく鋭く勘づいたことに、ステイシーはほっと胸を撫でおろした。「ローラを姉さんの着せ替え人形にさせるわけにはいかないもの」

「着せ替え人形って何よ!一体いつこのあたしが――」と、ジェシカは思わずいつもの癇癪玉を破裂させそうになったが、大きな声をだすとローラの部屋にまで聞こえるかもしれないと思い、再び椅子の上にゆっくり、腰を落ち着けた。

「このままここにいたら、いずれそうなるでしょっていう話をあたしはしてるだけよ。姉さんは自分好みの女の子が現れると、すぐにそれなんだから」

「それって何よ。変な指示代名詞使わないでほしいわね。あんたなんか、看護婦のくせに」

「看護婦だから言ってるんでしょ。ローラの精神的な健康を気遣って。姉さんはどう考えてるのか知らないけど――ローラはこれまでトミーも含めて何人もの男性のプロポーズを断ってるらしいわよ。トミーに対してだって求められて求められて、それでようやくはいって言ったくらいなんだから。その上姉さんが自分は同性愛者で、ローラのことを愛しているなんて言ってごらんなさいよ。優しい彼女のことだから、女同士の友情のもっとも美しい形だとか勘違いして、間違ってうんって頷いてしまうかもしれないじゃないの」

「それのどこがいけないのよ」ジェシカはふてくされたように、ローストチキンにフォークをぐさっと突き刺して、骨と肉とを切り分けている。「あんたなんか、ろくに男とつきあったこともないくせに。死ぬまでくだらない貞潔とかいうものを守って、婆さんになるつもりなんじゃないでしょうね?人の心配してる暇があったら、もっと自分のことでも考えたらどう?」

 ……この時、もしローラが居間に姿を現さなかったとしたら、姉妹の間の雰囲気はかなり険悪なものになっていたであろう。ローラは立ち聞きするつもりではなかったのだが、ジェシカが一度声を荒げた時に、もしかしたら自分のことが原因で喧嘩になっているのかもしれないと思い、廊下へでて、ふたりの様子を窺っていたのであった。

「あの、わたし……明日ロンシュタットの保養地へいってみようと思うの。博士はとてもいいところだって言ってたけど、とりあえず下見をしにいって……それで気にいったら、向こうで少し療養しようと思うの。ふたりにはこの三か月の間、本当の妹みたいに大切にしていただいて、とても感謝しています」

 ローラがふたりの前で小さく頭を下げると、ジェシカはいつもの熱情にかられて、彼女のことを抱きしめたくなった。だが隣のステイシーが姉の太腿をテーブルの下でぎゅっとつねって、それを押し留めたのだった。

「ええ、きっとそれがいいわ、ローラ」と、ステイシーは涼しい顔をしてにっこりと笑った。「ロンシュタットはとてもいいところよ――療養施設はね、昔の貴族のお屋敷に少し手を入れたもので、部屋は百室以上もあるの。森の中には散歩のコースが整ってるし、道を歩いてると、リスが時々顔をだすわ。湖にはアヒルやカモやカイツブリなんかがいてね――秋には白鳥が何十羽も飛来するのよ」

 ステイシーのその話に、ローラの瞳は瞬時にして輝いた。ヴィクトリア・パークにはしょっちゅう散歩をしにいってはいたけれど、あそこではカルダンの森でのように、道端でリスと会うなんていうことはまずない。それに湖――ローラは今、湖よりも海の潮の香りに飢えていたが、せめて湖でもいいと思った。光り輝く湖面を目にして、せめてもの心の慰めにしたい。

 そしてジェシカは、ローラの瞳が生気をとり戻したかのように目の青さが濃くなっているのに気づくと、それ以上何か反対するという気持ちにはなれなかった。今つきあっているモデルのサマンサには、そろそろ飽きがきているのだけれど――ステイシーの言うとおり、ローラをこれ以上混乱の渦に巻きこんだりしたら、彼女の精神衛生上よくないのは明らかだったし、もっとひどい心の病いにかかるかもわからなかった。

