第15章
「『まあ、エステル。それならどうしてあなたはそんなに大きなお目々を濡らしているの?』だってさ。まったくもう、あのおばさん、あたしのことを一体いくつだと思っているのかしら?」
エステルは口にだしてローラのことを呼ぶ時は、「ローラ姉さん」と言ったが、心の中ではローラのことを「ローラおばさん」と呼んでいた。もちろんローラはまだ二十六歳という年齢ではあったが――ここロチェスターでは二十五歳までに結婚しない娘はややとうが立っており、またオールドミスの予備軍だと思われていた――いや、はっきりオールドミスと呼ばれることもしばしばであった。十六歳のエステルにしてみれば、十歳も年の離れたローラは確かにおばさんであったかもしれないが、彼女がローラのことを悪意をこめておばさんと呼ぶのには他に理由がある。何故ならローラはエステルにとって憎っくき恋敵であったからだ。
「なんだってまあヨシュアは、あんな二度もお婿さんをもらった、身持ちの悪い女のことがいいのかしらね?わたしだったら――一生に恋はただ一度だけだわ。もし自分の愛した人が戦争へいって死んだりしたら、絶対に決して再婚したりなんかしやしないわ。ヨシュアは今、年増女の色香に迷っているようだけど、もうあと二三年もしてごらんなさいな――あたしのほうがぐっといい女になって、その時彼の目は初めて見開かれるのよ。ついでに言わせてもらうと、あたしが二十歳の時にはローラおばさんは三十歳で、ヨシュアは二十一歳……ほほほ。きっと時がすべてを解決してくれてよ」
エステルは帽子山の麓にある、マコーマックの丸太小屋へやってきた時から、やたらと独り言の多い娘であった。しかも彼女の独り言はすべてシリル語であったので、当然、マイクにもマーシーにもちんぷんかんぷんであった。彼女がシリル語でぶつぶつ独り言を呟く時――その言葉を理解しているヨシュアでさえも、よほどのことがないかぎり、滅多に口を挟むことはなかった。彼はここへきた当時から、日常会話は必ずタリス語で話すようにと、妹に厳しく言い渡してあったからだ。
「どうしたんだい、エステル。今笑ったみたいだったけど……」
言葉はわからないながらも、エステルが笑ったようだと感じたマーシーは、彼女が料理している隣でじゃがいもを潰しながら、そう優しく問いかけた。マイクは今日の午後から帽子山へ山菜とりに出掛けていて、今は留守にしている。
「ううん、なんでもないのよ、マーシー。それより、それが終わったら今度は人参の皮を剥いてちょうだいね。クリーム煮にするわ」
マーシーはなんでもエステルの言うなりであった。マイクじいさんとふたり暮らしの時は、快適な屋根裏部屋で誰に迷惑をかけることもなく、大いびきをかいて眠っていたのであったが――今は下の狭い部屋でヨシュアと狭苦しい思いをしながら寝ていても、まったく不満はなかった。マーシーはいつまでもこの兄妹――血が繋がっていないとわかってからも、彼にとってやはりふたりは兄妹のようなものであった――エステルとヨシュアにここにいて欲しかった。
この場にもしヨシュアがいたら、彼が何くれとなく気を遣い、エステルがマーシーのことを顎でこき使うのを許さないのだが、マーシーにはエステルのすることすべてが愛らしかった。時々エステルがシリル語で、マイクじいさんのことを「偏屈者」と言っていたり、マーシーのことを「お馬鹿さん」と呟いているのをタリス語で聞いたとしても――彼は一向意に介さなかったことであろう。以前、といっても二年以上も昔の話になるが、マイクじいさんがインフルエンザで死にかかった時、偏屈者のじいさんの世話をするのが面倒だったエステルは、「早く死んじまえ、この老いぼれめ」とシリル語で罵倒したことさえあったが、何故かその日を境にマイクじいさんはみるみるうちに持ち直し、今では元と同じく、百歳まで生きそうなくらい、元気溌剌としていた。
