第20章
ユージンがその入口に住居を構える、村の西側に広がる森は、一般に村人たちにロレインの森と呼ばれていた。それは今からかれこれ三十七年も昔に――ロレインという美しい娘が、森の沼地で死体となって発見されたからである。
ロレイン・ウィルバーは、ロチェスター出身の娘というわけではなく、ロカルノンから弟とともに一夏この村へ避暑にきていたのであった。ロカルノンのウィルバー家といえば、屈指の名門貴族であり、ロレインとその弟のロルカは早くに両親を亡くしたということもあって――その殺人事件が起きた当時は、人々の間に様々な憶測が飛びかったものである。遺産目あてに親族の誰かが裏で手をまわして殺したのではないかとか、またロカルノンの社交界で花形だった彼女を妬んだ何ものかが……あるいはロレインには崇拝者がたくさんいたので、そのうちの誰かが思いあまって彼女を……などなど、普段退屈すぎるほど平和な村は、一夜にしてゴシップの嵐と化したのであった。
結局のところ、ロレインを殺したのは誰だったのか、犯人は逮捕されることなく、事件は迷宮入りとなったのであるが――この事件が起きてから三十七年後の十月、再び同じ場所で悲劇が起きたのだった。
第一発見者は村の者たちから『白痴』として気味悪がられているノエル・ガードナー。ノエルは裕福なガードナー家の三男として生まれるも、小さな頃から徘徊癖があり、村中のあちこちをほっつき歩いては、黄色い歯を見せてにやにや笑ってばかりいた。野良犬をけしかけてクレイマー家の羊を殺させたり、大衆の面前で突然頭を壁に打ちつけだしたり、奇声を発したり……また人前でズボンを脱いで男性器をさらけだしたりと、村の人間で彼に不愉快な思いをさせられなかった者はひとりとしていないといってもよかった。ガードナー家の家長であるスティーブン・ガードナーは、何度も恥さらしな息子を遠く離れた街の施設へ収容したが――彼はその度に死にもの狂いで逃げだしてくるのであった。そしてその時だけ、突然まともな人間に戻ったように、父親に泣きながらこう懇願するのであった。
「父ちゃん、助けてくれよう。俺、あそこだけは絶対嫌だ。あんなところにいたら頭の中の声が余計大きくなっちまう」
ノエルの話によると、彼の頭の中にはいつもその<声>が存在しているということだった。ようするにノエルは――たとえば、大衆の面前で行儀よくしていなければならない時など、その<声>に操られて、逆に奇怪な行動をとってしまうのであった。そして彼はその<声>を頭の中から消したくて、突然壁に頭をぶつけたり、奇声を発したり、あるいはその<声>の命じるとおりの行為をおこなってしまうということだった。
ノエルの施設からの脱走が十度を越える頃になると、父親のガードナーだけでなく、村人のうちの多くの者が――彼の存在をある意味暗黙のうちに認めるようになった。彼はぼろ靴を履き破れた薄汚いコートを着て、帽子山や西の森、あるいは月夜の晩にはウィングス・リング港へ通じる海岸通りをほっつき歩いたが、成人を迎える頃にはほとんど人畜無害の人間となっていたからである。それで時々誰かの家の軒の下にいたり、窓から中を覗いているような時には――村の人間誰もが彼に食べ物やお菓子をやって追っ払うのが、いつの間にか村の常識として定着するようになっていた。
難民のシオン人を雇い人として受け容れ、また孤児院出身のアンソニーをなんのためらいもなく夫として迎えたローラでさえ、ノエル・ガードナーのことだけは怖れていた。それというのもその昔、彼が大衆の面前でローラのスカートをめくりあげたことがあったからである。最初ローラはノエルのことを、とても気の毒に感じ、彼がローズ家のまわりをうろついているような時には――小鳥にパン屑をあげるような気持ちで、彼に美味しいお菓子を与えたりしていたのだが、ノエルにぺティコートを見られてからは、暖かい慈悲の心が持てないようになってしまったのである。
