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第10章

「その……ローラ、あたしとしてもこんなことは言いにくいんだけどね、みんなが言ってるみたいに、あんたの夫になった人は、そんなにトミーに似ているのかい?」

 ジョスリンが仲直りのしるしに持ってきたのは、ビスケットやクッキー、ミンスパイ、フルーツケーキに糖蜜のタフィなどだった。ローラは熱くて香りのいい紅茶を淹れながら、これまで喧嘩したことなど一度もなかったかのように、それらのお菓子を見て嬉しそうに優しく微笑んでいる。

「そうね。髪の色は違うんだけど――青くて灰色をした瞳や、鼻筋のとおった感じとか、顔の輪郭なんかは似ていると思うわ。でも生き別れた双子の兄弟みたいにそっくりかっていったら、そういう似方でもないのね。なんて言ったらいいかしら……もう少ししたらお昼を食べに戻ってくるでしょうから、その時あらためてご紹介しますわ」

「じゃあローラ、あんたは……その保険の外交員をしていたっていう男が、トミーに似ているからうちのフレッドを振ったのかい?いや、そのことはあたしももうなんとも思っちゃいないし、ひどいことを言って本当にすまなかったと思ってる。でもあんたはその……その男をトミーのように本当に愛しているんだろうね?」

「もちろんですわ、おばさん」と、ローラはジョスリンのミンスパイを皿に切り分けながら笑った。「わたしもずっと迷ってはいたんです――彼が月に一度、うちへやってくるたびに。自分はただ単に彼がトミーに似ているから好きなんだろうかって、何度も繰り返し自問自答して……でもわたしたちには生まれ育った環境とか、共通点がとても多くて、こういう形の愛っていうのもあるんだなって、最終的にはそう思うようになったの」

「こういう形の愛って?」

 恥じらうように微笑むローラからは、確かに新婚の主婦の、新婚の娘にしかない幸福なオーラのようなものが漂っていた。それでジョスリンはある意味安心はしたものの、ローラの言うことにはあまり合点がいかなかった。いくら顔が似ていても、内面がまるでトミーと似ても似つかなかったとしたら――それは結局、不幸な形で終わってしまいはしないだろうか?

「あ、おばさん。アンソニーたちが畑から戻ってきましたわ。本当にごめんなさいね、本来なら、わたしたちのほうから前もって挨拶いにくのが筋ですのに……」

「そのことならもういいんだよ」

 嬉しそうに台所の窓から外を見るローラにつられるように、ジョスリンもまた椅子から立ち上がった。自分もそろそろおとうに昼食をだすために、家へ戻らなくてはならなかったが――とにかくまずはアンソニーという男を一目見て、軽く挨拶をすませてからだとそう思った。

「アンソニー。こちら隣のジョスリン・フラナガンさん。おばさんにはこれまで、言葉では言い表せないくらい、よくしてもらっているのよ」

 アンソニーは泥おとしのマットのところで長靴の泥を落としながら、ジョスリンのことをちらと見やった――後ろからユージンとマーシーとヨシュアの三人が、何かふざけあいながら笑ってやってくる。

「ローラから何度もフラナガン夫人のお話はうかがっています……やあ、なんだか今日はクリスマスみたいにご馳走がいっぱい並んでいるね。どうしたの?」

「ジョスリンおばさんが持ってきてくださったのよ。お昼ごはんがすんだら、デザートにだすわね。おばさんのお菓子はどれも折り紙つきの美味しさなのよ」

 これからよろしくお願いします、とアンソニーが手を差しだしても、ジョスリンは呆然とするあまり、握手することさえできなかった。ジョスリンは男が勝手口に入ってきた時から――雷に打たれたように、あるいは金縛りにあったように動けなくなっていたからだ。

 アンソニーは差しだした長い腕を引っこめると、ジョスリンに一礼して、食堂の自分の席に着くことにした。ずっと植えつけの作業に専念していて、これ以上もないくらいお腹がすいていた。それで自分が彼女の一番末の息子にそっくりだということを彼はすっかり失念していたのだ――ローラから何度か、もしかしたらおばさんはショックを受けるかもしれないと聞かされていたにも関わらず。