もっとも、ヨシュアはエステルとは違い、この偏屈者のお年寄りに心からの敬意の念を抱いていた。マイクはマーシーのように盲目的にエステルに甘いというようなことはなく、彼女が間違ったことをしたような時には、遠慮なく杖でぶったくらいだったからである。
ロチェスターへきた当時、エステルは料理などそれまで一度もしたことがなく、マイクはまったくもってこの頭のちょっと足りなそうな、すぐに涙を浮かべる小娘が家事というものを何ひとつまともにできないのを見て驚いてしまった。賛嘆したといってもいいくらいだ。ヨシュアの話では、彼女は召使いが五十人もいる貴族の屋敷の御令嬢だったとかで、そのかわりに彼が何くれとなく世話をしていたのだ。だが老人はそうしたことがエステルのためにならないのを見てとると、ただちに厳しい家事の猛特訓をエステルに開始したのである。
しかもその上マイクは、何かにつけてローズ邸のローラのことを引きあいにだし、「ローラを見習いなさい」、「ローラのように優しく」、「淑女という言葉はローラのためにあるような言葉だ」などと言って――エステルの心中を知ってか知らずか――彼女の闘争心を実は煽りまくっていたのである。もっともそのお陰でエステルの家事能力は素晴らしく上達したのであったが、その結果として、エステルは恋敵という以上にローラのことを憎むようにさえなってしまっていた。
エステルはローラが服を新調してくれたり、おやつをくれたり、パーティへ出掛けるためにアクセサリーを貸してくれたりしても――ちっとも嬉しくなかった。彼女は本国にいた時にはローラの作ったのよりも遥かに素晴らしいドレスの数々を所有していたし、アクセサリーだっておやつだって、欲しい時にはいつでも、パパが買ってくれたのだ――あの忌わしい戦争が始まる前までは。
エステルはマーシーのことも、心の底ではまったく相手にしていなかった。むしろ貴族の自分が私生児と一緒に暮らしてやっているだけでも有難いと思いなさいよね、とさえ思っていた。当然そんなだから、学校でも友達などひとりもできたことはなく――学校ではエステルに対する評価というのは常に割れていた。「可哀想な戦災孤児に優しくしてあげなくちゃ」と思う女子もいれば、ヨシュアに免じてせめていじめるのだけはよそうと思う男子もあり、極めて嗅覚の鋭い女子に至っては――彼女が男子にちやほやされたりするような時、あのちょっと頭の足りなそうな舌たらずな喋り方は演技に違いないと見抜くこともあった。
だがエステルにとって、大切なのはとにかくヨシュアひとりきりであった。他の者はみな、本来ならば自分と口も聞くことさえできない一般大衆にすぎない。ロルフシリクのヴァン=ダイク家といえば、家系を紐解けば千年以上も遡ることのできる由緒正しき家柄の公爵家である。その末裔である自分が私生児のマーシーと結婚?寝言は寝てから言ってちょうだい、そうエステルは思うのだった。
とはいえ、当面の間はマーシーを利用しようと彼女は考えた。彼は毎朝料理ストーブに火を起こすのを手伝ってくれたり、その他掃除でも洗濯でもなんでも、自分のしなければならないことを手伝ってくれるからだ。その点、ヨシュアはロチェスターへきてからというもの、妙に自分によそよそしく、冷たくなった。学校ではいじめっ子から庇ってくれたり、巧妙な女子の嫌がらせを察知して、未然に防いでくれたりはしたが――女子たちはみな彼のことを好いているので、彼に嫌われるのが怖かった――それも結局のところどこか義務的なものであるように、エステルには感じられた。
(それもこれも、元はといえばローラおばさんのせいよ!)