エリザベス伯母はノエルについて、生前よくこう言っていたものだ。
「村のみんなの言うおとり、あの子には悪魔がとり憑いてるんだよ。あの子はその悪魔の<声>にそそのかされて、あんたのスカートをめくっちまったんだろうさ――悪いことは言わないからローラ、あの子には近づくんじゃないよ。ましてや家の中に入れるなど、もっての他だ」
ノエル・ガードナーは収穫祭の夜、月の光に導かれて、ロレインの森へいった。帽子山や海岸通りもいいが、ノエルはとりわけ西の森の奥に広がる湖沼地帯が好きであった。特にひんやりとした濃い霧のたちこめる日には、彼は必ずといってもいいほど、西の森へ<ロレイン>に会いにいくのである。
『お願いノエル、わたしに会いにきてちょうだい。ここはとても寒くて冷たいわ――わたしは人肌のぬくもりが恋しいの。どうかノエル、あなたの体で、わたしの震える心を暖めてちょうだい!』
「わかったよ、ロレイン。必ず俺は今夜、君に会いにいこう」
ノエルはいつものように、誰も聞く者などいないにも関わらず、ぶつぶつ独り言を呟きながら、満月の光に照らされて、西の森へと歩いていった。ロレインは随分長いこと、彼の心の恋人であった――彼女の声は彼の聞く幻聴の中でもっとも美しいものであり、その<声>が聴こえるのは何故かいつも、森に神秘的なヴェールのような霧がたちこめる時だけなのであった。
ノエルはロレインの死んだ場所で、彼女と逢瀬を重ねるうちに、生前彼女がどんな人だったか、また彼女を殺したのが誰なのかまで知っていたが、そのことを誰かに打ち明けたことは一度としてなかった。
『このことは、わたしとあなたとの間の秘密よ――』
美しいロレインはいつも、そう言って彼の唇に冷たい指を立てて封をした。ノエルはその封印を破ったら、何故か彼女が二度と自分を愛してくれなくなるのではないかと怖れて――誰にも彼女との秘密を洩らしはしなかったのである。もっとも、彼が口を開いたところで、白痴の戯言として片付けられただけだっただろうが。
だがその収穫祭のあった夜だけは別であった。ノエルはロレインの美しい、歌うような声に導かれて、彼女が三十七年前に死体として発見された、その場所で――とても綺麗な金髪の若い娘が、全裸で沼につかっているのを見た。
「……こりゃ大変だ!」
ロレインとエステルの美しさがだぶって見えたノエルは、急いでエステルのことを冷たい沼から救いだし――全裸の彼女に、自分のすり切れたコートを着せてやった。
「可哀想に……可愛い俺のロレイン。一体誰がこんなことを!」
ノエルの意識は混乱していたが、それでも彼が極たまに正気に返るように――この時彼は常人が真っ先にするであろう手段に訴えた。まずはこのことを村の誰かに知らせなくてはならないと思ったのである。そこで、沼の泥で汚れたエステルの顔を綺麗にぼろ切れで拭い、青白い彼女の頬や薄紫色の唇に繰り返し何度も口接け、
「待っていてくれ、ロレイン。今人を呼びにやってくるからな――なあに、ほんの少しの間さ。すぐに戻る。そして君をこんな目に遭わせた奴をこの俺が――ノエル・ガードナーが懲らしめてやるとも!」
そう叫ぶなり、ノエルは美しい死体となった少女をそっと横たえ、元来た道を駆け去っていったのであった。
ノエルはとても常人とは思われない、恐ろしい速さで森の中を走り抜け、ロチェスターの公会堂までやってくると、収穫祭のパーティで賑わっていた村の面々を仰天させた。しかもその年の収穫祭には、保守党のアルフレッド・ブルックナーが妻と娘を伴って出席しており――村長のステファン・アーヴィングは公会堂に飛びこんできたノエルの姿を見るなり、度胆を抜かれた。
