第21章
エステル=ヴァン=ダイクこと、ダッチェス=ヴァン=ダイク公爵令嬢殺害事件の捜査は、思った以上に難航した。犯人としてもっとも怪しいと思われる人物はヨシュアであったが、彼の行方はようとして知れなかったし、何より犯行の決め手となる物証にも乏しかった。
サイモンとキースはヨシュアがローズ家の猟銃を盗んだものとして捜索していたが、銃は沼にでも捨てられてしまえば、もはやそれが誰のものかは特定が難しいだろうし、その他にも不明な点はいくつもあった。もし毎週土曜日の夕方にクイーン駅へ降り立ったのが変装したエステルだったとしたら――おそらく彼女は赤毛の鬘をかぶっていたのであろう。果たしてその鬘はどこへいったのか?また彼女が身に着けていたであろう衣服や、その他の所持品なども始末する必要があるだろう。第一死体は全裸だったのだ――よもや三十七年前にロレイン・ウィルバーが亡くなった時のように、通り魔の犯行ではないかと、捜査報告書に書くわけにもいかない。
ふたりはとにかくひたすら聞きこみ捜査を行なったが、小さな村にありがちなことに、みな一様に口が堅く、あまり話をしたがらなかった。スチュワート家の病弱なバーバラなどは、収穫祭に出席しなかった人間がもっとも怪しいとの噂話を聞いて――ー週間床からでてこれなかったほどであった。収穫祭へは村人のほとんどが出席しており、出られなかったのはパーティへいく直前に偏頭痛のはじまったバーバラ・スチュワートと、家に寝たきりの老人及び、その介護にあたっている人間くらいのものであった。あとは大酒飲みのジェンキンズと――彼は禁酒法を推進しているブルックナー議員がスピーチをするというので、あえて欠席したのであった――ユージン・メルヴィル、人間嫌いのマイク・マコーマック、白痴のノエル・ガードナー、はしかで寝こんでいたダラス家の一番下の娘くらいのものではなかっただろうか。
収穫祭は毎年村人全員が総出で祝うお祭りである。この村を上げての祭りに出席しないだなんて、よほど加減の悪い人間か、村のはみだし者、あるいはつむじ曲がりのいずれかだけなのだ。だがサイモンはかつてヨシュアが――今では彼が容疑者だが――ユージンが収穫祭のパーティの途中で抜けだしたのを見たと証言したように、何もパーティの間に犯行が行なわれたとは限らないと考えていた。エステルを殺したあとで、何食わぬ顔をしてパーティーに出席することも可能ではないか?ただ――村人のうちの誰にも動機がなかった。あるとしたらマーシーくらいのものだったが――こちらもいわゆる痴情のもつれというやつだが――彼のひどい悲しみようを見ていると、根が単純で小心な彼が、そんな恐ろしいことをしたとはとてもサイモンには思えなかった。
ロチェスター村の人間はみな、実直で勤勉、そして働き者だった。もちろん全員が全員そうだというわけではないが――酔っては女房に暴力を働くという噂のマイケル・ダラスや、いまだに独身で働いたり働かなかったりの、大酒飲みのサム・ジェンキンズ、賭け事が大好きで、ロカルノンにある賭博場や草競馬場に通うのをやめられないジェームズ・ブレア……などなど、当然クリスチャンの鏡と呼べるような人間ばかりというわけではない。それでも聖書の第三戒、汝殺すなかれを破ることのできるようなものはまずひとりもいないといっていい。みな、根が善良なのだ。
サイモンも長い刑事生活の中で、まさかこの御婦人が、あるいはこの紳士がという人物を犯人として挙げたことは何度もあったが、ロカルノンのような大都市と、ロチェスターのような地方の農村では、そもそも人々を形成するモラルの質のようなものからして違う。
当然、都市に住む人間のほうが犯罪に染まりやすいし、ロチェスターのようにのどかな農村では、犯罪を犯してたくてもそう大したことはできないという部分がある。そしてそうした環境下で長く育成されてきた土壌を持つ人間が、殺人を犯すとなると――それはよほどの事情があってのことに違いないと推察せざるをえない。
