第1章
第Ⅱ部 シェーン・カーティス
今年も再び、春が巡ってきた。人間が戦争に明け暮れていようとどうしようと、季節は変わり、時は移ろってゆく――ガリューダ戦争はその後、三月に和平宣言が締結された。ユーディン軍が勝利したとも、連合国軍側が勝利したともいえぬ、玉虫色の決着であった。
ローラは病床でロカルノン・ジャーナル紙を読み、悲しみの微笑みを頬に刻みながら戦争終結の報について読んだ。自分の夫の払った犠牲は、一体なんであったのであろうか。これではまるで――まるきり犬死にではないだろうか?
(でも、ステイシーは手紙に書いていたじゃないの。トミーは兵舎病院で人々から必要とされる、なくてはならない人だったと……それに、レオナルド博士も、トミーのことを高く買ってくだすっていたのですもの。きっと彼のしたことには――間違いなく意味があったのよ。あれは他の人にはできない、神さまの授けてくださった、トミーだけの仕事だったのよ、きっと……)
ローラは、戦争終結の報を読んだ翌日から、ジョスリンにかわって再び台所仕事を切り盛りするようになった。今回の戦争に直接的にせよ、間接的にせよ、関わった者はみな、いく分老けこんでいたが、それはローラも例外ではなかった。髪は昔のような艶がなくなり、顔色は青白く、唇も以前のように紅をさしたようではなくなった。手や足がやたら細長く見えて骨ばっていたし、背が高い分それが余計誰の目にも不恰好に映った。ローラが病いの床を畳んで、初めて教会の日曜礼拝に出席した時――人々はみな、夫の喪に服した、黒い繻子の衣裳の彼女を見て、口々にこう囁きかわしたものだった。
「あの娘はあの戦争で、もはや娘の盛りをすっかり失ってしまったのだろうね、可哀想に」
と――。
だがローラは昔と同じく、人々の口にのぼることなど少しも気にかけなかった。日曜礼拝へも、ただの義理堅い信仰心、昔からの習慣によって足を運んでいるのに過ぎなかった。あの戦争がローラの信仰心を回復しえぬほど、難破させたのは確かであった。そして彼女は自分独自の新しい信仰の道へと目覚めたのである。
ローラは一度は失った、ルベドとの関係をとり戻した。彼女の耳は再び自然の魂の声を聴くことができ、その上さらに素晴らしいことには――いつもそこにトミーが一緒にいる、という感覚がともにあることだった。
池のほとりにも、モミの樹にも白樺林にも、楢の樹にもハンノキにも、また薔薇の蔓にもサクラ草にも、羊歯の葉にも、その他ありとあらゆるところに――トミーの魂は死なずに生きて存在した。ローラは実体を持つルベドと夢の中で何年も前に一度会ったきりであったので、彼の容姿のことなどはもうほとんど記憶になかった。ただとても綺麗な雪白の肌をした、銀髪の青年であるとしか――それで、ルベドがローラの耳に何かを囁く時にはいつも、彼女の記憶をとおしてトミーが、肉体をもって語るようになったのである。
「ローラ、こっちへおいで。ここに綺麗なリュウキンカの黄色い花が咲いているよ」
ローラがその、かつて愛し、今も愛し続けている夫の、優しい声に従うと、そこには彼が指で指し示したとおり、美しいリュウキンカの花があり、また彼が空想上の手でローラの手を引いて、
「ほら、もう少し待っててごらん」
と言うと、笹薮の中を小さな物音ががさがさがさと鳴り、なにかしら?とローラがどきどきしていると、ちょこん、とシマリスがあらわれ、また違う茂みの中へとがさがさがさと入りこんでいったりするのであった。
「ああ、トミー。とっても素敵ね。実際に肉体を持つあなたがいないのはとても寂しいけど……でも、魂というのは本当に不滅なのだわ」
こうしてローラは少しずつ体の衰弱と精神の綻びとを回復し、日々、かつての美しい瑞々しさをとり戻していった。ローラは毎日淡々とエドおじやフレディおじの食事の世話をし、農場の仕事を手伝い、ちょっとした時間の隙間を見つけては、カルダンの森へとでかけていった。
ローラはかつて自分が新妻で、トミーと新婚生活を送っていた頃の生活を<動の幸せ>と呼び、今の、他の人間には話しても決して理解できないであろう幸福を<静の幸せ>と呼んだ。ローラはこんなふうにして他人の目の届かないところでひとり、魂の法悦に浸り、そして日々の淡々とした雑務をこなしていたのであった。
ローラは昔から<変化>というものが大嫌いだった。人が生まれたり死んだり、住む場所が変わったり、新しい雇い人が入ってきたり、ということが、である。春から夏、秋から冬へと季節が移り変わりゆくように、毎日の生活もできることならそのように折り目正しく、永遠に同じように巡ってきてほしいと望んだ。
今のローラの心には、希望もなければ絶望も失望もなく、一切が無の喜びに満ちていた。野の花も樹木もただひたすらに自分の存在を喜び歌い、人間が仮に彼らのうちのひとりを切り倒そうと踏み潰そうとどうしようと――彼らの神への賛美はやむことはない。
(おお、喜びよ、喜びよ!)
