8.蝶の片翅は惹かれ合うか
《三日月》号は、今は左舷を夕日に照らされている。そして、右舷から望むのはイスラズールの緑濃い密林。アンナリーザたちは、イスラズール小大陸の南端を回って、西海岸を北上しつつあるのだ。今現在は、入り江に錨を下ろして一夜を岸辺で過ごす構えのようだけれど。
「逃げようとは思わないでくれよ? 道なんてないし、猛獣も出るし、毒草や毒虫や毒キノコだらけなんだから」
「分かっています」
いつになく真剣な眼差しのゲルディーヴの忠告に、アンナリーザは大人しく頷いた。知らない土地、しかも見える範囲に人里もない未開の地で、身ひとつで逃げられると思うほど彼女も向こう見ずではない。闇に沈みつつある密林の暗さ、鳥なのか蛙なのかそれ以外の何かなのか、見当もつかない鳴き声──いずれも、近づきたくないと思わせるに十分だった。それでもユリウスが残念そうな面持ちをしているからか、ゲルディーヴは念押しのように言葉を重ねた。
「《満月》号を先行させて、そろそろだぞ、って伝えさせてるとこ。いまごろ、あっちは歓迎の宴の支度に大わらわ、ってとこじゃないかな。明日の夜はごちそうだし陸の上で眠れるだろうから、さ」
もう一隻の海賊船の姿が見えないのは、アンナリーザもすでに気付いていた。そもそも人がとても少ない場所で、偵察が必要な訳もないだろうに、とは思っていたけれど、伝令の役目を負わされていたらしい。
「あ、あっちっていうのは──」
「明日になってのお楽しみなのでしょう。それも、分かっています」
「うん……」
ゲルディーヴが、どこかしょんぼりとした風情で頷いたのを見て密かな満足を覚えながら、アンナリーザはユリウスに微笑んだ。
「明日には、上陸できるということのようですから。あの、ユリウス様も我慢してくださいますように……」
「そこまで我を忘れることはありませんよ。……と、思います」
彼女たちは船の右舷から密林を間近に見ていた。もしかすると手を伸ばせば伸びた枝に届くのでは、と思うほど、イスラズールの自然は近くにある。「お預け」された状態のユリウスが飛び出してしまわないように、釘を刺しておこうと思ったのは正解だったらしい。頷きつつも、名残惜しげに闇の奥を見つめるユリウスの目が危うくて、アンナリーザは少しだけ語気を強めた。
「ユリウス様!」
重ねて言われてやっと、ユリウスは首を振りながら彼女のほうを見てくれた。眼鏡のレンズ越しの翠の目に映るのは、今こそアンナリーザひとりだけだ。
「申し訳ございません。ちゃんと、分かっております。明日まで我慢できますから」
「約束、ですよ?」
「はい、約束します」
アンナリーザが親指と人差し指で作った輪を差し出すと、ユリウスも同じ形を指で作って彼女の「輪」に繋げてくれた。契約の鎖を指で表す「約束」の仕草だ。
(あ、手が……)
言い聞かせるつもりでの無意識の仕草は、手の触れ合いを求めたのも同然だった。ユリウスの体温を感じてしまった指先が熱い気がして、アンナリーザは慌てて手を引っ込める。一方のユリウスは、誘惑を断ち切るように密林に背を向け、船室を目指しながらゲルディーヴに話しかけている。
「筆記用具を購入することはできるのかな。せっかくだから記録を残したいんだ。支払いは、身代金と併せて後日の交渉になってしまうが」
「……ああ、聞くだけ聞いてみれば良いんじゃないか。俺には興味がないから知らねえよ」
素っ気なく肩を竦める前に、少年海賊はアンナリーザのほうをちらりと見た、気がした。猫のような金色の目に浮かぶ、珍しい鋭さに貫かれたようでどきりとしてしまう。
(前も、お楽しみ、だなんて言っていたわ……)
王女らしからぬ振る舞いだと思われたなら屈辱だ。アンナリーザの頬は、ユリウスとの触れ合いだけでなく羞恥によっても熱くなった。ゲルディーヴの興味がないのは、彼女たちのやり取りに対しても勝手にしろ、とでも言いたかったのかもしれない。攫われた身で呑気なものだとか、そんなことを。
(だって、頼れる方で素敵な方だもの! つい……凭れてしまうことだって、あるわ……!)