過去にロチェスターで起こった事件を調べてみても、最近ようやくローズ家で収穫金の三千ドルが盗まれるという、事件らしい事件が起こったという程度である。あとはマイケルとサイレスが猟銃を持って狩りにいこうとしていた時――些細なことから口論となってあやうくマイケルがサイレスを猟銃で打ち殺しそうになったというのが、唯一あった殺人未遂事件といったところだ(マイケルは激情のあまり、サイレスの右肩を銃で打ち抜いていた)。
サイモンは村役場と郵便局の並ぶ村の大通りにある小さな警察署内で、灰色の事務机に向かって気難しそうな顔をしながら、頬杖をついていた。向かい側の取り調べ用の机と椅子には、キースが考え深そうな顔をして腰かけている――彼もまた村で過去にあった事件とも呼べないような小さな事件のファイルなどに目を通して、ますます不可解な思いに悩まされていた。
キースは、鬼刑事として有名だったサイモン・ガートラーと殺人事件の捜査ができるというので、一も二もなくロカルノンの捜査班を離れ、ロチェスターに残ることを希望したのであったが、なかなか捜査が進展しないことに苛立ちを覚えていた。彼の予想では――村中の人間をとにかくしつこく調べあげれば、必ずすぐにホシは挙がるだろうと思っていたのだが、被害者と接点のある者があまりにも少なすぎた。
犯人としてもっとも疑わしいのは、目下行方不明中のヨシュアだが、彼が間違いなく犯人であると仮定して推理を展開すると――いくつか不可解な点がでてくる。まず、エステル=ヴァン=ダイクが聖マグノリア女学院に入学して以来、毎週末ロチェスターへ戻ってきていたとなると、何故彼女はわざわざ変装までしなくてはならなかったのか?しかも彼女にとって兄にも等しい、あるいは兄以上の存在でもあるヨシュアに会うのに、果たして人目を忍ぶ必要などあったのだろうか?さらに、第三点――ここがもっとも重要な点だ。ヨシュアは今年の九月と十月の週末、エステルが帰郷している間、一体どこで何をしていたのか?
キースはこの点を最重視して、ブルドッグのようにしつこいくらい、聞きこみ捜査をしていた。その結果、彼は大体土曜日の夕食はローズ邸かフラナガン家で御馳走になっていることが多いし――マーシーと一緒に、そのまま夜の九時くらいまで過ごしていたことも何度かあることがわかった。それ以外はマコーマックの自宅にいたことになるわけだが、あの家の主――マイク・マコーマックの話しぶりからいって、キースは彼が真実を話していると直感していた。
「ヨシュアがエステルを殺したかどうかは別としてもね」と、白い羊毛のような顎髭をはやした、腰のやや曲がった翁は、薪割りをしながら言った。「あれが土曜の夜も日曜もそのほとんどをうちで過ごしているのは間違いありませんよ、刑事さん。それでもし週末ごとにヨシュアがエステルと会ってたにしても――わしらに一体なにを隠しだてすることがあるというんです?それこそおかしな話じゃありませんかね、刑事さん。あのふたりが恋仲で、こっそり人目を忍んで会っていたというのなら、わしにしろマーシーにしろ、間違いなく気づいたでしょうよ。ところで刑事さん――あんたは女に本気で惚れこんだという経験をお持ちですかね?」
三十六歳にしていまだ独身のキースは、日に焼けた顔を微かに赤らめた。短く刈り込まれた黒い髪に、同じ色の瞳――大学時代にフットボール部にいた彼は、身長が六フィート近くあり、肩幅もがっちりとしている。だが彼は女性に奥手なタイプであったので、仕事が忙しかったせいもあり、これまで恋愛らしいような恋愛は、一度もしたことがなかった。
「ほっほっほっ。こんな老いぼれに隠しだてすることはありませんぞ。正直に言いなされ、お若いの。まあ、あんたの女性経験が多かろうと少なかろうと、どちらにしても――あんたもおそらく一度くらいは会ったことがあるに違いない。ファムファタールという種類の女に」