 ユージンもマーシーもヨシュアも、儀礼的にジョスリンに挨拶して通りすぎると、すぐに食堂の食卓へ着いた。三人ともお腹がぺこぺこで、とにかく腹ごしらえしないことには、頭がまともに回転しないくらいだったからだ。

 そしてユージンは、フラナガン夫人が驚愕に震えるような表情をしていたのを昼食がすんでからふと思いだし――昼からの作業へつく前に、ローラにこう聞いた。

「そういえば忘れていたけど、ローラ。フラナガン夫人がアンソニーのことを見たのは今日が初めてだったんじゃないかい?あの人、なんだか少し様子がおかしかったものね」

「ええ」ローラはユージンと、油断なく距離をとりながら答えた。それは以前プロポーズされたからとか、そういうことではなく――野生動物が本能的に自分を守ろうとするのと同じ、条件反射のような反応だった。

「きっとあんまりびっくりなさったんだと思うわ。あたしだってあの人に初めて会った時、どんなに驚いたか――おじさんにお昼ごはんをださなきゃいけないって言ってすぐ帰られたけど、おばさん、勝手口のドアをでる時には、泣いてらしたのよ」

「そうか」と、素っ気なく言ってユージンは林檎をひとつ齧り、アンソニーとマーシー、それからヨシュアのあとを追った。そして畑地まで歩いていきながら、少しだけ不思議に思った――自分はローラの前の亭主であるトミー・フラナガンに初めて出会った時、べつに少しも驚きはしなかったのだ。そういえば誰かに似ているなとは思ったが、そのあと大分しばらくしてから幼なじみのアンソニーの顔を思いだしても、驚愕に震えるようなことはまったくなかった。

(これはやはり、彼が死んでいるからなおさらなのかな)とユージンは考えた。(まあなんにせよ、俺はアンソニーが幸せならそれでいいんだ。あいつは俺にとって……唯一の身内みたいなものだからな)

 ユージンはアンソニーがローラと結婚する前に、ローズ家の収獲のお金を三千ドル盗んだこと、またそれが原因で彼女の伯父が心臓発作を起こして亡くなったことをすべて話していた。彼とアンソニーの間には、小さな頃から隠しごとをしたことなど、一度もなかったからだ。

「そうか。でもこう言っちゃなんだけど、そのほうが俺には好都合だったかもしれないよ」と、アンソニーはユージンのとり散らかった埃だらけの丸太小屋で笑いながら言った。

「もちろんローラには気の毒だったとは思うけどね――どうせそのおじさんも年だったんだろ?そんなのはジョンのせいじゃないさ。そんなくだらないことでくよくよするだなんて、まるでおまえらしくないじゃないか」

「ユージン・メルヴィル」と、テーブルの上にどっかとブーツの足をのせながら、ユージンは訂正した。「くれぐれも人前で名前を間違えないよう、気をつけてくれ。実はそのことでこの村の巡査殿に目をつけられてるんでな。あの野郎、俺が聖フェリシア孤児院の出であることや、アレックス・アーチャー会計事務所にいたことまで調べやがった。もっともまあ俺にもよくはわからないんだ。あんな三千ドルなんていう端金を盗む必要なんかこれっぽっちもなかったのに――なんでそうしちまったのかね」

「確かにそのとおりだね、<ユージン>」アンソニーは天井の垂木から吊るしてあるハムをとると、それをジャックナイフで切りとって食べた。ユージンにも何切れかナイフにのせて渡してやる。「何しろ君は五十万ドルもの大金の持ち主なんだからな――べつに農場で雇い人として働いたり、製材所で汗水流して働く必要もないのにさ、なんで今だにそうしてるんだい?」

「決まってるじゃないか、シェーン。連中にあやしまれないためだよ。もっとも、アレックス・アーチャーが罪をすべて引っ被ってくれてるのでね、俺がよほど出所のはっきりしない金の使い方でもしないかぎり――警察が動きだすってことはまずありえないだろうがね」

「ユージン、おまえも気をつけてくれよ。俺の名前はアンソニー・レイノルズだ」ジョンがあえてわざと自分の本名を呼んだのだと気づいていながら、アンソニーは愉快そうに笑って訂正した。「まあ、ふたりっきりの時には構わないけどね。そういえば奴さん、執行猶予なしの、実刑十年とか言ったっけ?」