心の中に浮かんだ言い訳こそ、はしたないものだった。そもそも、ゲルディーヴは彼女には何も言っていないのに考え過ぎなのかもしれないし──だから、赤くなっているであろう頬を掌で包んで隠して、アンナリーザはユリウスの背を追って船室に向かうことにした。
* * *
たとえ上陸はできなくても、入り江の内に停泊していると、外海を漂っていた時よりも船の揺れも波の音もずっと穏やかだった。揺り籠に揺られるような感覚に慣れ切った身には、かえって眠れないかもしれないと心配になってしまうほどだった。寝る支度を整えながら、アンナリーザは窓の外の気配に耳を澄ませてしまう。
(上陸したら、鳥や獣の鳴き声のほうが恐ろしいのかしら? ベレロニードの王宮とは違うのでしょうしね……)
エルフリーデも、イスラズールの大自然と本当に間近に接したことはないのだ。王さえ把握していない──らしい──ほどの辺鄙な地では、動植物の息遣いはどれほどの恐怖になるのだろう。イスラズールという名前で括られてはいても、明日降り立つのは初めての土地だと思ったほうが良いだろう。
「あの、アンナリーザ様。明日は何をお召しになりますか?」
まだ見ぬ世界に思いに馳せていたアンナリーザを、ベアトリーチェの呼びかけが狭く暗く、そして馴染んでしまった船室に引き戻した。
「何、って……?」
攫われて以来、アンナリーザたちは《海狼》号から強奪されてきた衣装を着回している。海賊たちの目を気にして洗濯もままならないから、なるべく汚さないように気を遣いながら。色や柄や素材よりも、まず一着一着に負担をかけないことを第一に考えてきた。だから今さら何を、と思ったのだけれど──
「海賊の首領なのか、イスラズールの有力者なのか──いずれにしても、あの少年に依頼した人物に会うことになるのでしょうから。威厳を示せるようなお姿のほうがよろしいかも、と……?」
重ねて説明を受けて、アンナリーザは納得の溜息を洩らした。ベアトリーチェは、デザイナーとしてだけでなく、今はとても頼りになる侍女としても彼女を支えてくれているようだった。
「ああ……さすがベアトリーチェね。そうね、意識しないといけないわね……でも、ユリウス様と並ぶのだし……」
幸か不幸か、あるいは海賊たちは目端が利くのか、レイナルドとの謁見用に仕立てたドレスも、今、この船の中にある。青の薄絹に金の刺繍を施した、軽やかで華やかで美しいドレス。見る者のすべてに目を瞠らせるであろう、ベアトリーチェの技術を凝らした逸品であることには間違いがない。でも──
「お化粧もろくにできないのに、ドレスだけ豪華でも不釣り合いでしょう。モスリン生地のほうにしておきましょうか。軽やかなのに品の良いデザインでしょう? イスラズールの人には、目新しく映ると思うの」
明日連れていかれるのが、多少なりとも開拓された「街」なのか、海賊の隠れ家に過ぎないのかもまだ分からない。ユリウスやベアトリーチェを横に、ひとり着飾るのも居たたまれない。威厳を見せるというなら、ベアトリーチェの技術とセンスによってだけで十分だろう。
アンナリーザの称賛を快く受け止めてくれたのかベアトリーチェは口元を緩めて頷いた。
「それでは、お髪だけでも私が結い上げますわ。あの蝶を飾れば──ちょうど、イスラズールの宝石を使っているのですから」
マリアネラからと思しき手紙と共に贈られてきた、片翅の蝶の飾りのことだ。最高の装飾品は、当然のことながら最高のドレスと一緒に保管されていたから。確かにあの煌びやかな翅は、合わせるドレスの色を選ばない。髪に留まらせるだけで、装いの格を幾つか上げてくれそうだった。それに──
(あれのもう片方を持っている人も、探さなければいけなかったし……)
あの蝶を持つ者は、アンナリーザの味方だとか何とか。要領を得ないマリアネラの──恐らく──文面を思い出しながら、アンナリーザはベアトリーチェの提案に頷いた。
「そうね。そうしてもらおうかしら」
明日のお楽しみ、だなんて。ゲルディーヴの思わせぶりな物言いにはもう飽き飽きだ。でも、今宵こそは彼の言葉に同意せざるを得ないだろう。もちろん、不安と緊張も同時に感じてはいるけれど。アンナリーザは、上陸と、そこで待つ人々との出会いに胸を弾ませていた。




