2.息子の恋を見守る母の思い
アンナリーザたちは、街の中心にある屋敷に案内された。詳しい話は旅塵を落としてから温かい食事と共に、ということだそうだ。長い航海に疲れ、ろくに湯浴みもできなかった身にはとてもありがたい心遣いだ。……アンナリーザにとっては、気持ちを整理する時間が必要なことも、ある。
* * *
「ああ……」
本当に久しぶりに、熱い湯に浸かって手足を伸ばすのは、何にも勝る贅沢だった。雨水で顔を洗うだけでは落ちなかった汚れや疲れが、溶け出していくのが分かる。張りつめていた身体も心も解けて、アンナリーザの唇から満足の吐息が漏れた。
「お湯加減はいかがでしょうか。熱くはありませんか?」
「ちょうど良いわ、ありがとう」
と、彼女の髪を洗っていた娘に話しかけられて、アンナリーザは慌てて湯船から半身を起こした。ここではベアトリーチェも客人だから、彼女は彼女で今ごろ身体を浄めているはず。アンナリーザについていてくれるのは、歓迎の列にもいた若い娘だ。たぶん、同じ年ごろということで配慮してくれたのではないかという気がする。赤みがかった金色の髪に若草色の目の、可愛らしい顔立ちの娘だった。
(あの子の気遣いなのかしら。それともほかの人の……? 優しさなのか──懐柔しようというだけかもしれないけれど)
期待と不安に振り回される不毛さには気付いていても、アンナリーザは考えることを止められなかった。あの子──クラウディオの為人の一端なりと知りたくて、アンナリーザは赤金の髪の娘のほうへ首を捻った。
「……貴女のお名前は? ここで生まれた方なの? いつもは何をしているのかしら。あの……クラウディオ、殿下のお人柄は知っていて……?」
「フアナと申します、王女様。両親がこの秘宝の街で結婚しましたので、この街と共に育った者でございます」
フアナと名乗った娘は、まずは最初のふたつの質問に答えると、考えを纏めるためにか軽く首を傾げた。髪を茹で濯がれ、肌を石鹸で磨いてもらって。間近に見ていると、フアナの手指が荒れているのや、頬の日焼けが見て取れる。彼女は街の有力者の娘なのかもしれないけれど、それでも自ら太陽を浴びて働いているのが答えを聞くまでもなく想像できた。エルフリーデが前世では接する機会がほとんど得られなかった、イスラズールの地に根付いた暮らしをしている人々の声を、今になってやっと聞くことができるのかもしれない。
「普段は──あの、私のことだけではないと思うのですけれど。男たちは畑仕事に家畜の世話に、忙しくしております。新しく土地を開墾しなければなりませんし、水路の整備も必要です。森は、すぐに迫ってきますから」
「そうでしょうね……」
質問の意図を察してくれたフアナの聡明さに驚きながら、《三日月》号の船壁を削り取らん勢いで枝葉を伸ばしていた密林を思い出しながら、アンナリーザはしみじみと頷いた。イスラズールで文明を維持するのは、簡単なことではないだろう。
「女の仕事は、主に家の中のことになります。料理や洗濯、果実や茸を干したり塩漬けにしたり、鶏を飼ったり──あの、この僻地ですから、使用人はいないのです。何でも、自分たちでやらないといけなくて。ですから、何かとご不自由に思われるかもしれないのですけれど!」
「当然のことよ。甘やかされた身ではあるけれど、航海で鍛えられたと思います。どうかお気になさらないで」
前世の彼女は、レイナルドには高慢だと言われることが多々あった。苦い記憶の幾つかを思い出して、アンナリーザは慌ててフアナを振り向いた。たとえ意に反してこの地に至ったとしても、王や貴族の思惑と民は関係がない。前世では王妃の務めを果たしきれなかった分、今度の人生ではイスラズールの民と同じ目線で触れ合いたかった。
「まあ……ありがとう、ございます……!」