「らしいね」と、ユージンは肩を竦めている。「裏の帳簿の管理をすべて俺にまかせたのがあいつの命とりってわけさ。本当はそろそろこのボロ小屋を建て直そうかと思ってたんだけど、俺も馬鹿なことをしたもんさ。たった三千ドルの金のために、これからまだしばらくの間は大人しくしてなくちゃならん」

「ローズ邸にくればいいじゃないか。ローラのことなら、俺がなんとでも言って丸めこんでやるよ」

「冗談いうなよ」と、ユージンは苦笑している。「いくら俺でも、新婚の家へ上がりこめるかよ。それにおまえ、忘れてないか。俺は前に一度ローラに求婚してるんだよ。そんな男が雇い人として一緒に同じ屋根の下に住んでみろ。あの口うるさい村の連中がなんて噂するか……」

「やれやれ。これだから田舎の連中は嫌なんだ」と、アンソニーはうんざりしたように肩を竦めた。「確かにローラは女としてはなかなか魅力的かもしれないよ。この田舎で求婚してもいいと思えるような女は、ローラくらいしかいないもんな。でも俺は――おまえがここにいるから、彼女と結婚する気になったんだ。じゃなかったら、都会の暮らしを捨てる気には到底なれなかったと思うよ」

「悪いな、アンソニー」ユージンにはどうしても仕事上のパートナーが必要だった。それと、幼なじみのアンソニーが村で一番家柄のいいローズ家のローラと結婚してくれれば――彼としても何かと好都合だった。村における信用という面において。

「気にするなよ、おまえと俺の仲じゃないか」シェーンは孤児院時代、自分たちがどのくらい惨めな生活を送っていたかを思いだしながら言った。粗末な食事にほとんどいつも同じ服、不衛生で劣悪な環境――自分たちと同じく躾けの悪い低脳なガキどもと、やたらぎゃあぎゃあうるさいオールドミスの施設長。

「なんだったら時々……ローラのことを貸してもいいぜ。べつに俺は、おまえになら構わない」

「ひどい奴だな、まったく」と、ユージンは呆れたようにアンソニーのことを見やった。昔から、自分が兄貴分でシェーンは弟分だったのだが――その立場は大人になった今でもまったく変わっていなかった。

「まだ結婚してもいないくせに。べつに求婚したなんて言っても――本当に好きだとか愛してるとか思ってたわけじゃないさ。ただローラと結婚すれば、ローズ家の財産も手に入るし、その他色々便利なことが多いと思っただけのことだからな。でもおまえがローラと結婚してくれたら、俺としても何かと助かるよ。これから養狐場を経営しようかと思ってるんだが、あんまり大金を稼ぐとまたサイモン・ガートラーの奴に睨まれるかもわからないからな」

「わかった。俺でよければ、なんでも協力するよ」

 それからユージンは、アンソニーに聞かれて、どうやってローズ家の収獲のお金を盗みだしたのかを話しはじめた――まずは収穫祭のパーティで、フルーツポンチをチェスター夫人のドレスにこぼし――自分の存在を強く印象づけた。それから市場で穀物にいい値がついて上機嫌な村の男たちの談笑に加わり――舞踏室では見事なダンスを披露した。そうしてサリー・ロンドやミッシェル・モーティマーといった、ややとうのたったオールドミスになりかけの娘たちを釘づけにしたあとで、こっそりパーティを抜けだしたというわけだ。

 犯行は極めて簡単だった。勝手口のドアノブにロープを引っかけて力まかせに引っこぬき――ヨシュアがマーシーに話していたとおり、すぐに居間の暖炉の横にある、薪箱へと真っすぐ向かった。

「マーシー、フレディおじさん、ちょっと不用心」と、ヨシュアは厩舎に栗毛の馬のデニスを繋ぎながら言った――この時ユージンは他の馬に餌をやっているところだったのだ。

「何故って、自分の目の前で薪箱の下にお金隠した。使用人、信用する、あまりよくないよ」

「ああ、俺も知ってるよ」と、マーシーはポンプを押して桶に水を汲みながら言った。「でもべつに――問題ないんじゃないかな。あそこに土地や家屋の権利書なんかがおいてあるからって、一体誰が盗むっていうんだ?それに明日、銀行へ預けにいくんだろ。それなら何も問題いらないさ。それより早く今日の仕事を終えちまわないと、収穫祭に遅れちまうぞ」