だがまるきり浮浪者のような格好のノエルは、この時自分のなすべきことをよく心得ていた。恐ろしく慌てた様子の父親が自分のことをいかつい警備員のように止めるのも構わず、ラムパンチを飲んでいたサイモン・ガートラー巡査の元へ矢のように一直線に、物凄い勢いで飛んでいったのである。
「巡査、大変だ!西の森で俺のロレインが死んでいるんだ!早く助けてやってください!」
公会堂の広間にいた村人の面々は、驚きざわめき、そして互いに顔を見合わせた。今ではノエルの父親のスティーブンだけでなく、マイケル・クレイマーとサイレス・チェスターの三人がかりで、彼のことをこの場から力づくで追いだそうとしていたが――その場所でただひとり、アルフレッド・ブルックナー上院議員だけが、懸命な判断を下そうとしていた。
「待ちたまえ。いくら彼が少しばかりこの場所に相応しくない格好をしているとはいえ――人が死んでいるというのは、聞き捨てならないことだ。ガートラー巡査、彼の言うことが真実かどうか、一応念のために調べてくれないか」
マイケルもサイレスも、またガートラー巡査までもが、一様に顔を曇らせ、「しかしこの男は白痴なんですぜ?」という目つきをしていたが、まだ四十歳という若さで二期続けて選挙に当選しているブルックナー議員に睨まれると、しぶしぶといった体でノエルの体を離さざるをえなかった。
またサイモンはパイやケーキが所狭しと並んでいるテーブルを、名残惜しげな目つきで眺めやりながら、
「ええと、それでどこにその娘さんが倒れているのですかな?」
ブルックナー議員の手前、ノエルにそう丁寧に質問したが、彼がぐいぐいとサイモンの一張羅のスーツを破けそうなくらい引っ張るので、仕方なしに公会堂を黙ってノエルについてでていくしかなかった。
アルフレッド・ブルックナーは両手を高く掲げて二度ほど打ち合わせると、
「みなさん!時期に真偽のほどははっきりするでしょうから、ひとまず今はパーティを続けましょう!」
壇上の音楽隊を振り返り、演奏を再びはじめるよう合図した。その時ローラとアンソニーは、舞踏室でワルツを踊っている最中だったが――突然の闖入者に驚くあまり、もはやワルツどころではないという気がして、一度体を離していた。
「あんなのはただの、気違いの戯言なんじゃないか?」
アンソニーは美しく髪を結いあげ、着飾っているローラとまだ踊っていたかったが、感じやすい妻の顔に不安の影がよぎっているのを見ると、何故か同じように胸騒ぎを覚えた。
「どうした、おまえ……まさか本当に人が死んでいるなんて思っているんじゃあるまいね?」
「いいえ、アンソニー」
三十七年前に、西の森でロレインという娘が亡くなった話は、村では有名であった。ローラはただ、なんとはなしにノエル・ガードナーの出現を不吉の前兆として感じ、ぞっと身震いしたのである。
「ただなんとなく、嫌な予感がしただけよ」
気の毒なサイモン・ガートラー巡査は、馬に乗ることも許されず、気違いの物凄い力に引きずられるように、西の森の濃い霧の中を走っていかねばならなかった。巡査御自慢のふさふさとした金の髪は汗で額に張りつき、平和なロチェスターではとんと筋肉を使うような事件などまるで起きなかったため――近ごろとみにたるんできた体の贅肉部分にもじっとりと汗が浮かび、やがてそれは筋となって流れ落ちていった。そして熱い汗が浮かんだり冷えたりを繰り返しているうちに、ようやく巡査は森の奥の沼地に辿り着いたのである。
「ああ、俺のロレイン!」
ノエルは叫ぶと、エステルの上に覆いかぶさり、その血の気の引いた顔に、幾度となくキスの雨を降らせた。
「……こいつは、とんでもねえこった」