「はあ、それはわかるような気がします」
と、キースはぼりぼり頭をかいて、スーツのネクタイを緩めた。彼はパーティで何度か会ったことのあるロカルノン社交界の花形――キャロライン・フォードのことを目蓋に思い浮かべた。輝くように波打つ金の髪に、大理石のようなきめの細かい白い肌、彼女の広い額の下の、わすれな草色の瞳に、さくらんぼ色をした唇……キースはたぶん、彼女のことを一度でもこの胸にかき抱くことが許されたなら、悪魔にだって魂を売ったかもしれないと思うのだった。
「わしもな――この年になるまで一度も結婚せなんだが、生涯にただ一度だけ、愛した女がおりましたわい。じゃがその女が、ある邪魔な人間を殺せというので、恐ろしくなって――逃げだしたのですよ。そうさのう……あの女にはどこか、エステルと似たところがありましたわい。またわしは三十七年前に亡くなった、あの気の毒なロレインの生きていた頃を知っとりますが、彼女もまた性格に二面性のあるところなど、エステルとそっくりでしたよ。自分よりも身分が下の者につらくあたることといったら……まるで馬に鞭でもくれてやるようでしたからね」
「つまり、どういうことですか?エステルさんは聖マグノリア女学院では非常に素行もよく、成績も抜きんでていたという話だったのですが……そうした仮面の下に隠された本性があったとでも?」
マイクは斧の最後の一振りを打ちおろして、薪割りを終えると、それを薪小屋に積んで、肩にまわしたタオルで額をふいた。彼は切り株に腰かけると、生け垣のそばに立っている肌の浅黒い大男の刑事を見上げたが、キースのほうからは、彼の落ち窪んだ青い瞳の表情は、もじゃもじゃの白い眉毛に隠れて、よく見えなかった。
「ようするにわしが言いたいことはですな、刑事さん。女っていうのは、そういう計り知れないところを持った生きものだということですよ――エステルはまだほんの十六歳の小娘ではあったかもしれないが、何しろあの美貌ですからな。わしが年甲斐もなく色気をだして、暴れられたので殺したとしてもおかしくないということなんですよ。あんたがもしうちのマーシーを疑うとしたら、先にわしのことを捕まえてもらいたいもんだね。そのくらいあの子がエステルを殺すっちゅうことは、ありえない話なのでな」
先ほどまでは穏やかだった老人が、今は手にした斧で自分を殺すのではないかというくらい――殺気立っているのを見て、キースはそそくさとその場をあとにした。彼はシヴォレーに乗って署まで帰る道すがら、マイク・マコーマックの言っていたことを頭の中で組み立て直したが、なんのことはない――彼はようするにシオン人の居候のことなどより、自分の孫にも等しいマーシーのことを大切に思っているという、ただそれだけのことなのだろうと思い至った。何しろ、老人の言葉のニュアンスとしては、ヨシュアはもしかしたらエステルを殺したかもしれないが、マーシーが殺したというのなら、自分のほうこそが疑わしいと、そう言いたかったようだからだ。
キースは狭い署内で溜息をつき、何度か頭を振ると、気合いを入れるように両の頬を両手で何度かはたいた。村人みなの話によると、マーシーとヨシュアは大親友で、ほとんどいつも行動をともにしていたという。それはつまり……こういうことだ。ヨシュアがエステルに週末こっそり会っていたとしたら、マーシーもその場にいたということになるのではないか?だがふたりの間でエステル嬢のとりあいが演じられたとしたら――ヨシュアがエステルを殺して逃げたと考えるのが妥当だろう。その場合、エステルとマーシーが実は両想いだったということになるが、レイノルズ夫妻の話によれば、マーシーのエステルへの想いは完全なる片想いということだったから――いいや、待てよ。マーシーが思いあまってエステル嬢を殺害し、彼を庇うために親友のヨシュアが罪を被ろうとしたのだったら?
(そうだ!どうして俺は今までこの線に気づかなかったんだ?)
