第11章
しかし、計画というものはまさに狂うためにこそ存在するものだ。
まるで慣習や規則といったものが打ち破られるために存在するように、ジョンとシェーンこと、ユージンとアンソニーの間でも、微妙に計画の歯車が狂っていった。まず結婚して半年ほどして、相手にめろめろになったのは、ローラではなくアンソニーのほうであった。また彼は、労多くして実り少ないように感じられる農業の仕事を最初は軽蔑していたのだが――農夫として初めての収獲を迎える頃には、すっかりその生活にも馴染んで、やり甲斐さえ見出していたのである。今では毎月定期で購読している『農耕の友』が、まさしく彼の精神的な友のようにさえなっていたくらいだ。
「なあ、ローラ。いつも気になっていたんだけれど、この『農耕の友』に毎月掲載されている広告を君はどう思う?」
有難いことに、その年も作物の収獲はほぼ平年並みであった。夏の終わりに襲った嵐が、林檎に大きなダメージを与えはしたが――他の農場とは違い、ローズ家の果樹園は何故か奇跡的に守られていた。
「広告って……収穫機や脱穀機の広告のこと?」
ローラは揺り椅子に座って収穫祭のバザーにだすためのタペストリーを縫っているところであった。明日は明日で明後日にせまった収穫祭のため、村の公会堂の飾りつけを手伝わなくてはならないし――お祭りに出品するための様々な料理もこしらえなければならないしで、やることがちょっと考えただけでもたくさんあった。
「そうだよ。うちにもしこの新式の収穫機と脱穀機が一緒になったものがあれば――作業が遥かに能率的になるだろう。それとこの搾乳器。あれば便利だと思わないか?そうしたら君も毎日乳搾りなんていう面倒くさい労働から解放されるわけだし――」
「ちょっと待って、アンソニー」ローラはタペストリーに房飾りをつける手をとめて言った。「わたし、べつに乳搾りが面倒だなんて思ったことないわ。そりゃあ毎日、大変といえば大変かもしれないけど――わたしは昔ながらのやり方が好きなのよ。もちろんわたしだって、ミルズ夫人みたいに、最新式の機械をなんでも悪魔の手先だなんて思いはしないけど――わたしが不自由を感じない以上は、それでいいと思うのよ。それと収穫機と脱穀機のことだけど、それは村の農業組合の集まりで先に話しあったほうがいいんじゃないかしら?うちでその最近式の機械とかいうのを買ったとしたら――結局、村中の人が貸してくれっていうのに決まってるわ。それなら村で購入して、みんなで共同でかわりばんこに使ったほうがいいと思うの。あなたも知っているでしょう?広告には色々、胸躍るような歌い文句が書いてあるけど――最新式のものはなんでも、壊れやすくもあるのよ。かといって業者のほうでいつでも取り替えたり修理してくれたりするわけでもないし――高価な買い物をする時には、やっぱり慎重になったほうがいいと思うの」
「確かにそのとおりだね、ローラ」アンソニーはつむじを曲げたように、居間のソファに腰かけて煙草を吸いはじめた。いつも彼はローラと意見が合わないような時には、必ずといっていいほど、彼女の嫌いな煙草を吸いはじめるのだ。
「ごめんなさい、アンソニー」今ではローラは、夫が煙草を吸うような時には、自分からあやまるようになっていた。「もしあなたがどうしてもその機械を欲しいなら――購入するといいわ。でも農業組合で必ずその話を一度してみてちょうだい。じゃないと、変に嫉妬する人とかが必ずいるのよ――それと搾乳器のことは、気にしないでほしいの。これも今、村で何人かの人が使ってるみたいだけど、うちにはまだ必要ないもの。いずれ必要になったら買えばいいわ。それとあなたが以前から欲しがってた車のことなんだけど……」
ローラはアンソニーの隣に腰かけると、新式の収穫機や脱穀機にかわる妥協案として、彼の欲しがっていたフォード車の話をすることにした。
「そんなに欲しいなら、買ってもいいわ」
アンソニーはローラの許可なしにローズ家の財産を動かせないことを、それほど不満に思っていたわけではなかったが――車のことだけは話が別であった。ロカルノンでは車と馬車が交通渋滞の元になっているが、ここロチェスターでは――車はおろか、自転車に乗っている者さえまだひとりもいなかったのだから!