ノエルがあれだけの距離を走っていながら、汗ひとつかくでもなく、呼吸も乱れていないのも驚異ではあったが、それ以上に――ロカルノンの聖マグノリア女学院へ、先月の九月に進学したばかりのエステルが何故ここにいるのか、それも死体となって今自分の目の前に横たわっているのは何故なのか、サイモンは頭の中が混乱した。
「おい、気違い。そこをどけ」
サイモンは泣きむせぶノエルのことを脇へ押しやると、死体を鑑定しにかかった。エステルの着ているすり切れたコートがノエルのものであるのはすぐにわかった。何しろサイモンは、ロチェスターへ赴任してきて以来、この白痴のノエル・ガードナーのことを、要注意人物として常にマークしていたのであったから――コートの下は全裸であり、心臓のちょうど真上を銃によって撃たれているのがわかる。
(これはおそらく、出血多量が原因で死んだのだろうな)
サイモンは深い霧の中を見通そうとするかのように目を細め、どこかに血の跡はないかとランプをかざしたが、何分この夜の闇と霧である。今日はこのまま署にとって返し、ロカルノン警察の刑事課にまずは連絡するしかあるまい。そして指示を仰いだ上で動くことだ。
「ああ、俺のロレイン……」
サイモンは号泣しているノエルをエステルの冷たくなった体から強引に引き離すと、彼の手に手錠をかけた。
「おい、気違い!……じゃなくてノエル・ガードナー!おまえは今から重要参考人だ。今夜は署のほうで檻に入ってもらうぞ」
「愛しいロレイン……」
ノエルはぐったりとうなだれた様子で、力なく黙ってサイモンに従った。彼の口にはぶつぶつ言ういつもの癖が再びはじまっていたが、サイモンはそんなことには構わず、頭の中で目まぐるしく推理を組み立てながら、ユージンの丸太小屋を目指して歩いた。
(あいつは今日の収穫祭にはきていなかった……動機についてはさっぱり見当もつかんが、強姦しようとして暴れられたとかいうのは、都会では珍しくない話だからな。それにしてもあのお嬢さんは一体いつ村へ帰ってきたんだ?収穫祭のパーティのために戻ってきたのなら――ヨシュアかローラが前もって知っていたに違いない……それは明日にでも事情聴取するにしても、今はまずユージンだ。あいつがもし家にいたら、素知らぬ顔をして鎌をかけてやろう。ノエルは確かに気違いかもしれないが、エステルを殺してひとりであの場所まで運ぶなど、難しい話だ。そもそも何故全裸なんだ?ドレスを着ていてまずいことでもあったのだろうか?少しでも人間らしい気持ちが残っていたなら、服くらい着せたまま沼に沈めただろうに……)
サイモンはそこまで考えて、ふと何かが喉に引っ掛かるのを感じた。
(――沼?)
とサイモンは考えた。そもそもエステルはどのような形で沼に捨てられたのだろうか?なるほど、確かに彼女の体は泥で汚れていたし、ノエルにしたところで、おんぼろの靴とズボンとが同じように汚れている。ということは、沼の浅い部分に放置されていたのか?こいつに何か聞こうにも、ほとんどまともに受け答えたりはしないだろうし……。
「ガートラー。あいつは犯人じゃないよ」
俯きならのろのろと歩いていたノエルが、突然顔を上げたかと思うと、狐か猫のように不気味に目をつり上げて、いやにはっきりした声音でそう言った。ガートラーは闇の中で爛々と輝くその青色の瞳を見ると、ぞっと総毛立った。
「あいつっていうのは一体誰なんだ?」
「あんたがこれからいこうとしている家の主さ。あいつは悪い人間だが、せいぜいやるのは盗みくらいだね。金に目がないんだ」
ガートラーはよろめき、危うくランプを手から取り落とすところであった。額の汗を今日下ろしたばかりのスーツの袖で拭い、闇と霧の中を手探りするように再び進んでいく――もしかして、道に迷ったか?