にんじんのクリーム煮の味を見ながら、エステルは今度は口にださずに心の中で呟いた。ローズ邸へいく時はいつも――ヨシュアの目はローラの姿ばかりを追っていた。学校の休み時間や家にいる時でも、ヨシュアがぼうっとして手がお留守になっているような時は大抵、彼はローラのことを考えている。エステルにはそのことが痛いくらいよくわかった。だから彼女はこれから、じっくりコトコトスープを煮込む時のように、ローラ・リー・フラナガン・レイノルズ夫人に復讐するつもりだった。
(見てらっしゃい!もしあたしがこのオンボロ小屋からローズ邸へ引っ越すことになったとしたら――いくらあのローラおばさんでもひとつかふたつは必ずボロをだすはずよ!たとえば機嫌の悪い時に日常のちょっとしたことであたしに八つ当たりしたりだとか――そうしたらあたしは目に涙を浮かべてぱちぱちさせながら、アンソニーにそのことを言いつけてやりましょう。もちろんヨシュアにも!)
エステルにはロカルノンの聖マグノリア女学院へいく気など、毛頭なかった。ヨシュアは政情が安定して本国へ戻った時、ヴァン=ダイク家の令嬢が田舎の村の学校しか卒業していなかったら恥かしいだろうと言ったけど――お生憎さま!わたしは将来コステロ夫人になるんですもの!そうしたら学歴なんて――山羊のお腹におさまった紙屑みたいに、ちっとも役になんか立ちゃしないわ!
「さあ、できたわ、マーシー。お手伝いしてくれて本当にどうもありがとう。そんな優しいあなたが、わたしは本当に大好きよ」
松の樹のテーブルに、マーシーがナイフやフォークを綺麗にセッティングしてくれたのを見て、エステルは微笑んだ――マーシーは顔を赤らめながら、「いやあ、なに、その……俺は君のためなら」とかなんとか口ごもったように呟いている。なんて可愛い初心なお馬鹿さんでしょう!とエステルは思った。そしていつも食事の仕度時には彼とふたりきりでいたいものだと思う。マイクじいさんやヨシュアがいると、「それはエステルの仕事だ」とかなんとか言って、マーシーが手伝いをしようとするのを、いつも邪魔するからである。
マコーマック家でにんじんのクリーム煮やマッシュポテト、かぶの煮もの、ソーセージなどが食卓に並んでいた頃――エゾ松に囲まれたローズ邸でも、あつあつのロールパンや鶏肉のシチューやポテトサラダ、にんじんグラッセやミンスパイなどが夫婦ふたりの食卓に並んでいた。
「今日も美味しそうだ」と言って、アンソニーはローラと向かいあって座ると、食前の祈りを捧げてから、早速パンに手をのばしてシチューをスプーンで掬った。いつだったか、パンをシチューやスープなどに直接つけて食べるのはマナーに反すると、パーティの席でチェスター夫人が孫に話しているのを聞いて以来――彼はそれをやめた。正式の場で無意識のうちにも日頃の癖がでてしまうのではないかという気がしたからである。またチェスター夫人は最後に少しばかり残ったスープやシチューなどを、お皿を持ちあげて飲もうとするのもいけないことだとその時言っていた――だがアンソニーはこちらのほうは相変わらずだった。何故ならローラの作るスープやシチューなどはどれも、一滴でも残すのがもったいないくらい、いつも美味しかったからである。
「あのね、アンソニー。お話があるんだけど、いい?もしなんだったら……食事のあとでもいいんだけど」
実は昼間、ローラとヨシュアが話していることを、アンソニーはほとんどすべて聞いていた。夏場は勝手口のドアが網戸になるので、ふたりの会話はすべてすぐ外にいた彼に筒抜けだったのである。
「なんだい?何か深刻な話かい?」と、アンソニーは何も知らないという顔をして、カブのマッシュを口に運んでもぐもぐ食べた。
「エステルのことなんだけど……わたしたちが学資をだして、聖マグノリア女学院へ入れてあげたらどうかって思うの。あとヨシュアのことなんだけど、あの子はとても絵がうまいわ。口にだしては決してそう言わないけれど……絵描きになりたいという野心があの子にはあると思うの。だから、ロカルノンの美術アカデミーへいかせてあげたらどうかって思うんだけど」
