第12章
「ローラ、ただいま帰ったよ」
珍しくアンソニーは、台所の勝手口からではなく、正面玄関から我が家へと入ってきた。ローラは車の停まる音で、夫の帰宅には気づいていたが、まさかお客が一緒とは思っていなかったので、少しばかり慌ててしまった。
「おかえりなさい、アンソニー」軽くキスを交わしたあとで、ローラは小さな声で聞いた。「そちらのお客さまは……?」
いかにも都会風の洋服を着たステファニーのことを、ローラは思わず警戒せずにはいられなかった。小麦の穂のような黄金色の髪を、三つ編みにしてきっちりと結っているステファニーは、どことなく物腰が洗練されている上、その聡明な碧い瞳には羨望とも嫉妬ともつかない、複雑な感情が浮かんでいたからだ。
「こちらはミス=ステファニー・ゴードン。ミスといっても、君の前の御夫君、トミー・フラナガン殿の親友のカーティス・グラントさんと御婚約中の身だけれどね――来春には結婚する予定なのだそうだよ」
「まあ、それはおめでとうございます」ローラはアンソニーの、妙に丁寧な物言いが気になったが、トミーの親友と婚約中と聞いて、また何よりこの女性がおそらく――かつて自分が嫉妬したことさえあるステファニー・ゴードン嬢なのだということに、すっかり驚いてしまっていた。
「じゃあ、トミーの美術学校時代のお友達の方なのね。お会いできてとても嬉しいわ――是非一緒に夕食を召しあがっていってくださいな。今日は雇い人たちもおりませんし、三人でゆっくりお話ができるわ」
「僕もそのつもりでお連れしたのだよ、ローラ。何しろ彼女は下宿先のマックルーアさんのところで、ろくな食事をいただいていないそうだからね。そうだ、ローラ。彼女がこの村にいる間は――いつでもステファニーの好きな時に、うちへ食事にきてもらおうじゃないか。これから冬になれば、しなければいけない農作業もぐっと減るしね、食事なんて、ふたり分でも三人分でも、そんなに変わるものじゃないだろう?」
「ええ、でも……」と、ローラは困惑したようにステファニーのほうをちらと見た。
「それはいけないわ、アンソニー」ステファニーはローラの眼差しを受けて、きっぱりとした口調で言った。「それにわたしとしても新婚家庭にそうしょっちゅうお邪魔するほど、野暮じゃなくってよ。ただ時々――料理を教えていただくのに伺ってもいいかしら、ミセス=レイノルズ?そして女同士の話をたくさんしましょうよ」
「やれやれ。それじゃあ男の俺に聞かせられない話が、君たち女にはたくさんあるってわけだね?夕食の席で夫には聞かせられない悪口とか……ローラ、不満があるのなら夜寝る時にでもはっきり僕にそう言ってほしいものだけれどね」
アンソニーはからかう調子でそう言っただけだったが、ローラはステファニーに対してだけでなく、そんな夫の態度に対しても困惑せずにはいられなかった――いつもは自分のことを<俺>というのに、ステファニーの前では<僕>だなんて!ローラは三人で食卓に着くと、そのあとも尽きることなく昔の思い出話や都会の面白おかしい、ロチェスターのような田舎ではまず聞くことのできない、珍しい話題に耳を傾けたりしていたが――ステファニーの口からトミーの名前がでるたびに、正直いって胸が一瞬どきりとするような、気まずい思いをアンソニーの前で隠すことができなかった。
「それでね、トミーは学内の品評会で自分が次席だったものだから、すっかり自信を失ってしまったの。わたしやカーティスによくこう言っていたわ――フィリップ・ガイヤールのような人間こそが真の天才なのであって、彼の才能に比べたら自分など、ちょっと絵がうまいという程度の、凡人にすぎないって。もちろんわたしやカーティスは即座に反論したわ――それじゃあ、次席以下のわたしたちはただのヘボ絵描きっていうことになるじゃないのって。でもそのフィリップも今では、あの有名なボールドウィン博士の保養地にいるのよ――砲弾を受けて右腕を失ったフィリップは、すっかり精神を病んでしまったの。今は一生懸命左腕で絵を描く練習をしているらしいけど、一方的に婚約を破棄されたメイベル・ワズワースがいつも涙ながらにわたしに言ってたわ――彼のそばについていてあげたいけれど、ボールドウィン博士にとめられてるんですって。暫くの間はひとりで静養させてあげたほうが、よほど彼のためになるって……」
「まあ……」ローラはあまりの話に、目尻が涙で濡れるのを感じた。そうだ。そういえばトミーは一度、絶望的な口調でこう言っていたことがあった。あれは確か……ロカルノンへいって初めて帰ってきた夏休みのことだ。学校には自分くらいの才能の人間などゴロゴロいるとか、才能の限界を感じるとか並べたてたあとで――これで君にまで振られたら、僕の人生には何もないなどと、悲観的なことばかり言うものだから、わたしは――いつまでもそんなふうになめくじみたいにぐじぐじしていればいいんだわ、なんて、そんな冷たい言葉を何も知らずに浴びせたのではなかったかしら?