「ガートラー、あんたは正しい人間だ。わたしがかわりにあいつの家まで案内してあげよう」
ノエルはそう言ったかと思うと、ガートラーの先を野生動物のような足の速さで軽やかに歩いていった。サイモンはノエルに遅れないように、あとから早足でついていくのが精一杯であった。
そしてサイモンの息が高山に登った時のように上がってきた時、ようやくユージンの丸太小屋に辿り着いた。小屋の中からは橙色の明るい光が差してきている……サイモンはほっとして、ぼうっと立ち尽くしているノエルの横顔を覗きこんだが、そこには先ほどの不気味につり上がった目つきはなかった。
だがかわりに、サイモンがランプの光を何気なく前方へやった時――数十個の青や金に輝く目玉がずらりと並んでいるのを見て、ぎくりと体が強ばった。それはよく見ると、檻の中の狐たちの目であった。
「なんだ、狐か」
サイモンはほっとして、丸太小屋のだんだんを上ると、ノエルを引き立てるように一緒に連れていった。頑丈そうな木製のドアを、どんどんと叩く。
「これはこれは、ガートラー巡査」
ユージンは恭しくサイモンのことを迎えたが、決して中へは入れようとしなかった。ふたりは戸口のところで少しだけ話をした。
「馬車を貸してほしいんですか……参ったな。生憎馬が逃げだしてしまいましてね、それで今日の収穫祭にも出席しなかったんです。申し訳ありませんが、歩いて帰ってもらう他はないようですね」
「そうか。では仕方がない……ところでつかぬことを伺うようだが、今日の夜はずっと、自宅にひとりでいたということでよろしいですかな?」
「ええ、そうですが。それが何か?」ユージンはそれがどうした、というように首を傾げている。「いや、明日になればあんたにもわかることだと思うが――シオン人のエステル=ヴァン=ダイクが沼で死んでいるのが見つかりましてな。あんたは彼女の死んだ場所から一番近いところに住んでいる……これから州本部の刑事が乗りこんできて、色々根堀り葉掘り聞いていくことだろう。その過程であんたの本名がばれるかもしれないが、それは自業自得だと思ってもらうしかないかもしれん」
「そうですね」
ユージンは冷たくサイモンとノエルのことを一瞥すると、ギィときしるドアをサイモンの鼻先で閉めた。それでもサイモンがちらと覗いた室内の様子からして――雑然としてはいるが、ひどく乱れているというわけでもなさそうだった。逆にもし、ここで人殺しがおこなわれていたとしたら、綺麗に片付けられていた可能性のほうが高くはないだろうか?
(しかし、馬が逃げていなくなったとはね。やれやれ、ここから一番近い家といえば……ショーン・ミルズのところか。ショーンのところで馬車を借りて、こいつと一緒に署で夜を明かすことになりそうだ)
ロカルノンの州警察本部が動くのは迅速だった。翌日、朝の一番で刑事課の一団がロチェスターへ送りこまれ――エステルの遺体は検死にまわされた。サイモンはエステルの死因を出血多量だと推測していたが、専門の医師の話によれば、至近距離から発砲されたことによる即死ではないかということだった。
すぐに銃弾と銃が特定されたが、その猟銃は一般的にどこの家庭にもあるもので――スミス雑貨店の帳簿で購入者を調べてみても、捜査はさほど進展したわけではなかった。
「あの、巡査。エステルは一体いつ頃帰ってきたんでしょう?週末にもし戻ってくるつもりなら――前もって連絡してくれていても、よさそうなものなのに……」
ローズ邸の居間で、サイモンと、ロカルノンの警察本部から派遣されてきた、刑事課の巡査部長――キース・マクミランと話をしながら、ローラは唇を震わせ、今にも泣きださんばかりだった。
キースは今三十六歳だったが、まだ独身で、仕事が忙しいあまり結婚している暇もないような有様の男であった。身だしなみはぱりっとしていて、濃紺のスーツがよく似合ったが、そのズボンは裾がほつれていた。そして美しい人妻が、自分のその足元ばかりじっと見つめて話をするので――下宿屋のおかみにでも繕ってもらうことにしなけりゃ、などと、彼は捜査にはまったく関係のないことを考えていた。
どう考えても、この美しい人が犯人などということはありえないと、キースはそう勝手に決めこんでいた。