キースは手の上で鉛筆をまわすのをやめると、かつて鬼警部として署内にその名を轟かせたサイモン・ガートラーに、自分の思いつきを話してみることにした――ちょうどその時、すぐそばの村役場から正午を知らせる鐘が鳴り響いて、キース自身の腹の虫も、また同時に鳴った。
「お昼か」
エステルをめぐる人物相関図を紙の上に描きながら、ああでもないこうでもないと頭を悩ませていたサイモンもまた、灰色の事務机の上から顔を上げた。
「少し休んで、メシでも食うか。それと囚人殿にもランチを差しあげなくてはな」
狭いL字型の部屋の中には、机や椅子、ソファーやテーブルなどがどうにか体裁よく配置されていたが、奥の黒い鉄格子に囲まれた動物小屋のような檻――これがなければ、署内はもっと広く感じられたに違いない。ロチェスター村の長い歴史の中で、ここに収監された村人は、ほんの数えるほどしかいない。つい最近ではジェンキンズくらいのものだったのではないだろうか。彼が泥酔して、スチュアート家の門の前で大声でがなったり歌を歌ったりするのをやめようとしないというので――ガートラーは彼を一晩署内に拘留したのであった。
「ノエル・ガードナー」と、キースはサンドイッチの乗った皿と、牛乳の入ったコップとを彼に差しだした。暗い檻の中でノエルは、毛布にくるまって壁に寄りかかったまま眠っていたようだった。
「……今、何時?」
ノエルは突然差しこんだ、眩しい光に目を細めている。
「お昼だよ。やれやれ、おまえも相当物好きな奴だな――自分から好き好んでこんなしみったれた場所に入りたがるとはね。べつに出ていきたかったら、いつでも出してやるんだぜ?」
そうなのだ。ノエル・ガードナーはエステル=ヴァン=ダイク嬢の第一発見者であり、重要な参考人でもあるのだが、ロカルノン警察本部の指揮で、事件発覚の翌日にはもう、釈放してもいいということになっていた。だが彼は事件が無事解決されるまで、自らを檻に閉じこめてくれと懇願したのだった。
「じゃなきゃ俺、殺されちまうよう。あの殺人犯によう……俺がロレインのことを見っけたもんで、きっと腹を立ててるんだ。なあ、刑事さあああん、頼むようぅ」
号泣しながらサイモンのズボンにすがりついてくるので、巡査はとりあえず暫くの間――ノエルのかわりに本当の犯人を檻の中へぶちこむまでの間――彼を署内に拘留しておくことにしたのである。
ノエルは事件が起きて二週間あまりの間、とても大人しかった。壁に頭を打ちつけることも、奇声を発することもなく、見たところ常人と変わらぬ話ぶりでもあった。だがこの時、ある種の<霊的存在>がいつものようにノエルを捉えた。彼はがらりと様子が変わり、以前西の森でサイモンが見たような、狐にそっくりの顔つき、猫のように闇夜に輝く目で、じっとキースの顔を見つめたのだ。
「……なんだよ?」
サイモンと違い、ノエルの気の違ったところを直接見たことのないキースは、檻の中から不気味なオーラのようなものが漂いだしてきたのを感じて、一瞬身震いした。彼は超現実主義者で、幽霊とかそういった類のものは一切信じなかったが、この時彼が目にしたノエルの様子は、どう見ても――誰が見ても異様であった。
「ヒッヒッヒッヒッ。またひとり、人が死ぬよ。いや、ひとりだけじゃない――全部であと三人だ。イッヒッヒッヒッ」
キースはそれまで、ノエルのことを比較的まともな男ではないかと思っていたが、この時初めて、彼の気狂いじみた姿を見て、心底ノエルのことが恐ろしくなった。キースはすぐに檻の鍵をかけ、後退りすると、重い鋼鉄の扉をギィィと閉めた。
「どうした?」
愛妻の作ってくれたサンドイッチをつまみながら、サイモンは何気なくキースに聞いた。
「あの気違いめが、また何か言ったか?」
「あと三人……」キースはふらふらしたまま、病床で譫言を呟く患者のように弱々しく呟いた。
「あと三人、人が死ぬそうですよ、ガートラー巡査!」
アンソニーはユージンの家から車で帰る道すがら、考えごとで頭の中がいっぱいだった。