森を歩いていると、そこここから、そのような歌声が聴こえて来、ローラもまた、一緒になって喜び歌い、ふと気づけばいつも傍らには恋人が、永遠の眼差しでもって、彼女のことを捕えているのであった。
もしローラがこのような自分の精神状態をロジャー・ボールドウィン博士にでもそのまま話したとしたら――もしかしたら博士は、<精神病の初期症状が見られる>とでも、カルテに書きこんだかもしれない。だが彼女はまったくの正気であり、正常でいながら狂気の世界の喜びの杯だけを、浴びるようにたっぷりいただく、まったくの正気な狂人であったといえよう。
だが<変化>というものは――生きて肉体を持つ人間の上に、嫌が上にも訪れるものだ。ことに、ローラのように、自分はもはや何ものによっても揺るがされず、動かされもせず、永遠に夫のことだけを生涯愛しぬくのだと決意しているような者には――それが本当にそうなのかどうかと、試みるための試練が与えられるものなのである。
フレッド・フラナガンはその春、ふと思いたって数年ぶりに懐かしいロチェスターの実家へ、帰郷しようと考えた。彼は七年前に家を飛びだして以来、陸地よりも海上で多くの時間を過ごし、世界中の港を渡り歩いてきた。
家出した理由は、確かほんの些細なことで親父と喧嘩したことが原因だったはずだと、フレッドは思い返す。彼の家は農場を営んでいるが、長男も次男も三男も、また他の五人いる姉たちも――非常に頭がよかったり、あるいはとても独創的である分野の才能に恵まれていたりと、村では「鳶から生まれた鷹兄弟」として有名であった。だがこの自分、フレッド・フラナガンだけは、鳶から生まれたただの鳶で、アヒルの中の醜い白鳥の子ならぬ、白鳥の中の平凡なカモとでも呼ぶべき存在だったと、彼は自分自身の幼年時代を振り返ってそう思う。
フレッドは勉強のほうはからきし駄目で、またとんでもないわんぱくのいたずら小僧でもあったので、しょっちゅう学校のハワード先生から鞭で打たれたり、あるいは教室の隅に立たされてばかりいた。
そんな彼にとって、船乗りになることは、唯一の夢であった――こんなしみったれた田舎村を飛びだして、誰と比較されることもなく自由に自分の人生を謳歌するのだと、小さな頃から憧れていた。そして十六歳の時、ノースウィング港からアーサー=ストロング号に乗って初めての船出を経験したのである。
彼は水夫として一生懸命働き、今ではセント=ミュリシア号の立派な船長であった。これまでも幾度か、故郷へ帰りたいような気持ちになったことはあるにはあったが、あの嫌な過去ばかりの詰まった田舎の村へ一度でも足を踏み入れたとしたら――なんとなく、自分のそれまでのツキが一気に落ちてしまうような気がして、二の足を踏んでいたのであった。
(だが、よくよく考えてみると、自分は一体なにを怖れていたのだろう?今では自分も兄弟たちに引けをとらないくらい出世したし、彼らが見たこともないような珍しい土産物を持って帰ったり、面白い冒険話を聞かせることもできる身の上なのだ――それに、親父はともかくとしても、おふくろの顔は見たい。それから母さん自慢の特製スープや、ブルーベリーパイの味なんかが恋しいなあ)
フレッドはガリューダ戦争が起きている間、封鎖されたユーディンの港のあちこちに物資を運んで、かなりの額の金を儲けていたし、身なりの立派になった自分を見て、家族や昔自分を馬鹿にした連中がどんな顔をするかと想像すると――とても愉快な気持ちになった。
(よし、セント=ミュリシア号は暫く相棒の副船長、二コラス=シュトラウスにまかせることにして、俺は一時帰郷を果たそう。なんだか、そう考えたらわくわくしてきたぞ。昔俺がキスしようとしたらひっぱたいた、サリー=ロンドは今どうしているだろう?結婚してるだろうか?もしまだ結婚してないなら――一夏の恋のお相手くらいになら、いいかもしれないな)