「ところがだね、ローラ」サイモンはだみ声を張り上げるようにして言った。彼はいつもそのどでかい声で、しらばっくれる犯人を何人も締め上げ、犯行を自供させてきたのであった。「聖マグノリア女学院及び、下宿屋のおかみさんに問いあわせてみたところ――エステルは入学以来、毎週末、ロチェスターへ戻ってきているのだよ。まあ、待ちたまえ、ローラ。人の話は最後まで聞くものだ。クイーン駅でもし毎週駅に彼女が降り立ったとしたら、誰かが必ず気づくはずだよ。ところが鉄道員の話によると、それらしい人物は見かけたことがないということなんだね。ただし……」
「ただし?」と、ローラは弱々しく訊ね返した。
「ここのところ、毎週土曜日の夕方になると、赤毛の髪のあまり見慣れない女が、駅に降り立っていたそうです」キースがサイモンのあとを継いだ。「しかし、町の宿に泊まるでもなく、クイーンローズタウンのことは素通りしていたようなんですね。ここからは推測の段階ですが――おそらく彼女は町のはずれで、誰かと待ち合わせをし――村へ戻ってきていた。そこで問題になるのが、その相手が誰かということなんです。マコーマック家に居候しているヨシュアという少年とエステルとは、血の繋がりがないそうですね?」
「……一体、どこでそれを?」
ローラは不審げな目でキースのことをじろりと睨んだ。キースがやや臆しているのを見てとって、サイモンは苦笑いしながら続けた。
「あなたの御主人のアンソニーですよ。ヨシュアは目下、収穫祭の夜以来行方不明ですからな――タイターニアのほうには逮捕状がまわっています。なんでもシオン人が開業したレストランへ、見習いとして就職するつもりだったようですな。だがそこへも今のところ、顔は見せてないようですよ。もしもやってきたら、すぐに警察へ通報するように言ってありますがね――さて、ローラ。話を元に戻すとしようか。エステルは毎週、ヨシュアに会いにロチェスターへ戻ってきていた。それもわざわざ変装までしてね。彼がエステルを殺した動機はいわゆる痴情のもつれではなかったかと、我々は見ているんですよ。エステルはヨシュアを愛し、ヨシュアは自分を聖マグノリア女学院へ入れておきながら、タイターニアへ料理修業をしにいくという……彼女の存在がやがて重荷となり、耐えられなくなったヨシュアは――ズドン!」
そこでサイモンは一度言葉を切ったが、ローラはびくっと身を震わせた。サイモンの野太い大きな声で言われると、銃を発砲する時の擬音にも、迫力があった。
「……と一発、銃からは硝煙が立ち上ったのではありませんか?ところで奥さん」と、サイモンはローラのことを奥さんなどと、他人行儀に呼んだ。「時にひとつお伺いしたいことがあるのですがね、御主人のアンソニーさんの話によると、お宅の猟銃が一挺、見あたらないとか?御主人のお話では、先に猟にでて以来、客間の壁に掛けておいたとのことなのですが、いつ頃それが消えてなくなったのか、御記憶じゃありませんかね?アンソニーさんは客間へはあまり入らないので、気がついたらなくなっていたとしか言いようがないと、こうおっしゃるんですよ」
サイモンはまるでお手上げだ、というように、おどけて両の手のひらを天に向けている。
「いいえ、そんな――そんなはずありませんわ」
ローラはびっくりして立ち上がると、急いで隣の客間へいった。だが、本当にない――前に客間を掃除したのは、一週間前のことだ。ローラはエリザベスと同じく週に一度、必ず客間の掃除をしている。
(ええと、確かあの時は……)と思いだそうとしたが、記憶が曖昧だった。あったような気もするし、なかったような気もするとしか言いようがない。
「驚きましたな、奥さん」狼狽しているローラをよそに、サイモンは無頓着に話を続けた。「この家に出入りしている者の中で、銃を盗みだせる可能性のある人間は誰です?さあ、ひとりひとり名前を上げてみてください」
サイモンは身を乗りだしてローラに詰めよったが、ローラは下唇を噛んだまま、押し黙ったままでいる。
「そこから先は俺がお話しますよ、ガートラー巡査」
アンソニーは泥で汚れた作業着姿のまま、居間へ入ってくると、袖椅子のほうにどっかと腰かけて足を組んでいる。まるで気迫で負けたら弱味を見せることになる、とでもいう