(やれやれ――ジョンの奴、ようやく白状したな。うちの猟銃はあいつの家においてあったんだ。だが勘違いじゃないかの一点張りだ。それにしても、いつの間にかエステルとあいつがそんなことになっていようとは……迂闊だったな。先週護身用にとライフルを一挺購入したばかりだが、また明日、狩猟用の銃をスミス雑貨店で買ってくるか。とにかくあいつに容疑さえかからなければ――俺はそれでいいんだ)
「それで、エステルとは一体いつから?」
アンソニーはその夜、深夜までかかって、ようやくユージンに真実のすべてを白状させた。赤毛の鬘をかぶって変装したエステルを、毎週クイーンローズタウンの外れまで迎えにいったこと、そして土曜の夜に愛しあって、日曜の午後には彼女を再び、クイーン駅の近くまで送っていったこと――それを望んだのはユージンのほうではなく、エステルのほうであったこと……収穫祭の夜にも彼らが抱きあっていことなど、アンソニーはユージンの口から真実をすべて聞きだしていた。
「そうだな。最初にエステルと寝たのは……彼女のロカルノンいきが決まった時だ。エステルは頭のいい娘だからね――その時にはもうすっかりわかっていたのさ。ヨシュアが自分を捨てようとしてるっていうことがね。それで彼女は捨て鉢な気持ちになって、俺に抱かれようっていう気になったというわけだ。言っておくけど、俺のほうから積極的に口説いたってわけじゃないぜ――むしろ泣きつかれて仕方なしにそうしたって言ったほうがいいくらいだ。もっとも二回目以降は、俺のほうが少しばかり積極的だったかもしれないけどな」
ユージンはその時には、ワインのボトルを二本あけていた。いつもは、アンソニーのほうがたくさん酒を飲むのだが、あの事件以来、彼はスミス雑貨店の酒類の棚から酒という酒を購入していた――その日も朝から飲んでいたのだが、アンソニーが夕方訪ねてきた時、ユージンはまるで酔ってはいなかった。
「そう黙りこむなよ」三本目のワインを喇叭飲みしながら、ユージンは笑った。「大したもんだぜ、あの娘は――といっても、初めての相手は俺じゃなくてヨシュアだけどな」
「ヨシュアが!?」
アンソニーは驚いた。あれだけ自分は清廉潔白な人間で、ローラのことだけ愛してますという口調だったくせに――それでいてエステルを捨てようとしたというのなら、彼女がやけになったとしても無理はない。
「だけど、あいつはローラのことを好いていたようじゃないか。俺の聞いたかぎりじゃあ、あいつはエステルのことを憎んでさえいるって、そんなふうに自分で言っていたのに……」
ユージンはアンソニーにしきりと酒を飲むよう勧めたが、アンソニーは今日はとてもそういう気分にはなれなかった。
「そこだよ。あいつは――ヨシュアは、ここへくる前、エステルに悪戯をしようとした男を……殺したことがあるんだそうだ。そしてその夜、ふたりは結ばれたというわけさ――だがヨシュアは、その翌日にはそのことを後悔した。エステルは枷のような女だからね――シェーン、おまえにだって覚えがあるだろう?女の中にはそういう種類の女がいるってこと――ヨシュアにとってエステルは、あまりにも重すぎたんだ」
「それは……わかるが」
アンソニーはヨシュアの気持ちは男として理解できた。そして救いをローラの清らかさの中に求めたというわけだ――自分と同じように。
「じゃあ、おまえにとってもエステルは、重い枷だったっていうわけなのか?」
「まさか。俺を一体いくつだと思ってるんだ?だがまあ、エステルが聖マグノリア女学院を卒業して――いや、あんな学校、卒業なんてしなくてもいいが、もしかしたら駈け落ちして結婚していたかもしれないな。笑うなよ、シェーン。この俺様――これまで何人もの女をたぶらかして泣かせてきたジョン・シモンズが、生まれて初めて結婚してもいいと思ったんだ」
「じゃあ、何故……」
アンソニーは、言わずもがなのことを聞いた。炉辺の敷物の上で寝ていたブラックが、アンソニーの足元に擦り寄ってくる。彼はあの夜、ここですべてを見ていたのだ。そして……。
「すべてはさっき、最初に話したとおりだよ」