フレッドは港々に女がいるというわけではなかったが、それでも二十四歳になるこの年まで、それなりに女性の影がいくつかあった。だが彼は移り気で、すぐにひとりの女に飽きてしまう質の男であり、これまでそうした火遊びを繰り返しては、船で遠くへ旅立ち――というと少し聞こえがいいようだが、ようするに結婚の約束から逃げまわっていたのである。
「ローラ、ちょっとその苺のジャム、煮詰めすぎなんじゃないかい?」
ジョスリンの言葉にハッとしたローラは、すぐに焜炉から鍋を調理台に移した。
「あつっ」
ジャムを冷ますためにガラスの皿に移していると、鍋のへりにちょっとだけ指を触れてしまった。ジョスリンは指をなめているローラを、くすくす笑いながら見上げている。
「あんたらしくもないドジだね、どうしたんだい、ぼうっとしたりして。まさかフランク・メイヤーのことなんかを考えていたんじゃないだろうね」
「まさか……そんなのはありえないことよ、おばさん」
ローラが考えていたのは、ルベドとトミーのことであった。ここのところ何かと馬車で送りたがったりする、フランク・メイヤーのことなど、ローラの眼中にはない。七月の森は今、花盛りで、野バラやポピーや待宵草などが妖精の立ち姿のように花開いているし、野鳥や蝶や蜻蛉も、今年と来月が、一番多くたくさん出会えるのだ。そうした恍惚の一時を想像してローラは、再びうっとりしそうになったが、そのような夢見る眼差しは人前で見せるべきものではないと、自戒した。
「フランク・メイヤーだけじゃないだろ。今ロチェスターには、ローラに求婚したがってる若い男が、一ダースはいるんだからね」
「何いってるの、おばさん」今度はローラがくすくす笑う番であった。「あたし、未亡人になってまだ半年にもならないのよ。それなのにプロポーズだなんて――そんな非常識な人、あたし嫌いよ」
ジョスリンはその笑い声を聞いてほっとした。ローラの再婚に反対だというわけではない。むしろ、適切な時間をおいてからなら――ローラには幸せになってほしいと、そう心から願ってやまなかった。
「ローラはそう言うけどね、実際今から覚悟しといたほうがいいよ。あんたの喪が明けるのを待ってるのは何もフランク・メイヤーだけじゃないんですからね。第一、みんな驚いてるんだよ。あの常識が服を着て歩いてるみたいな男がさ、何かとあんたに親切にしようとしてるのを見てね。あれは誰の目にもローラに言い寄ろうとしているようにしか見えないけど――常識人のフランクが喪の明けない未亡人に気のあるところを見せるだなんてって、みんな噂話さえできないほどなんだよ」
「あの方は確かに紳士だわ」と、ローラはジャムが冷めるのを待つために、台所の椅子に腰かけた。ティーポットからお茶を注いで、ジョスリンに差しだし、きのう焼いたマーブルクッキーや真ん中にジェリーがちょこんとのった、花型のバタークッキーなどを皿に並べる。
「あの方は、ただ……トミーの思い出話をしにきてくださるだけなのよ。メイヤーさんは出征して間もなく、湿地帯で何日もどしゃ降りの雨にやられて、肺病にかかってしまったんですって。それで他の傷病兵とともに船に押しこめられるようにしてトミーの働いていた兵舎病院に送られたのだって、そうおっしゃってらしたわ。それで、病いの回復したあとはずっと、トミーや他の看護班の人々と一緒に、レオナルド博士の指揮下の元、腸チフスやコレラにかかった兵士の看病をしたり、怪我の手当てをなさったりしていたそうよ。トミーはとても……怪我をした兵士や病気の兵士たちに人気があったのですって。『彼の与える友情は、女の愛に勝って素晴らしい』と冗談で言う人さえあったくらいだって、そうおっしゃってたわ」
ローラの蒼い瞳にうっすらと涙が揺れた。ジョスリンも、トミーのことは娘のステイシーからよく聞いていた。彼の最後は、砲弾に倒れた兵士の死が尊いように、立派なものだったと。
「わたしも聞いたよ。ステイシーからね……死の間際、ローラの写ったあの写真――新聞の切り抜きをね、ずっと眺めていたってね。そしてあんたの髪の毛の入ったロケットに口接けしながら祈ってたそうだよ。『どうか、神よ。この美しい妻のために、自分を生きながらえさせてください』ってね」