「本当にいいのかい?ローラ」
アンソニーは口からパイプをはずすと、妻の瞳の中に本当は不満に思う感情が潜んでいるのではないかと、用心深く探った。だがローラの蒼い瞳の中には、ただ夫に対する申し訳ないような気持ちが浮かんでいるのみであった。
「わたしはただ――心配だっただけよ。あなたがあんな物騒なものに乗って、事故にでもあったらどうしようって――もっとも、ミルズの奥さんはあんな悪魔の乗り物に乗るくらいなら、死んだほうがましだとおっしゃるに違いないけど」
アンソニーはローラの肩を抱いて、さも愉快そうに笑った。彼はロカルノンに住んでいる頃からずっと、フォード車の黄色い車が欲しくてたまらなかったのだ――それがとうとう手に入る!しがない保険の外交員の給料では、なかなか手に入れられない代物だが、ローズ家には車一台買うくらいゆうにわけない資産があるのだ。
アンソニーはその夜、いつにもましてローラと深く激しく愛しあった。ローラがそう望んでいるように、アンソニーも今では自分の――自分たちの子供が欲しかった。ユージンの前では今でも、それほど妻を愛しているわけではないふりをし、また早く子供が欲しいだなどと、口が裂けても言う気はなかったが、一生をかけて自分が守るべき土地と家族とを得たことが、今ではすっかり彼の考えを変えてしまっていた。最初は彼に反感を持っていた村の人間も、アンソニーが今年、例年どおりの収穫を上げたのを見て、彼のことを見直さないわけにはいかなかったし、何よりローズ家にはこれまで村や教会の公的活動に大いに貢献してきたという長い歴史があった。またローラが何故都会の人間と結婚したかについても――アンソニーの顔を見れば、誰もが納得しないわけにはいかなかったし、実際のところ、アンソニーは人好きのする、つきあいやすい人間でもあったからだ。そう自分の見せかけをとり繕うために、彼がどれほど苦心していたかを、村中の人間が誰も理解しなかったにせよ。
それから、アンソニーにとっての誤算は、まだ他にもあった。アンソニーはローラのことを本気で愛するようになるとともに、彼女の前の夫――トミー・フラナガンに対して、これまで誰にも感じたことのないような、激しい嫉妬に悩まされるようになっていた。彼が戦地の兵舎病院で、どのような死に方をしたかを聞いたあとでは、なおさらであった。アンソニーは自分が戦争へいくことなど、想像してみたこともなかったし――毎日新しい生命保険の加入者を得るためだけに悪戦苦闘するような生活であったから、新聞なども見出しをちょっとなぞるだけで、自分から志願して兵役につこうなどと考えてみたことは、ただの一度としてなかった。
「トミーは本当に素晴らしい人だったわ」
そう言ったのは、ローラではなく、ロカルノン美術アカデミーで彼と同級生だったという、アンソニーの後任としてロチェスターの支所に派遣されてきたステファニー・ゴードンであった。ローラは滅多に前の夫の話など自分からはしなかったし――そうなるとアンソニーとしてはますますトミー・フラナガンのことが気になって、ステファニーに彼のことを詳しく聞かずにはおれなかったのである。
「わたし、ずっと彼に片想いしていたのよ」と、ステイシーは郵便局の隣に新しく作られたホールデン生命の事務局で、アンソニーとふたりきりの時に言った。「このこと、ローラには内緒にしてね。気を悪くするといけないから……ローラはカーティスの言っていたとおり、とても魅力的な人だわ。トミーが仲間と一緒に警察に捕まった時、一度だけ彼女を見たことがあるんですって。まず勝ち目はないから諦めろって、彼はその時そう言ったの」
「カーティスって、君の今の婚約者の、カーティス・グラントのこと?」
「ええ、そうよ」ステファニーは懐かしい自分の青春時代を回想しながら、まだ内装の整っていない新しいオフィスで、アンソニーと立ったまま、窓の外を眺めていた――どこまでも広がる丘陵地帯を。
「いわゆる三角関係っていうのかしら?あたしはトミーが好きで、カーティスはあたしのことが好きで、そしてトミーはローラのことが好きで――でもあたし、トミーが戦地の兵舎病院で亡くなったと聞いてからも、彼の求婚を受ける気持ちにはなれなかったの。カーティスはいつまででも待つって言ってくれたわ――そしてあの移り気でいいかげんな男が、本当に自分を愛してくれてるんだって、ようやくあたしにもわかったの。ちょうどロカルノン美術アカデミーの講師の席に空きがあってね、彼は現代美術を教えることになったのよ。それで、来年の春くらいに結婚する予定なの」
「じゃあ、僕が君に引き継いだ仕事は……」
ステファニーの小麦色の髪が、丘陵地帯に暮れゆく夕陽の光を反射して、とても綺麗だった。刈り入れの終わった畑の畝が、どこまでも続いている……秋蒔きのために畑を耕していた村長のステファン・アーヴィングが、鍬を片手に小作人たちと一緒に、村役場の休憩所へと引き返してくるところだった。そして六時を告げ知らせる鐘が、隣の役場から鳴り響いてきた。