その他にも、ローラの知らないトミーの一面や、美術学校時代でのことがステファニーの口から語られるたびに、ローラは温かい涙が溢れてくるのをこらえきれなかった。彼がどんなに学友たちから愛される人であったか、警察に捕まった時も、逃げようと思えばそうできたのに、他の仲間のことを思ってあえてそうしなかったことなど――ローラはその彼に向かって自分はなんと言ったのかを思いだしては、トミーにすまない気持ちになった。
そしてアンソニーは、最初のうちは他愛のない都会の話などで盛り上がっていたのに、トミー・フラナガンの話からふたりがこのまま永遠に抜けでることができないのではないかと見てとると――ひたすらワインのボトルをクリスタルのカットグラスについだ。ステファニーはそんなアンソニーの態度を何故か、優しく温かく昔の夫の話を見守る現在の御亭主……というように見ていたが、アンソニーはステファニーが帰る頃には、すっかりできあがっていたのである。
「おお、ローラ!そんなに泣かないで――でもわたし、どうしてもあなたに一度はお目にかかって、こうしてトミーの思い出話をしたかったの。だってトミーはずっと……わたしの憧れの人だったのですもの」
この夜、ローラとステファニーは互いに、奇妙な友情で結ばれていた――ステファニーはローラに対して、嫉妬と羨望という感情が入り混じりながらも、それでいてローラのことを愛さずにはいられない気持ちになっていたし、それはローラもまったく同じであった。ステファニーからトミーの話を聞いていて、彼女がトミーに対して憧れ以上の感情を持っていたことに気づいても――むしろ今では何故か、彼にそういう女性がいたことを嬉しくさえ思う自分がいるのが不思議だった。そしてかつて一度、トミーとステファニーの間に何かがあったのではないかと邪推した自分が、ひどく恥かしく感じられたのであった。
「ステファニー、わたしもとても嬉しいわ。トミーがそんなにたくさんの人に好かれていただなんて――それにやっぱり彼には才能があったんだわ。今ごろもし生きていたら……いいえ、戦争にさえいかなかったら、画家として有名になってさえいたかもしれないわ。それなのにわたし……本当は彼のことをちっともわかっていなかったのかもしれないって、そう思うの」
「そんなことないわ、ローラ」と、デザートのブルーベリーのパイに手をつけることもなく、ステファニーはローラの椅子のところまでいくと、まるで愛人に対するように彼女のことを抱きしめた。感情の高ぶりを抑えきれず、ステファニーもまたとめどなく涙を流していた。果たして、トミーが心から愛した女性を、自分が愛さずになんていられるだろうか!
「トミーはいつも言っていたわ。自分はローラのことを基準に物を考えるんだって。彼女ならこんな時なんて言うだろうとか、ローラならこうするに違いないとか……それに、トミーはローラほど自分の魂を理解してくれる人は他にいないとさえ言っていたのよ!」
それを聞いて、わたしはどんなに嫉ましい気持ちになったか――とは、ステファニーは言葉にださずにおいた。アンソニーはその頃になると、グラスを片手に食堂をでていき、居間のソファでパイプをふかしていた。ステファニーに悪気がないことはわかっていたが――それでも、自分の元の同僚を絞め殺してやりたいくらい急速に憎らしくなっていた。容姿の美しい彼女を連れてきて、ローラの知らない都会の話でもすれば、妻が少しは自分にやきもちを焼くかと思いきや――いや、最初のうちだけそれは確かに成功していたのだが――今ではまったく逆の立場に自分が追いこまれているとは!策士、策に溺れるとはまさにこのことだとアンソニーは思い、紫煙をくゆらせながら苦笑した。
(今ごろもし生きていたら?戦争にさえいってなかったらだって?……ああ、そうだろうとも。そうしたら俺なんかと結婚してやしなかったろうさ!)