ローラの瞳は滲み、長い睫毛をしばたたかせたなら、今にも大粒の涙がこぼれてしまいそうなくらいであった。でも彼女は、泣かなかった――泣くまいとした。
「フランクさんもそうおっしゃってたわ……だからあの人には何も――人々が噂するような下心なんて、これっぽっちもありはしないのよ」
「さて、それはどうかね」
ジョスリンは冷めないうちにと思い、お茶を一口すすって、ローラに気づかれないよう小さく溜息を着いた。フラナガン夫人は今も、何故もっと強く息子の戦争ゆきを反対しなかったのかと、自分自身を咎めていた。彼女の赤みがかった褐色の髪は、息子が出征してからたったの五か月ほどの間に、白いものが大分目立つようになってきているほどであった。
(ああ、エリザベス。あんたは正しかったよ。あたしは息子をあんなろくでもない戦争なんかへ行かせるべきじゃなかったんだ――あの子やあの子とローラの子供のかわりに、あたしが死ねばよかったとさえ思ってるよ。あるいは、あんたのかわりにあたしが死ねば……こんなこと、考えてみてもどうなるものでもないと、わかってはいるけどね)
隣同士の農場の主婦が、静かに思いに耽るようにお茶を飲んでいると、台所の小さな窓から、牧草地の丘を歩いてくる、ステッキを持った男の姿が見えた。ジョスリンは気をとり直してマーブルクッキーをひとつ食べ、
「ほら、言わんこっちゃない」と言った。
「フランク・メイヤーのお目見えだよ。ローラ、あたしなんかに言われなくてもわかってるだろうけど――決してあの男に気を許したり、気があると勘違いされるような素振りを見せるのじゃないよ。あんたが隙を見せた途端にあの男は――いや、男ってもんはね、なんでも自分の都合のいいように解釈しちまうもんなんだからね。強がってはいても、夫に早く死なれて本当は心細いんだろうとか、きっと自分にそばにいてもらいたいに違いないとか、揚句の果てには……」
「心配しなくても大丈夫よ、おばさん」ローラは笑いそうになるのを堪えながら言った。瞳の涙はもう、渇きはじめていた。「第一わたし、フランクさんと再婚だなんて――いえ、相手がフランクさんじゃなくても、誰かともう一度結婚するだなんて、想像することさえできませんもの。あの方もそのことはよく存じてらっしゃるのよ」
「そうだといいけどねえ」と、ジョスリンは疑い深いように窓の外へ目をやった。白い一張羅のスーツに身を包んだ、三十半ばの男がもうすでに、正面玄関のほうへまわろうとしている。ジョスリンはまだ暫くローズ邸に留まって、ふたりの会話のなりゆきを監視したいように思ったが、何しろ今日はずっと長い間音沙汰のなかった四番目の息子――フレッドが、本当に久方ぶりに帰ってくる日なのである!そろそろ暇を告げて、料理の支度にとりかからねばならない時刻であった。
「じゃあ、あたしはこのジャムを瓶に詰めたら帰るけど、くれぐれも注意するんだよ――あんたはトミーの名前を聞いただけで、目が潤んじまうんだから。女のあたしが言うのもなんだけど、そういうのは男からしてみたら……」
「そんなに心配しなくても大丈夫よ、おばさん。それより、フレッドが帰ってくるんですってね?わたしがこの村にきてからすぐ、フレッドは航海へでかけてしまったから――実はあんまり記憶がないのよ。そうそう、初めて学校へいった初日、痩せぎすのブスだって言われたんだっけ。ひどいわよねえ」
ローラがジョスリンと一緒に笑っていると、真鍮のノッカーの音が響いた。ローラは肩を竦めると、客を迎えるために玄関へでていった。
「じゃあローラ、あたしはこれで失礼するよ」
「ええ、おばさん。フレッドによろしく伝えてくださいな」
ジョスリンが勝手口から出ていくのと、表玄関からフランク・メイヤーがローズ邸に入ってくるのとは、ほぼ同時であった。フランクは左足の大腿部に銃弾を浴びて、びっこを引いているために、銀の鷲のついたステッキをつきながら居間へあがり、ローラが勧めた暖炉前のソファへと腰を落ち着けた。