「その点はちっとも心配いらないわ、アンソニー」ステファニーはこのあたりの娘がこれまで見たことのないタイプの、機能的な洋服を着ていた。ストライプのブラウスに灰色のチョッキと揃いのスラックス。襟元には藍色の大きなリボンをつけている。彼女は帽子掛けから小さなねずみ色の帽子をとると、屈託なく笑った。
「わたし、結婚してもこの仕事を辞める気はないの。来年の春にはこの支所にはべつの新入社員がくる予定よ――それで、アンソニーから引き継いだ顧客は、またわたしのものになるはずだわ。みなさん、寂しがってらっしゃったわよ。あなたがこんなど田舎に引っ越したのは何故なのかしらってしきりに不思議がってらっしゃったわ。だからわたしマダムたちにこう言ってやったの。アンソニーは向こうでとびきり綺麗な奥さんを持って、農夫として幸せに暮らしているはずですわって」
「そうか」大きな声で笑いだしたいのをこらえて、アンソニーもまた、帽子掛けから自分の麦藁帽をとった。服装はツイードのニッカーボッカーだ。どこからどう見ても農夫として遜色はあるまいと、自分でもそう思う。
「今夜、夕食でも一緒にどう?ローラもきっと、君から亡くなった旦那さんの話を聞きたいだろうからね――確か今晩は真鴨のシチューとか言ってたっけな」
「真鴨のシチュー!」ステファニーはアンソニーの車の横に乗りながら、驚いたように目を見張っている。「あまり大きな声では言えないけれど、下宿先のマックルーアさんの出す食事ときたら、しみったれていて、それはひどい代物なのよ――きのうの夕ごはんなんて、牡蠣のスープにカブの煮たのがぽっちりだったわ」
「牡蠣のスープ!」車にエンジンをかけると、今度はアンソニーがからかうように叫んだ。「それじゃあ、そんなに悪いとも言えないんじゃないかね?ウィングス・リング港で出荷される牡蠣は、この東部地帯の名産品のひとつなんだからね――いいじゃないか、カブの煮たのがぽっちりでも」
「あら、アンソニー。わたしだって、それが水揚げしたばかりの新鮮な牡蠣だったら文句は言わなかったでしょうよ――でもあれは間違いなく缶詰の味だったわ。しかも一緒にでてきたパンは固いし、もう本当に嫌になっちゃう。かといって、この村には気の利いたレストランひとつないんですものね。トミーから話としては聞いていたけれど、ここまでひどいとは思わなかったわ」
「やれやれ。どうやら僕たち都会の人間は思った以上に舌が肥えているようだ。でもステファニー、きっとそんな都会育ちの君でも、ローラの料理には満足するだろうよ。僕はここへきてからこっち、都会の料理が恋しくなったことなんかただの一度もない。かのロカルノンホテルのディナーの味でさえもね」
「まあ、羨ましいったらないわね、アンソニー」晩秋の涼しい風を受けながら、ステファニーは真新しいピカピカの黄色いフォード車を眺め、また隣でこの愛車をいかにも誇らしげに運転しているアンソニーのことを交互に見た。彼はロカルノンにいた頃より、陽に焼けて顔色もずっとよく、とても幸せそうだった。そしてこう思った。きっとトミーも、彼とまったく同じように感じていたに違いないと……。
アンソニーは運転に夢中で、ほとんど前しか見ていなかったが、その時ステファニーの表情には、かつて好きだった相手を思う、愛情が溢れていた。そして彼らはふたりとも元は都会の者であったので、雑貨店や鍛冶屋、製材所などの並ぶ大通りを自動車で走る自分たちを見た村の者が、何をどういうふうに感じるかをまったく知らなかった。村役場をでようとしていたステファン・アーヴィング村長も、雑貨店をちょうど閉めようと思っていたスミス夫妻も、鍛冶屋の前で立ち話をしていたマイケル・クレイマーとトマス・マックデイルも、製材所でまだ機械を動かしていた雇い人たちも――一様にこう思った。
(あの女はあのうさんくさい生命保険会社から来たといっていたっけ。ということはいわばまあ、アンソニーの後任ということになるのだろうか?それにしてもあの女とは思えないような服装はどうだろう――男がワイシャツにネクタイを締め、チョッキを着て正装する時のような格好をして。しかもアンソニーを見るあの表情――果たしてローラはこのことを知っているのだろうか?自分以外の女がなんの断りもなく図々しく隣に座っていることを……なんでも都会じゃあ、男女関係が乱れて堕落しているという話だから、あのアンソニーとかいう男もわかったものじゃないよ。あんな、気違いみたいな車を毎日乗りまわしているところからしても、正気の沙汰とは思えない)
そして電話交換手の仕事を終えて、郵便局へちょっと寄り、歩いて家へ帰ろうとしていたアリシア・クロフォード・マックデイルもまた――自分のすぐ隣を砂埃を蹴立てて去っていった、村にたったの一台きりの車を見て、にやりと笑ったのだった。
(これでまた、裁縫の会の時にでも、ローラのことをちくっと刺す、格好のいい噂話をばらまけるわ)
と――。