「へえ。それで君はあのふたりが恩を忘れてこのロチェスターへ戻ってこなかったとしても、それで一向構わないってわけかい?」
ローラは即、アンソニーがこの件に反対なのを、その冷たい話しぶりから察知した。それで、暫くの間自分もシチューを口元に運びながら黙ったままでいた。この時点ですでに、夫の言いたいことがどんなことであるか、ローラには聞く前からわかっていたのである。
「エステルは……まだいいよ。あの子は女の子だし、ケイシーの話によると、理数系の科目がずば抜けて素晴らしいみたいだからね。聖マグノリア女学院を卒業して教師の免状でも取得すれば、学校の先生として働きながら、学資を返すくらいのことはしてくれるだろう。だがヨシュアは?彼に雇い人としてやめられたら、また新しい人間に一からものを教えなくちゃならないじゃないか。それに第一、君も知っていると思うけど――この世で絵描きとしてものになるのは、極一部の人間だけなんだよ。昔、俺が住んでいたロカルノンのアパートメントじゃあ、絵描きと名のる浮浪児みたいなのがよくたむろしてたっけね。君の前の御亭主だって、美術アカデミーを卒業しても、結局はこの村に戻ってきて農夫として働いていたんじゃないか。まさかとは思うけど、ローラ――君は彼に同じ道を歩ませたいのかい?」
「そういうわけじゃないわ、あたしはただ……」この頃にはローラは、アンソニーがトミーの話を少ししただけでも、機嫌が悪くなることに気づいていた。だから戦略をあやまったと思った。まずはエステルのことだけを先に話すべきだったのだ。
「そうね。あなたの言うとおり……あの子は男の子ですもの。きっと自分の道は自分で切り開くに違いないわ。今日、ヨシュアと話しあったのはね、あの子自身の将来のことじゃないの。彼はただ……どうかエステルを聖マグノリア女学院へ入れてやってくださいって、あたしに頼んだだけなのよ。学資なら自分が働いて必ず返しますからって」
「ふうん。そうだったのか」すべてを知っているアンソニーは、まったく興味のない様子で相槌を打った。そんなことよりも、今目の前にある美味しいミンスパイのほうが自分にはよほど重要だ、とでもいうように。
「まあ、それなら問題はないんじゃないか。貸した学費がきちんと戻ってくるのなら、俺は一切文句は言わないよ。君の好きにしたらいいじゃないか。ただ俺は返ってくる当てのない者にまで金を貸す主義じゃないんでね――といっても、この家の金は全部、元々は君のものだからね。君がもしどうしてもというのであれば、俺にはそれを止める権利はないよ」
「あたしのお金じゃないわ」と、ローラは哀しく反駁した。「ローズ家の財産は、本来はローズ家の人間のものよ。そういう意味では一番権利のあるのは今はエドおじさんなのよ。でもおじさんは、農場を続けていくという条件で、それをすべてわたしに一任してくださったっていう、ただそれだけのことよ。そしてあたしと結婚して今農場を経営しているあなたは――共同管理者みたいなものだわ。ねえ、そうでしょう?」
そうだ、ともそうじゃないとも言わず、アンソニーはただひたすら、パン、シチュー、カブのマッシュ、ポテトサラダ……の順に、食事を続けた。彼女は今はもう知っているのだ――自分がアンソニー・レイノルズではなく、シェーン・カーティスであるということを。だがあえて黙っていることを選択した。今話題に上っているのもふたりの孤児のことだ。彼女ははっきりそうと口にはださなくても、本当は自分にこう言いたいのだろう――あなただって孤児だったのだから、あのふたりの気持ちがよくわかるでしょう?と。だから他の子供たちと同じくチャンスを与えてあげたいの……とかなんとか、ローラの言いたいことはそんなことであるに違いない。
「ところでエステルには、進学の意志があるのかい?」
このままいくと、久しぶりに居間で煙草を吸うことになりそうだと直感したアンソニーは、不機嫌な口調をややあらためて、肝心なところを聞いた。エステルの本名はダッチェスとか言うらしい……なんともあの子猫ちゃんに相応しい名前だと、アンソニーは心の中でおかしくなった。アンソニーにはヨシュアとエステルが本当の兄妹でないことくらい、先刻承知ずみだった。ただし、あの小僧が自分やユージンのことを嗅ぎまわっていたのはまったく予想外ではあったが。