ローラは銀色のお盆にティーセットと焼き菓子をのせると、それを大理石のテーブルの上に置き、今日もルベドとトミーとの、恍惚の午後の一時が台無しになったことを残念に思い、心の中で溜息を着いた。
(かと言って、「今日は一体なんの御用ですか?」なんて、邪険にするわけにもいかないし……)
「今日も、暖かい、いい一日ですね」
フランクは常識人らしく、いつものように天候の話からはじめた。彼はロカルノンで一番腕がいいというテイラーが仕立てた、素敵な白のスーツに合わせのチョッキを着て、襟元には黒の蝶ネクタイを締めていた。髪は色の褪せた金髪で、瞳は青みがかった灰色――彫りが深く、輪郭のくっきりとした細長い顔立ちは、どこからどう見ても<紳士>そのものだった。
「そうですわね。暖かい陽光の中で、森の樹々や花々や草たちが、喜んでいる声が聴こえてくるようですわ」
ローラは、退屈な人物が相手なので、ある程度自分の思っていることをそのまま、口にすることができた。そういう意味ではフランクはいい話し相手と言えないこともなかったが、いかんせん困ったことには、フランクのほうに気の毒な戦争未亡人を慰めるための、慈善行為を自分はしているのだ――というような意識があることであった。ローラはそうしたフランクの善意をどこまで受けとったらよいものかと内心困惑していたが、何分、自分の知らなかった兵舎病院でのトミーの様子を教えてくれた人でもあるし、遠回しにお気遣いなく、とほのめかすわけにもいかなかったのである。
「フラナガン夫人はなんでも――」メイヤー氏はいつも、ローラのことをフラナガン夫人と呼んだ。「樹木や花や小鳥なんかの、自然の声が聴こえるのだそうですね。トミーがいつだったか、話してくれたことがありましたよ。彼女の心の中では自然が恋人なので、自分とその恋人と、彼女がどちらをより愛しているのかと、考えることがたまにある、と」
「まあ、トミーがそんなことを?」ローラの瞳はトミーの名前を聞くと、潤みを帯びて輝いた。「メイヤーさんはどうお思いになります?わたし、時々自分が幻聴の聞こえる精神病患者なのかもしれないって、思うこともあるんですの。もしわたしが斧でもって裏のカエデの樹木を切り倒したとしますわね――そしたらカエデのほうでは『ありがとう、ローラ』と言ったり、『君に切り倒されるだなんて、嬉しいよ!』と感謝したりするんです……何を馬鹿なことをとお思いになられるかもしれませんけど……彼らはそんな時でも、神さまに喜び歌いながら、自分の運命を受け容れるんです。聖書のローマ人への手紙にあるように、彼らもまた人間と同じように、切なる思いで永遠の御国が現れるのを、待ち続けているのに違いないって、わたし確信してるんですのよ」
「そしてそれまでは自然界も人間と同じように、連綿と生みの苦しみを続けなければいけないということですか?」
「そうですわ。彼らはちゃんと知ってるんです――それだからこそ、切り倒されても哀しむことなく、踏み潰されても殺されても、殉教者のように耐え忍ぶことができるのだと思うんです。きっと人間だけが、天国の記憶を持たずに生まれてくるんですわ。でも彼らは生まれる前の記憶も、自分たちの創造主のことも、きちんと覚えてるんじゃないかしら」
「ふむ。興味深い考えですね、それは」
常識人のフランクは、キリスト教の教義についても極めて保守的な考え方をしていたが、ローラがきっと悲しみのあまり、そのように自分の心を慰めているのだろうと思い、話を合わせて頷いた。
「思えば、エデンの園から追いだされたのは人間だけですからね――だから他の被造物である動植物は、天国の記憶があるのかもしれないな。だから自分の運命を潔く受け容れて、人間みたいに見苦しくもがいたりすることもなく、安心して死んでいけるのかもしれない」
フランクは、ローラからお茶を勧められると、それを一口飲みながら、悲しみの戦争未亡人のことをちらと横目で見た。彼は決して自分のほうを見ながら話をしない――そのことにローラは随分前から気づいていた。それですっかり安心して、彼のお茶の相手をしていた。