 ヨシュアはまだ何か言いたそうだったが、妹のエステルが収穫祭をとても楽しみにしていることを思いだし、自分もすぐにポンプを押して桶に水を満たすことにした。デニスに餌と水を与えてしまえば――その日の仕事はそれで終わりだったからだ。

(薪箱の下ね)

 ユージンはその金が盗まれたとしたら、まず真っ先に疑われるのはシオン人たちだろうと思った。もちろん自分にはすでに五十万ドルもの貯えがあるし、何故そんな端金を盗まなければならないか、自分でも理解に苦しむところではあった。言ってみればまあ一種の運だめしとでもいおうか――退屈で平和な村の暮らしに飽き飽きしてもいたので、ちょっとした軽い冒険がしてみたくなったのかもしれない。もっとも、そのためにまさかフレデリック・ローズがショックのあまり心臓発作を起こそうとは――もし前もってわかっていたら、そんなことはしなかったに違いないが。

 ユージンはローズ邸から収獲の金を盗みだすと、再び何くわぬ顔をして収穫祭のパーティへ顔をだし、ビールを飲みながら気の毒なフレデリック・ローズとポーカーをやって大負けした。これも自分が確かにずっと収穫祭のパーティにいたという印象をまわりの人間に強く残しておくためだった。それからさらに、大酒飲みのサム・ジェンキンズと途方もない飲み比べをし――パーティの行われた村の公会堂の前でへべれけになって夜を明かしたというわけだ。

 アンソニーはユージンの話を聞きながら、田舎の連中というのはなんて馬鹿なのだろうと思い、ワインを飲みながらさも愉快そうに喉を鳴らして笑った。アンソニーはローラの伯父のフレデリック・ローズがそのために心臓発作を起こしたと聞いても――べつにどうとも思わなかった。確かにその翌月にローズ邸を訪ねた時には、広い屋敷にひとりぼっちになったローラのことを、心をこめて熱心に慰めたりはしたが。

 しかし、実際にローラと結婚した後では、口うるさそうな老いぼれの舅と同居せずにすんでよかったと、彼はむしろユージンに感謝しているくらいだったのだ。そもそもアンソニーがロカルノンでの安定した都会生活を捨てて、ロチェスターなんていうど田舎にきてもいいと思ったのは、ユージン・メルヴィルことジョン・シモンズの存在がローラとの結婚よりも大きかった。彼の住む西の森や村の北東にある帽子山などには、キツネやミンク、野うさぎなどが多く住み、ユージンはそれらの野生動物を狩っては街へ売りにいったという。今タイターニアの上流階級の夫人の間では、毛皮のコートやえりまきなどが大流行しているそうで、それらの動物の毛皮などは一匹だけでも結構な高値で取り引きされていたのだ。

「俺もまだ仕留めたことはないんだが」と、ユージンは堅い木のベッドの上で言った。「森の中で銀狐を見かけたことが何度かあるんだ。あれを売れば相当な値がつくことはまず間違いない。今も罠を仕掛けて、ミンクやキツネを獲ったりはしているがね――養狐場を経営すれば、そのうちここに大きな家を建てたとしてもさ、村の連中にも怪しまれずにすむだろうってそう思うんだ」

「それで、俺は何を手伝えばいいんだい?」

 ユージンの木の寝台の下に、藁で作ったマットレスをしいてアンソニーは横になっていた。自分はローズ家の農場にかかりきりになって、なかなか身動きがとれないだろうし、むしろユージンには農場経営のことなどで教えてもらわなくてはならないことがたくさんあると思っていた。

「そりゃあおまえ、気の長い話だよ」と、ユージンは楽しそうに喉を鳴らして笑っている。「アンソニー、まずはおまえは、ローズ家の新しい主人として、申し分なく振るまわなくてはならないだろう。おまえも知ってるとは思うけど、こういう田舎ではな、都会の人間や外部からきた者を必要以上に警戒するものなんだ。まずはローズ家の農場をうまく経営し、ローラの夫としてもよい人間として振るまわなくてはならないだろう。俺と自分の妻をシェアしようだなんて、とんでもない話だ」

