第18章
夕方になり、かまどや台所が磨き粉でぴかぴかになった頃――ローラが汚れた水を外へ投げていると、馬車の音が近づいてきた。アンソニーとユージンがカルダンの森から帰ってきたのである。
「どうどう!」
ユージンが手綱を引くと、アンソニーが出掛けた時の仏頂面はどこへやら、馬車が完全に停まるのももどかしく、御者台の上から飛び降りてきた。
「ヒャッホー!ローラ!これを見てくれ!」
アンソニーに言われるまでもなく、ローラは空になったバケツを手に、馬車の荷台に乗っている三匹の狐を呆然と見つめていた。母狐は犬に耳を引きちぎられていたし、子狐たちはほとんど無傷の様子ではあったが――……
『ルベド!どうして守ってくれなかったの!』
お角ちがいとわかってはいながらも、ローラは涙とともに心の中でそう叫ばずにはいられなかった。
「実際のところ、運がよかったよ。なあ、ユージン」
ユージンはエゾ松の樹に馬車を繋ぐと、アンソニーと同じく意気揚々と御者台の上から飛びおり、養狐場の共同経営者である親友の肩を抱いた。
「ブラックの奴が狐の巣を見つけてね――おお、よしよし。おまえには早速褒美をやらなくちゃならん」
狐たちは南京錠のかかった小屋に母狐、子狐別々に入れられていたが、三匹の犬たちはそのまま馬車の後ろに乗っていたため、すぐさま嬉しそうに飛びおりてきた――三匹とも、ローラのことを引き倒して強姦しそうな勢いで、ジャンプしながら彼女に飛びかかっている。ユージンはブラック以外の二匹の犬を大人しくするよう、軽く叱りつけなくてはならなかった。
「ローラ、ローストチキンでもハムでもなんでもいいから、こいつらのために持ってきてやってくれないか?実際のところ、本当にこいつらはよくやってくれたからね――まあ、詳しい話はあとにするとして、とにかく今日は森の中を一日中駆けずりまわって本当に疲れたよ。腹も減ったし……」
アンソニーはローラの哀しげな顔にも気づかないほど上機嫌だったが、勝手口からヨシュアがでてくるのを見ると、顔つきが急に険しくなった。
「何故おまえがここにいる?今日は手伝いを頼んでいなかったはずだが……」
アンソニーはヨシュアに厳しく追求した。
「あのね、アンソニー」ローラは慌ててふたりの間に割って入った。「ヨシュアはかまどの大掃除を手伝ってくれたのよ。あなたもびっくりするくらいピカピカになったわ。ヨシュア、今日は本当にどうもありがとう」
本当はヨシュアも一緒に夕食をとローラは考えていたが、ローラよりも先にアンソニーの悪感情を見てとったヨシュアは、やんわりとそれを辞退することにした。ローラの作ったオニオンクリームスープに人参のグラッセ、マッシュポテトやプディング、ローストビーフなどをこの目で見、その匂いをかいでいながら、諦めるのはやはり残念だったが。
「いえ、こちらこそ美味しいサンドイッチとシチューをありがとうございました。それから午後の紅茶とクッキーも」
一瞬、アンソニーとヨシュアの間に火花が散っているのを見たユージンは、(おやおや)と心の中で不敵に笑った。(どうやらこれは面白いことになりそうな雲ゆきのようだ)
ヨシュアは自分の雇い主に礼儀上軽く会釈をして、ユージンにも同じようにしたあと、毛並みの素晴らしい哀れな銀狐の母子を一瞥して、その場をあとにした。ああ、僕に今一万ドルも金があったなら――自分で身を立てて立派にやっていけるだろうに!そう思うとヨシュアは、帰り道で悔し涙がこぼれた。本当は自分はこんなところで農作業の手伝いなどしているような人間ではない、それなのに……との思いが彼の胸を強く締めつけていた。エステルに対しては、公爵家の地位のことなど早く忘れるよう、因果を含めるように言い聞かせていたにも関わらず、彼もまた時々、そのような思いに悩まされることがあるのだった。
「ユージン、本当に夕食を食べていかないのか?ローラがおまえのために好物のローストビーフをこしらえてくれたっていうのに」
三匹の犬――ブラックとジェフリーとムーア――ががつがつと骨つきの鶏肉をぺろりとたいらげてしまうと、ユージンはすぐさま再び御者台の上に飛び乗っていた。
「ローストビーフと聞くと名残り惜しいが、この狐たちにも手当てや食べるものが必要なんでな。それに一刻も早く養狐場の頑丈な檻のほうにこいつらを移しちまいたい。鋼の網でできている小屋とはいえ、何かの拍子に逃げだしちまうんじゃないかって心配な気がしてな」