 けれども芸術家としてのジェシカの目が本物であったことについてだけは、彼女を弁護、あるいは賞賛してもいいかもしれない。ローラは芸術家と呼ばれる人間にとっては、生まれながらのミューズであったといっていい。ローラ自身にその自覚はないが、彼女がただそこにいるというだけで、おそらく才能のある人間は、多くの詩の言葉がローラの内側から流れてくることに気づいたであろう。結局のところ、多くの男なり女なりが彼女に惹かれる理由はそのせいだったのであるが、詩情というものをまるで解さない人間にとっては、それがはっきりなんであるのかがわからず、彼女に直接触れたり話をしたりして、その正体を確かめたくなるのだろう。ローラの最初の夫トミーは、そのことについてかなり自覚的であったが、二度目の夫のアンソニーは、ついに死ぬまで妻のそうした性質を理解しないままであった。しかし、だからといってアンソニーがトミー以上にローラを愛していなかったというわけではない。アンソニーは彼なりのやり方によってローラのことを深く愛したし、いってみれば、保険金の三万ドルが彼女の手に渡ったのも、目に見える形での、彼なりの愛の証ということができたかもしれない。トミーの行動の基準が常に目に見えない詩情や美を愛する心などであったとしたら、アンソニーの行動の基準は常に、目に見える金であった。彼はいちいち詩情などというものを感じながら、畑の植えつけや収穫などの作業をしたりしないし、アンソニーにとっては何より、小麦やとうもろこし、大豆などが一ブッシェルにつき市場の価格でいくらになるのかが重要であった――こんなふうに、ふたりの男は容姿は似ていても、まるで違う別の人間だったが、ふたりとも同じようにローラを深く愛し、ローラもまたふたりの夫を、同じくらい強く愛したのだった。

 だが今ローラの心には、その愛情を注ぐ対象が何もなかった。それまで心の器の中には愛が満ち満ちていたのに――今はそれが全部空になってしまったのだ。しかし、ローラはロンシュタットの保養地へやってきてみて――再び永遠に死ぬことのない無償の愛の喜びに酔いしれることができた。そこでローラはもう一度自然の精であるルベドと深い交わりを持ち、人間はいつか必ず死ぬが、彼は永遠に死ぬことはないのだと思い――今度こそ絶対に自分の愛が彼から人間の男などには移らないであろうと確信し、あらためて新しい愛の誓いを立てた。

 そして最終的に――かの有名な精神科医のロジャー・ボールドウィン医学博士はどう思ったにせよ――ローラが立ち直ったのは、ルベドの愛のためであった。ローラはボールドウィン医師とはもっぱら、あの忌わしい殺人事件のことや、夫が突然亡くなったことに対する言い表しようのない喪失感などについて、診療室で話しあっていたが、自然の声が聴こえるのは幻聴であろうかとは、一度も口にだして言うことはなかった。ローラは施設内で、ほんの軽い精神安定剤なるものを服用していたが、幻聴が聞こえるということになると、別の違う薬まで処方されることになるのではないかと恐れたのである。それとその昔ルベドと交わした約束のこともあったので――彼の名前を他の誰にも決して打ち明けてはならないとの――ローラは自然の精との対話のことは、やはり自分だけの心の秘密にしておこうと決心したのであった。

 やがて秋になり、湖に白鳥が越冬のためにやってくると、ローラは白鳥の群れが鳴く声の中に、ルベドが直接心に語りかけるのをはっきりと耳にした。

『そろそろ帰っておいで、ローラ。ここは君の属すべき土地ではない。僕にしてみたところで、ここでは古い友人の家にお邪魔しているようなものだからね――冬がくる前には、自分の森へ戻らなくてはいけないんだ。今年は僕が留守にしていたせいで、あの土地は荒れ放題だよ。君も帰ればきっと、よくわかるに違いないが』

 まるで神のお告げでも聴いたかのように、ローラはすぐにボールドウィン医師から施設をでるための許可をとると、その日のうちに荷物をまとめて、翌日にはロンシュタットの静養所をあとにした。今年は刈り入れ前に雹が降り、小麦の穂をみんな駄目にしたとは、マーシーからの手紙で知っていた。それから林檎も嵐でそのほとんどが地面に落ちてしまい、傷物が多いとも――だがローラは、自分がロチェスターから遠く離れた土地へやってきたから、そのように収穫の実りが少なかったのだなどとは少しも考えなかった。でもルベドのあの一言で、自分がいかにあの場所にとって必要な人間かがよくわかったのだ。マーシーも手紙によく、ローラの作ったアップルパイや苺のクリームパイが食べたいと書いてきていたではないか。そうなのだ――自分は確かにあの土地に根ざした人間なのだ。ロカルノンに住もうとロチェスターに住もうとどちらでも変わりがないだなどとはとんでもない!

 こうしてローラは、汽車が出発するのを待つ時間さえももどかしく思いながら、ロカルノン駅まで見送りにきてくれたジェシカとステイシーと手を振って別れ、一路懐かしの故郷へと胸を高鳴らせながら向かったのであった。






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