ような、尊大な態度だった。
「ローラは優しい女ですからね――銃の話なんてしただけでも、気を失っちまうくらいですよ。なあ、ローラ。前に客間を掃除したのはいつなんだい?」
「先週の……水曜日だわ、確か。あの日は客間の掃除と、居間のワックスがけをしていて……」
そこまで口にすると、ローラはぎくっとした。そうだ。その日はヨシュアが――ワックスがけを手伝ってくれたのだ。
「ほほーう」
サイモンは鋭くローラの顔色の変化に気づくと、いかにも興味深そうに手で顎を撫でている。
「それで何か、お気づきの点でも?」
「正直に言えよ、ローラ。隠してどうにかなるってもんでもないだろう」
アンソニーはサイモンとキースに「ちょっと失礼」と断ると、パイプに煙草をつめて喫いはじめた。
「その日は、ヨシュアがワックスがけを手伝ってくれてこんなにピカピカになったと、おまえはそう言っていたじゃないか」
「ええ、そうよ。だけど……」
ローラは口ごもった。サイモンとキースはほとんど同時に、ムク材の、美しく光沢のある床へ目を落としている。
「猟銃はあったんですか?それともなかったんですか?」サイモンは畳みかけるように鋭く聞いた。
「……わかりません。あったような気もするし、なかったような気もするとしか……」
「ふあーあ」と、ローラの答えを聞くなりサイモンは、さもがっかりしたというように、一声うなった。「念のために言っておくがね、ローラ。犯人をかばうと身のためになりませんぞ。法廷には偽証罪といって……」
「そのくらいのこと、わたしだって知っています」ローラは厚顔なサイモンに向かって、叩きつけるようにぴしゃりと言った。「それに、そう見えないのかもしれませんが、わたしはこう見えても正直な人間です。少なくともそうあろうと努力しているつもりです。もしわたしが客間に銃があったかどうか、はっきり覚えてさえいたら――真実を巡査にお話したでしょう。でもどちらだったか覚えていない、それが本当のことなんです」
キースはすぐに、ローラが真実を語っていると直感したが、サイモンのほうはまだ疑っているようであった。アンソニーは考え深そうな面差しで紫煙をくゆらせ、しばしの間、沈黙がその場を支配した。やがてサイモンがソファから立ち上がると、すぐにキースがそれに続き――「御協力、感謝します」そう言ってサイモンはアンソニーと握手を交わしたが、ローラは立ち上がることも、ふたりの刑事を見送ることもせず、ソファに座ったままでいた。
「ひどいわ、アンソニー」
ガートラー巡査とマクミラン巡査部長がローズ邸からでていくと、ふたりを玄関のところで見送っていた夫に、ローラはなじるような物言いをした。
「どうしてうちから銃がなくなっただなんて、そんなことをあのふたりに言ったの?あなたの勘違いかもしれないじゃないの」
「それはありえないよ、ローラ」アンソニーはローラの隣に腰かけると、妻を気遣うように、優しく言った。「君がヨシュアのことを庇いたいという気持ちはよくわかるよ――でもね、結局のところ真実はひとつだ。もし彼が犯人じゃないのなら、姿を現して、自分の口で弁明するべきなんだ。俺は何も、ヨシュアの奴が銃を盗んだだなんて、決めつけてるわけじゃないよ――ただ一応事実をありのまま、巡査に申し上げたまでのことさ。じゃないと、もしかしたら俺に疑いのかかる可能性だってあるだろ?それに俺は……」
(偽名を使っているからね)
アンソニーは口にだしてそう言いはしなかったが、ローラには彼の言いたいことがよくわかっていた。夫の本当の名前がシェーン・カーティスであるということは、今ではもう、夫婦の間の公然の秘密のようなものだったからだ。
「あなたには、立派なアリバイとかいうものがあるじゃないの。何を心配することがあって?収穫祭の夜、わたしたちは夫婦そろってパーティに出席し、ブルックナー上院議員の素晴らしいスピーチをお聞きしたわ。あなたは禁酒法のところでは、苦虫を噛みつぶしたような顔をしてらしたけど」
「ばれていたか」ローラの口許に微かに笑みが戻ってくるのを見ると、アンソニーはほっとした。そして何がなんでも自分がこの妻の笑顔を守らなくてはと思い、煙草の火をすぐに消したのだった。