ジョンが泣いているところを見るのなど、一体何年ぶりだろう?アンソニーが覚えているかぎり――孤児院で仲の良かったボニーが、養子にもらわれていって以来、彼の涙を見た記憶は他になかった。
アンソニーは闇夜の道に車を走らせながら、これからローラにまたも嘘を重ねなくてはならないと思い、暗澹たる気持ちになった。まずは銃がなくなったこと――それから、それをヨシュアが盗んだかのように暗示したこと、またさらに、ユージンとエステルが恋仲にあったことなどは、一生黙っていなくてはならないだろう。
(やれやれ。『シオン人のゆく先に災いあり』とはよく言ったものだ。ローラもあんな連中と関わりあいになるから――最後には自分がひどく傷つくことになるんだ。もっとも、ローラにそうした優しさがなければ、俺とも結婚なぞしていなかったかもしれないが……)
アンソニーはユージンのことが心配だったので、酒のほうは少し控えるように忠告して彼の丸太小屋をあとにしたが、それは何もユージンの健康が心配だというばかりではなかった。今のユージンは、ジェンキンズが悪酔いした時のように死んだ目つきをしていたし、髭も伸び放題で、着ている服もだらしなかった。そんな風体でもしまたスミス雑貨店へ酒を買いにいこうものなら――村の噂好きの連中がなんと言ってあの猟犬のように嗅覚の鋭いガートラー巡査に密告するか、わかったものではない。
アンソニーはその点をもっとも心配して、しつこいくらい何度もユージンに駄目を押したが、彼はまるで自分が犯人として捕まってもまるで構わないかのように、うわの空で頷いただけだった。
『やっぱり、あの男がやったんだ』
『俺はあの男が村へやってきた時から、あいつには何かがあると思っていた』
『結局よそ者に関わると、ろくなこたあねえ』
ユージンが容疑者として捕まったところを想像して、アンソニーはぞっと身震いした。
(だがジョンは、単にエステルの死体を片付けるのを手伝ったにすぎない。ボートで沼へ漕ぎだし、遺体と銃を捨て、陸地へ戻ってきたところで、エステルの身に着けていたものすべてとその所持品ごと、ボートを焼いた……それと、犯人が逃走するのに馬車を貸しただけのことだ。それだって、相手に銃でおどされてやむなく……と法廷で証言すれば、罪は随分軽くなるだろう。もしかしたら無罪ということだって……)
アンソニーはユージンが巧みな手法で盗みとった、例の五十万ドルのことを考えた。あのお金は西の森のある場所に隠してある……そのことを知っているのはユージンと自分だけだ。もし万が一ユージンが逮捕されたら、アンソニーはその金で有能な弁護士を雇うつもりだった。だが事件の真相を知ったらローラがどんなに悲しむかを思うと、アンソニーは良心の呵責を覚えた。自分にしてみたところで、事実をすべて知っていながら何も話してくれなかったのかと、妻からひどく詰られることになるだろう。
この時アンソニーは、<もし>という仮説の元にいくつもユージンが助かる方法、彼が容疑者として疑われないための方策などに気をとられていて、少しばかり注意力が散漫になっていた。何しろ西の森とローズ邸までの道は車で走り慣れていたので、彼は深夜の人気のない通りに突然障害物が現れることなど――まったく予想していなかったのである。
アンソニーの車は時速八十キロをゆうに越えていたが、闇の中に鈍く輝くふたつの金に光る目が入ってきた時、咄嗟にブレーキを踏んだにも関わらず、何故かそれがまるでかからなかった。アンソニーは焦った。何度も繰り返しブレーキを踏むが、まるで効果がない。
(……ローラ!)
障害物にぶつかる寸前、アンソニーは左へハンドルを切った。車はゆうに一メートルはあろうかという楢の大木にぶつかり――そして、黄色のフォード車はボンネットから煙を上げて動かなくなった。
闇の中に金の瞳を輝かせていた鹿は、恐怖に射竦められたように数瞬動けずにいたが、自分の前から脅威が去ったことを知るなり、道路の向こう側にある緑の茂みへと姿を消していた。
まるで、何事もなかったかのように、ひとりの人間の死だけをその場に残して……。