アンソニーは葡萄酒の入ったグラスを、マントルピースの上のトミー・フラナガンの写真に思いきりぶつけてやりたくなった。アンソニーはぐっと割れそうなくらい、グラスを握りしめ――まだ微かに残っている理性でもってその衝動をどうにかこらえた。そしてステファニーを夕食に誘いさえしなければ、こんなに惨めな思いをすることもなかったのにと、くっくっと喉を鳴らして不気味に笑った。
(天の向こうの元御亭主さんよ、さぞかしあんたは幸せなこったろうねえ。俺なんか、あんたのかわりに農作業をするために雇われた、雇われ亭主みたいなもんだ。そうやって写真の向こうから得意そうに笑ってやがるんだろ?ええ?)
食堂から鬱陶しいすすり泣きが聞こえなくなったかと思うと、兎のように目を赤くしたステファニーが居間へでてきて、アンソニーの隣に座った。彼女はまだこの時になっても、アンソニーが夫として理解のある態度をとっていてとても立派だと考えていた。
「ごめんなさいね、アンソニー。夕食の席で湿っぽく泣いてしまったりなんかして……でも本当に今日はディナーに招いてくださってありがとう。あんまり遅くなると、下宿屋のマックルーアのおかみさんが何かとうるさく言うと思うから――そろそろ帰ることにするわ」
「泊まっていけばいいじゃないか」と、強い理性に突然呼び覚まされて、アンソニーは心にもないことを言った。本当は一刻も早くステファニーには帰ってほしかったが、下宿屋まで彼女を送っていくのが面倒でもあった。本音をいえば『ひとりで歩いて帰れ!』と言いたいところだったが、アンソニーは紳士としての仮面を再び被り、ステファニーのことをしぶしぶ車で送っていくことにしたのである。
「じゃあローラ、ちょっとステファニーのことを送ってくるよ」
(ああ、嫌だ嫌だ。俺はここでもまた、ローラの前でいい亭主を気どろうとしている――でもとりあえず今は仕方ない。何分、ステファニーのことを夕食に誘ったのは俺なんだからな。自分で蒔いた種は自分で刈りとれってことだ……)
ローラはステファニーと違い、自分の夫が大分酔っているようだと見抜いて――ステファニーにしきりに泊まっていくよう勧めたが、今度はアンソニーのほうが、ステファニーのことを送っていくといって譲らなかった。
「マックルーアのおかみさんが口うるさいってことは、君だって知っているだろう、ローラ?保険の外交員っていうのは、何より信用第一の商売だからね――今ならなんとかぎりぎり門限の十時に間にあうよ。変な噂を立てられて、ホールデン生命の支所が潰れたりしたら大変だ」
電話を一本かければすむことじゃない、とローラは喉まで言葉がでかかったが、夫の目が座っているのを見て、それ以上何も言うことができなかった。アンソニーはなんとか理性を総動員して、ステファニーの前では酔っていない振りをし――無事彼女を下宿先まで送り届けたあとで、しきりに罵詈雑言を吐き散らしながら、物凄いスピードで車を運転していった。その時の様子を見ていたマイケル・クレイマーは(ありゃローラの旦那でねえだか。奴さん、とうとういかれちまったんじゃあるめえな)と思い、また次の瞬間にはスミス雑貨店のストーブのまわりで話す噂話の種が増えたことに、心の中でほくそえんだのであった。
その夜、アンソニーは深夜になるまで戻らなかった。彼がしきりに闇の中へ向かって罵詈雑言を吐いているうちに――彼の前方にはまるで自分の分身のようなトミー・フラナガンの幻がいつの間にか現れていた。そして彼は色々なことをアンソニーの精神に囁きかけた――ローラは心の底では本当は自分のことを一番愛しているのだとか、おまえはただ単に姿形がそっくりなだけだとか、そんなようなことを――アンソニーはトミー・フラナガンの幻を追いかけまわしながら、やがて彼の幻が消えてなくなるまで――事故に遭わなかったのが奇跡としか言いようのないスピードで村のまわりを排気音も高らかに走りまわった。そしてローラの亡き夫の幻が前方の闇の中から消えてなくなると――「どうだ、参ったか!」と高笑いをしながら物凄い勢いで今度はブレーキをかけ、ハンドルをひねってぐるりと車を反転させると、愛しい妻の待つ、エゾ松に囲まれたローズ邸へと引き返していったのだった。