「そういう人間は地獄へ落ちるって、そう言いたいんだろう?」

「そのとおりさ」ふたりは声をそろえて、さもおかしそうに笑った。「ローラは模範的なキリスト教信者だからな。日曜日は教会へいって有難くもない牧師の話を聞いて、忠実に安息日を守らなけりゃあならん。面倒なことだが仕方がないよ。そうやって三年もすれば、ローラもすっかりおまえを信用して、ローズ家の金や収獲のお金を自分の夫にすべて管理させるようになるだろう。べつに俺はこれ以上金なんか欲しくもないし、必要もないんだが、何分ガートラーの奴にマークされちまってるんでな。大っぴらに自由に使うわけにもいかないんだ。遠い親戚が死んで遺産を残してくれたとか、嘘をつくわけにもいかないし――でもそのかわり、目立たない程度にならいくらでもおまえに金を都合してやれるよ。これからはあの金の半分はおまえのものだと、そう思っておいてくれ」

「そうだな、兄弟。俺もなるべくローラの前でボロをださないですむように努力するよ――少なくとも三年くらいの間はね。彼女の理想の夫にでも、前の亭主と同じようにでも、いくらでも振るまってやろう。どうせローラには口うるさい親戚もいないようだし、村にいる血縁といえば、座骨神経痛のぼけたじいさんひとりきりらしいじゃないか。これでローラがもし……」

 そう言いかけてアンソニーは口を噤んだ。その先は流石に口にだして言うことは憚られた。自分にもどうやら良心とかいうものが少しはあるらしい、とアンソニーは闇の中で自嘲の皮肉な笑みを浮かべた。

「おまえの代わりに俺がおまえの言いたいことをずばり言ってやろうか?これでローラがもし、さして美しくもない愚鈍な娘だったとしたら、生命保険でもかけてうまく殺しているところだと、おまえはそう言いたかったんだろう?」

「…………………」

 シェーンは暫くの間無言のままでいた。厚い雲間から満月の光が、小さな丸窓を通して差している。そこにローラの姿が、一瞬まるで幻のように浮かんで消えた――殺してしまうには惜しい娘だとアンソニーは思った。愛しているとかなんとか、そんなふうにはあまり考えたくなかった。

「ローラはいい女だ――そのうちおまえが本気で愛するようになったとしても、不思議はないよ。何しろ俺が一度は求婚したほどの女なんだからな」

 ユージンがからかうように笑ってそう言ったので、アンソニーはなんとなく少しほっとした。彼は本当は一生結婚なんてしたくないと考えていたのだ――ひとりの女に一生土地と一緒に縛りつけられるだなんてごめんだとも思った。ユージンの言うとおり、三年もすればどんなに深い、永遠とも思われる愛でも覚める、アンソニーはそう考えていた。

「俺もここへやってきて、そろそろ丸三年になろうとしているが――田舎暮らしっていうのも、慣れればそう悪くないぜ。唯一の難点は、目の保養になるような娘があまりいないことかもしれないが、なに、おまえはこれからローラと結婚するのだから、そんなことはあまり関係ないだろう――これから養狐場がうまくいけば、俺は時々ロカルノンに本部のある養狐組合の会合なんかにでなきゃならないだろうし、そのついでに適当に女と遊んで帰ってくるさ」

「ジョン、俺にはおまえが信じられないよ」シェーンはふたりでロカルノンの夜の盛り場へ繰りだしていた日々のことを思いだして、夜の闇に響く、大きな声で笑った。「まるでカトリックの神父さまのように禁欲的な生活をおまえが三年も送っているだなんてね――アレックス・アーチャーの件があってからというもの、女たちも寂しがっていたんだぜ。俺も酒を飲みにいくたびにしょっちゅう聞かれたもんだったよ――本当におまえの居所を知らないのかってね、しつこいくらい」

「あの時は悪かったな」ユージンはいずれ、アンソニーにだけは自分の居場所を知らせるつもりであった。アレックス・アーチャーの裁判がすみ、事件のほとぼりが覚めたと思われる頃に。だがアーチャーが執行猶予なしの実刑十年の判決を受けたとロカルノン・ジャーナルで知った時には――すでに時期を逸してしまっていたように感じたのだ。