「時にローラさん」この時初めてフランクはローラのことを、フラナガン夫人ではなく、ローラさんと呼んだ。「あなたはわたしのことをどう思ってらっしゃいますか――村の口さがない人たちが想像しているであろうことを、わたしは知っています。たぶん誰の目から見ても、わたしのしていることは非常識に映ることでしょう。でもわたしはそんなこと、少しも構わないんです。戦争という、非常識で野蛮な世界に放りだされて、わたしは考え方を――いや、生き方そのものを変えることにしたんですよ。幸い、わたしはとても気の長い人間だ。あなたがトミーのことを忘れるまで十年かかったとしても――待ち続けたいと思っています。どうかそれまで、ここにこうして時々、あなたとお茶を飲む時間を過ごすことを、許していただけませんか?」
「それは……できませんわ、メイヤーさん」と、ローラは困ったような表情で瞳を伏せ、やんわりと言った。フランクはこの時だけは、彼女の横顔を、しっかり見つめていた。
「お気持ちは嬉しいですけど、でも……あなたはきっと、トミーやわたしに対して、とても深く同情なさってるだけなんだと思います。わたしはもう二度と誰とも、結婚したりしたくないんです。たとえ、これから十年たったとしても」
「そうでしょうね」フランクはローラが振り返ると目を逸らし、寂しげに微笑んだ。「あなたならきっと、そうおっしゃるだろうと思っていました……実は、ロカルノンにあるインペリアル銀行に勤めることが決まったものですから、一か八かと思って、あなたのお気持ちを伺わずにはいられなかったんです。一年たってあなたの喪が明けたとしたら――きっと、わたし以外にもたくさんの男たちがあなたに求婚なさることでしょうね。でももしあなたが――こんなことは言うべきではないかもしれないが――ローズ家の土地や家屋などのことで困ることがあったとしたら、どうかわたしのことを思いだしてください。向こうには友人の弁護士もいますし、何か力になれることもあるかもしれませんから。それじゃあ……」
フランク・メイヤーはローラに向かって一礼すると、杖をつきながら玄関ホールへいき、コートかけにかけておいた帽子をとって、ローラに別れの挨拶をした。
「わたしは――あなたにはまだ、情熱があると思います。人を愛する情熱が、まだ魂の底のほうに眠っているのじゃないかという気がするんですよ。だからその情熱を引きだせるような人と、あなたが――いや、これ以上はわたしが言うべきことじゃないですね。それじゃあローラさん、ロカルノンへきた時には是非、わたしのところにも顔を見せてください。街の案内とか何か、できることがあるかもしれませんから」
「ええ、是非そうします」
ローラは、自分がロカルノンの街へメアリやジェシカのことを訪ねていくことがあったとしても――フランクの住むところへは訪ねていくことはないだろうと思った。けれども紳士の彼に対して社交辞令で、そう笑顔で最後に挨拶した。
ローラは台所から、びっこを引きひき遠ざかっていくフランクの後ろ姿を眺め、なんともいえない、やりきれない気持ちに襲われた。何も、彼の気持ちに応えられたらどんなによかっただろう、などと感傷的になっていたわけではない。ただ、トミーと結婚する以前も、プロポーズを断る時――まったく同じ気持ちになったのを思いだして憂鬱になった。十四、五歳の頃までは、数人熱烈な崇拝者を持って、彼らの求婚を次々と断ったりしたら、どんなに気分がいいだろうと憧れていたものだったけれど――実際にそのようなことが人生に起こってみると、それは気分がいいどころか、かえって気の滅入る行為であるということが、ローラにはよくわかった。
ただ、フランク・メイヤーに関していえば、ローラはその半年後、ロカルノン紙にて彼がマーガレット・オブライエン嬢なる人物と婚約したという記事を見て――喜びとともに心からほっとすることになるのであったが。
そして今はまだそんなことを露知らないこの時のローラは、溜息を着きながらすっかり冷めた苺のジャムの残りを瓶詰めにして、戸棚の中へとしまったのだった。