大陸の王女という存在について、いったいどう思われていたのだろう。フアナは若草色の目を大きく見開き、ついで嬉しそうに微笑んだ。湯浴みの世話のために捲った腕が、頬や手の日焼けと裏腹に白くて眩しかった。それに、間近に見つめ合う格好になれば、フアナの顔立ちが整っていることも、分かる。
(とても綺麗な方だわ。髪や肌を磨けば社交界の華にもなれる……)
でも、日焼けも厭わず働くからこその美しさでもあるような。とにかく、マルディバルでもフェルゼンラングでも見たことがない瑞々しくも力強い健康美に、アンナリーザはしばし見蕩れた。彼女の視線には気付かず、フアナは考え込んでいるようだったけれど。
「ええと……そう、女の仕事のことでした。収穫期には男女問わず総出ということになりますし、雨が続けば水路の見回りをすることもあります。ああ、あとはお酒を造るのも、ですわね」
「お酒……イスラズールに、葡萄はそんなに生えていたかしら?」
二十年前の記憶だと、イスラズールには酒造に使えるほどの葡萄の収穫量はなかった。農家が細々と自家用に造るのがせいぜいで、客に振る舞うほどの大規模な生産は望めなかったはず。嗜好品よりも優先すべき作物は多くて──だから、イスラズールの宝石の多くは交易によって酒に変わっていったのだ。
(農業が発展したなら、素敵なことだけど……)
イスラズールの大地が富めば、大陸との対等な交易にも繋がっていくだろう。問題は、レイナルドがその発想に至るところが想像できないというところだけど。
「まあ、よくご存知ですのね。はい、葡萄酒ではないのです。原料は──あの、後ほど食事の席でクラウディオ様からご説明があると思いますわ」
「……そうなの。楽しみね……」
言えない材料から造られた酒、と聞いて、アンナリーザは思わず身構えてしまう。もちろん、危険なものや後ろ暗いものだったら、フアナが笑顔のままでいるはずはないのだけれど。ゲルディーヴよろしく、隠し事をするのが楽しいのか、赤金色の髪の娘はアンナリーザの金の髪から水気を拭き取りながら、満面の笑みで力説している。
「クラウディオ様が、イスラズールの将来のために注力されている作物、とだけ申し上げておきます。お疲れが取れたら畑も見ていただきたいですわ。きっと驚かれるし……あの方を信じていただけると、思います!」
フアナの可憐な唇が彼の名を紡いだことで、アンナリーザの心臓は跳ねた。これまで、クラウディオの名が語られるのは、顔の見えない書物や記録の上の人物のように、でしかなかった。ユリウスやディートハルトやアルフレートにとってはそうなってしまうのは仕方のないことだけれど、生きた彼を思い浮かべてその名を呼んでくれる人は、初めてだったのだ。
「あの方は──良い領主なのかしら」
フアナならば、最初の質問を忘れたりはしていないだろう。それでも、アンナリーザはもう一度問わずにはいられなかった。たぶん、勝手な思い入れではあるのだろうけれど──前世の母としては、息子の評判が気になって仕方ないのだ。王子としての立場や思惑ではなく、ひとりの青年としての。そう思えたのは、きっと良い傾向だろうと思う。
フアナの答えは、今度はごく短いものだった。
「はい!」
たったひと言と、それに、全身を使った大きな頷き。輝くような笑顔と、仄かに染まった頬。たぶん、湯に当たっているからだけではない。
「そう、なの」
急に恥ずかしくなって、アンナリーザは湯船に顎まで浸かり直した。洗った髪は、フアナがもう纏めてくれているから大丈夫。
(この子と会えたのは……良かった、わ)
息子が慕われているのを、図らずも目の当たりにしてしまった母親の気分を、まさか今になって味わうことができるなんて。誰にも言えない、言うつもりのないことではあるけれど。でも、とても素敵なことだ。
この瞬間を味わうことができただけでも、彼女がイスラズールまで再び旅した意味はあったのだろうと思えた。