「そうか」アンソニーは納得すると、ローラがバスケットにぎっしり詰めて寄こした夕食を手渡した。「それじゃあ、気をつけて」
「ローラにありがとうと言っておいてくれ」
アンソニーは宵闇の中に消えゆく親友の姿を見送ると、くるりと踵を返して深呼吸した。あの銀狐の母子が一万ドルで売れようと売れなかろうと、アンソニーにはあまり関心がなかったが、養狐場はローズ農場と違い、彼と親友の力だけで協力してやっている事業である。ローズ農場のように、本来の持ち主であるローラからただで与えられたのではなく、自分の――自分たちの力だけで、いわば独力で経営している事業だということに、アンソニーはローズ農場の切り盛りにはあまり感じない、誇りを持っていた。
夫婦ふたりで夕食の席に着いている時も、アンソニーは自分たちがどれだけ森の中を這いずりまわったか、巣を守っているクマゲラにあやうく突っつかれそうになったり、また沼地で鹿が足をとられて沈んでいくところを目のあたりにしたが、どうにも助けようがなかったことや――今日の目的の獲物でないイタチや野うさぎなんかは逃がしてやったことなどを、いかにも得意気にローラに話して聞かせていた。
アンソニーはその夕べ、昨夜から朝にかけての夫婦の不和のことなど綺麗さっぱり忘れたかの如く、実に上機嫌だったが――銀狐を仕留めるまでの経緯を一通り妻に話して聞かせたあと、ようやく通夜のようなローラの顔の表情に気づいたのである。
(やれやれ。まだきのうのことを怒ってやがるのか。女っていうのは執念深い生きものだからな――ここはひとつ、一応あやまっておくか)
「ローラ、昨夜はごめんよ。あんな、心にもないことを言って……だけど、君にも本当はわかっているだろう?あんなのは俺の本心からでた言葉じゃないんだ」
「ええ、もちろんわかってるわ、アンソニー」ローラは暗い調子で答えた。明日の日曜日の分まで料理をこしらえたり、かまどや台所を綺麗に磨きあげたお陰で――少しばかりくたびれていた。「そのことは本当にもういいの。元はといえば……不妊の原因はわたしにあるんですもの。たぶん、前に子供が死産だった時……何か不妊の原因になるようなことがあったのだと思うわ。何しろひどい出血でしたもの。ローランド先生はそうとばかりも言いきれないし、女性の妊娠に関しては神秘的なところがあるから、この先子供ができるという希望はまだあるとおっしゃっていたけど……こんなにあなたが愛してくれても駄目なんですもの、きっとこの先もそうでしょうよ」
ローラの口調が最後には絶望的で投げやりなものになっているのを聞くと、アンソニーとしても良心が痛んだ。彼女がこんなに苦しんでいるのに――自分は狐のことなんかで有頂天になって!
「大丈夫さ、ローラ。俺たちはまだ結婚して二年なんだしね――川向こうのアイルマーさんとこだって、結婚五年目にしてようやく第一子を授かったんじゃないか。俺たちだってその頃にはたぶん、可愛い子供を持てるようになっているさ」
アンソニーの楽観的な意見にローラは表面上頷いて見せたが、やはりおそらく自分は駄目だろうという気がしていた。オーティス・アイルマーの妻のミュリエルは、死産や流産を経験していたわけではないし――彼は一度経済に困って遠洋漁業に三年ほどでていたことがある。それに冬にはロカルノンへ出稼ぎにいき、ロチェスターの自宅を留守にしていたことを考えると、しっかり者のふたりはあえて子供を作らず、農地を拡張して経済の基盤がしっかりしてから子作りに励んだのではないかと、ローラにはそのように思われた。もちろん子供は天からの授かりものだとは、ローラもそう思ってはいるのだけれど。
「あのね、アンソニー」ローラはこの際だからと思いきって、重い溜息とともにこれまでずっと心の底に溜めてきた思いを吐きだすことにした。「わたしが暗く沈んでいるのは、昨夜のことももちろんあるけれど――今はどちらかといえば、あの狐たちのことで心が重いの。銀色の毛並みの狐は、昔からロチェスターの山や森の守り神だと信じられているわ。それじゃなくても、ユージンが養狐場を立ち上げて以来、野生動物が乱獲されているでしょう。結構な値になるという噂を聞きつけて、遠くエレインズから狩猟にくる人だってあるくらいだわ。でもこのままいったらきっと――このあたりからミンクやキツネはすっかり姿を消してしまうんじゃないかしら。そのことがわたしはとても心配なの」