「なんにしても、俺もまたこうしておまえと一緒につるめるようになって嬉しいよ。そういえば今度、ホールデン生命の支所がロチェスターにもできるそうじゃないか。そいつはおまえの後任としてやってくるんだろ?」

「ああ、まあね。だから本当はこんなに早くローラと結婚する予定ではなかったのさ。とりあえず支所に出向して、地道にローラを口説くつもりでいたんだが――あのフレッドとかいう間抜けのお陰で、手間が省けて助かったよ。もっとも今でも少しぞっとはするがね――もしおまえと俺があの時ローズ家へいってなかったら、ローラはあの筋肉ムキムキ男に犯されていたんじゃないか?もしそうなっていたら、俺たちの計画も……」

「神の深い御配慮とかいうものが働いたんだろ」と、ユージンは不心得者のように、闇の中でにやにや笑った。「こんな田舎じゃあ、滅多にお目にかかることのできない、ちょっとしたショーだったよな。だがまあローラに何ごともなくてよかったよ。もしあれでローラがあの男にレイプされていたとしたら――ローラはあの男と結婚しちまってたかもしれないものな。なんだったか忘れちまったが、聖書にそういう話があっただろ?野の原で女が犯されて、声を上げなかった場合とかなんとか……」

「ああ、あったな、そういえば。その男はその女と結婚しなければならないんだっけ?まったく、くそ忌々しい教えだよな――ローラにはどうも、自分が嫌だと思ったり感じたりしたことはあえて行わなければいけないっていう、清教徒的なところがあるからな。確かにおまえのいうとおり、これも運命なのだとか考えて、あの筋肉男と結婚しちまっていたかもしれん」

「嫌だと思ったり感じたりか」ユージンは闇の中で声を押し殺すようにして笑った。外の世界ではフクロウたちがホウホウと、時々重なりあうように唱和している。「結婚したら、おまえがたくさんそういうことをしてやれよ。ラヴィニアではつい最近離婚が法的に認められるようになったそうだが――ここタリスでは、夫婦は神が結びあわせたものゆえ、これを引き離すことはなんぴとたりともかなわないってことになってるんだからな。もっともタイターニアやロカルノンでは、夫婦が別居して他の愛人と同居しているなんてことは珍しくもなんともない話だから、そのうちタリスでも公に離婚ってものが認められるようになるだろう……そうだな。俺はおまえがベッドでローラをめろめろにして、三年といわず半年以内にローズ家の財産を自分の好きなようにできるほうへ二十五万ドル賭けてもいい」

「冗談だろ。それじゃ賭けにならないじゃないか」アンソニーは藁を敷きつめたマットレスの上で寝返りを打つと、欠伸をひとつした。「そりゃあまあ結婚して最初のうちはそういうことも楽しいだろうさ――でもジョンは大切なことを忘れてやしないか?忌わしいことにセックスの快楽によってガキがたくさん生まれるんだぜ――そのことを考えただけで俺は、今からうんざりしちまうよ。それでローラが生まれてきた息子に、トミーなんて名づけてみろよ。今から想像しただけでもぞっとするぜ」

「そりゃあ、実際そうなってみなけりゃわからん話だろ。意外におまえ、子煩悩のいい親父になるかもしれないぜ」

「よしてくれよ」

 ふたりの会話はそこで自然に途切れ、深まりゆく闇のような眠りに、お互いの意識をそのまま任せた。夜の世界ではホウホウというフクロウのオーボエのような音色の鳴き声に混ざって、時々ツグミの鳴く声も聞かれたが、このふたりにとっては満月の輝きも星の明るさ、美しさもロマンチックで詩的な感情をかきたてる何ものかではまったくなかった。山や森に精霊が住むだなどというのは馬鹿馬鹿しい迷信であり、この世で唯一信頼に足るものといえば、金の力だけであった。そして人間の中で唯一信頼できるのはお互い同士だけであり、アンソニーに至っては、これから妻になる、また実際現に妻となったローラのことでさえ――ユージン以上にはまだ信用していなかったのである。




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