「それは、ヨシュアがなんとか自分が説得するって言ってたわ。それでね、もしどうしてもエステルが聖マグノリア女学院へいくのを嫌がったとしたら……うちで一緒に暮らすのはどうかって思うの。その、そろそろエステルも年ごろでしょう?あのマコーマックおじいさんの狭い丸太小屋にいつまでもマーシーやヨシュアと一緒にいるっていうのはどうかと思うの。それにマーシーは……あの子のことをとても好いているみたいだし」
「俺はそれには絶対に反対だよ、ローラ」食事を終えてナプキンで口許をぬぐうと、アンソニーは即座に立ち上がった。「あの子が見た目どおりの娘でないことくらい、俺は先刻承知ずみだからね。あの年ですでに色目の使い方を知っているだなんて、まあ大したものだよ。それはともかくとして、君もいいかげんお人好しがすぎるんじゃないか?結局最後に傷つくのは君自身なのに」
ローラはアンソニーが最後に投げかけた言葉に、一番傷ついた。そうだ。ヨシュアも言っていたっけ。エステルは見た目どおりの女の子じゃないって……それとあたしがあんまりお人好しすぎて心配だとも……こうしてふたりの人間が同じことを言う以上、それは真実であるに違いなかった。自分にはもしかしたら、人の本質を見抜く目がないのかもしれない。夫のことに関しても……。
「そんな顔をするものじゃないよ、ローラ。出掛けにくくなるじゃないか。ようするに俺が言いたいのはこういうことさ。君はとても気立ての優しいいい女だけれど、少し人に騙されやすいんじゃないかと思うよ。でも俺はそこらへんのことに関してはしっかりしてるつもりだからね――ずっと都会の底辺で生きてきて、抜け目なくやるやり方を学んできた。だから俺たちは夫婦としてちょうどいいんじゃないか?君には俺にない優しさがあるし、俺には君にない抜け目のなさと計算高さがある。こう言ってはなんだけど、ローラのやり方でいったら、この農場はとっくの昔になくなってるよ。でもそれでいいんだ。俺がこんなに――君のことを愛しているんだからね」
ローラは夫に向かって無理に微笑もうとしたが、愛しているとは言えなかった。愛しているならどうして――シェーン・カーティスという本当の名前を、自分に明かしてはくれないのだと、小さな不信の種が心の中で芽をだそうとしていたからだった。
「ちょっと、ユージンのところへいってくるよ。この間――ええっと、なんだっけ?ローラがカルダンの森とか呼んでるうちの裏手の森――そこでね、見事な銀狐を見たんだ。あれを仕留めれば一万ドルはくだらないっていう話だから、そのことをユージンと少し話しあってくるよ」
アンソニーは心のこもらないキスをローラの額にひとつすると、勝手口からでていった。続く車のエンジンの音と排気音……ひとりきりで食堂に残されて、ローラはさびしく食事をしたが、これから自分が大切にしているカルダンの森を、夫のアンソニーの手によって荒らされるのかと思うと――突然耐えられなくなってスプーンをシチューの深皿の中へ落とした。
「助けて……ルベド……」
ローラは久しく口にしなかった自然の精であり、自分の幻の恋人でもある人の名を呼んだ。アンソニーと結婚して以来、日々の忙しさに追われて――それでも以前はどんなに忙しくても、彼との逢瀬を何より大切にしていたのに――ルベドはローラの意識の中で、その存在が薄れてきていた。だがルベドのほうでは――これはローラのあずかり知らぬことではあったが――彼女と違い、そのことを不実だと思うことはまったくなかった。人間が神の存在をまったく忘れている間も、神が人間のことを忘れぬことはないように――ルベドもまたそうであった。そしてこの時彼はローラの小さな声にならない呟きを聞き、またその心の願いを聞き届けるつもりでいた。ここ二年ほどの間にカルダンの森近辺では狐や貂、野うさぎなどが乱獲され続けており――彼としてももうそろそろ重い腰をあげて、人間どもに思い知らせてやろうと考えていたからである。