「それが一体どうしたっていうんだい?ローラ」アンソニーは決して意地悪からではなく、ただ屈託なく、心の中で思ったままを、いつもどおりの口調で述べた。「狐なんか、ここいらから姿を消してくれたほうが、家畜が襲われたりしなくなって、かえって好都合なくらいだろう?ユージンも言ってたが、このブームはあくまでも一過性のものだ。彼にしても養狐場で一儲けしたら、別の事業を立ち上げるつもりなんだよ。とりあえず、タイターニアの毛皮ブームが去るまでのことなんじゃないかな」
「じゃあ、そのブームというのが終わったら、アンソニーも養狐場からは手を引くのね?」
「ああ、もちろんだ」アンソニーはデザートのプディングを食べながら、子供のように無邪気に笑った。「君は一体なにがそんなに心配なんだい?もしかして、俺がユージンとの事業に熱中するあまり、ローズ農場の経営をおろそかにするとでも?ローラ、そんなのはありえない話だよ」
「わたしが言っているのは、そういうことじゃないわ。わたしが言っているのは……」と、ローラはそこで言葉に詰まった。こういう時もしトミーなら――彼女の言いたいことを、唇から言葉として流れでてくる前に、察知してくれたはずだ。だがアンソニーには自然愛護など説こうとしても無駄であることがローラにはよくわかっていた。それで、話の矛先を別に転じるしかなかった。
「ええ、そうね、アンソニー。わたし、前から不思議だったの。ローズ農場は十分採算が見合っているし、何もあなたが他にも事業をしなければならないほど、うちはお金に困っているわけでもないのに、どうしてって……もちろん、アンソニーが親友のユージンを助けたり協力したいっていう気持ちはわたしにもよくわかるわ。彼には農場のこともよく手伝ってもらっているし……でも……」
「そりゃあ、女の君にはわからないことだよ」と、アンソニーは少年のように笑って言った。「このローズ農場はもともと君のものだからね、俺が何かをして大きくしたってわけじゃないし――男っていうのはね、ローラ。いつでも自分を試したいものなんだよ。俺は本当はあの銀狐がいくらで売れようと、そんなに大した興味はないんだ。ただ、君から与えられたもの以外で――俺は直接自分の力を試したいだけなのさ」
「そうなの……」ローラは食卓の椅子から立ち上がると、後片付けをしながら、ただ絶望的に悲しい気持ちになった。夫は自分の与えるものだけで満足していない!自分はこんなにも、彼の与えてくれるものだけで満足しているのに――ローラは突然、アンソニーにとって自分はなんなのだろうと、結婚してから初めて考えた。ただの身のまわりの世話をしてくれる家政婦?それとも、土地・家屋のついた都合のいい愛人なのだろうか?いや、こんなふうに考えるのはよそう……ゆうべ寝不足だったせいもあって、自分はきっと少し疲れているのだ。
「ごちそうさま」
アンソニーはプディングを食べ終えると、美味しかったよとつけ加えて食堂からでていったが、ローラは突然、昼間ヨシュアがどんなに自分の料理を美味しいと褒めてくれたか――強い感情をこめてそう言ってくれたかを思いだして、体の奥が熱くなるのを感じた。
『ローラさんのクッキーはロチェスター一美味しいですよ!』
『まあ、何言ってるの。クッキーで賞をとるのはいつも、ダイアナよ。わたしも今よりずっと若かった頃、彼女にクッキー作りを教えてもらったんだけど――やっぱり弟子は師匠には適わないものなのね。エドおじさんは昔からダイアナの作るクッキーやドーナツにぞっこんだったらしいわ』
『きっとそれで結婚したんですね』
とても楽しかった午後の紅茶の時間……アンソニーも新婚当初はあんな感じだったのに、今では「美味しい」と言われても、その言葉には空気だけしか詰まっていないみたい。でもどこの家庭も、結婚して二年もすればそんなものなのかもしれない……ローラはそう考えて、自分の心を慰めようとした。
(なんにしても、ひとつだけいいことがあったのは確かだわ。アンソニーがとても上機嫌で、昨夜あった喧嘩のことなんて、すっかり忘れてくれたこと……それに、きのう言ったことは本心じゃないとも言ってくれたわ。それだけでもとりあえず満足しなくちゃ)
だがローラは、食器を洗いながら、やはり疲れたような重い溜息を着かずにはいられなかった。夫は、狩猟のあった夜には、気分が高揚するのか、必ず体を求めてくるのだ。そして昨夜あった口喧嘩のことを思うと――その求めに応じないわけにはいかないだろう。
ローラはぐったりと疲れていたが、食器を片付け終わると、浴室で軽く自分の体を洗ってから、寝室へと上がっていった。




