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転生した悲劇の王妃は今世の幸せを死守したい  作者: 悠井すみれ
七章 それぞれが向かう先は
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3.日、出ずる海を眺めながら(マリアネラ視点)

 イスラズールの王宮は、ベレロニード港を望む高台にある。ことに、王や()()()()が住まう上階からは、眩い太陽に煌めく青い海がよく見えた。先日、マルディバルからの報告を携えてきた船はこっそりと夜間に入港したけれど、かの国の姫君が率いる一行は、真昼に堂々と白い帆を輝かせて訪れるだろう。イスラズールがほとんど二十年ぶりに迎える、大陸からの正式な使者になるだろう。


(今ごろは、どの辺りにいるのかしら……?)


 海を望む東屋あずまやに佇んで水平線を眺めるのが、この数週間のマリアネラの日課のようになっていた。もはや三十年近く前、海の向こうから輿入れしてくるエルフリーデ姫を待っていた時と同じように。あの時も、マリアネラは不安と恐怖と緊張の入り混じった複雑な想いで一日一日を過ごしていた。


 鉱山を縄張りにする、名前ばかりの()()の娘にとって、王太子に見初められたのは望外の幸運だった。父も兄弟もその配下も、もはやマリアネラを怒鳴ったり殴ったりしなくなるということだったから。レイナルドの短気さも乱暴さも父たちとさほど変わらなかったけれど、少なくとも彼は、彼女に対してはとても優しくて寛大だった。

 初めから、正妻の地位など望んでいなかった。マリアネラは、レイナルドを愛してさえいなかった。彼女の関心は怖くない暮らしだけに留まっていたのだから。


(でも……私はずっと怖いままだったわ……)


 大陸の大国(フェルゼンラング)から妃を迎えれば、レイナルドの寵愛が揺らぐのではないか。身内の男たちの怒りを買うのではないか。あるいは、海を越えてやって来る姫君が、彼女を憎むのではないか。幸運で平穏な──心についてではなく、肉体について──日々は、明日にも終わってしまうのではないか。


 ある意味では、エルフリーデが生きていた間が、マリアネラにとっては一番安心できた日々だったかもしれない。

 異国から来た黒髪碧眼の王妃は、マリアネラが初めて見る本物の貴婦人だった。立ち居振る舞いも言葉遣いも、何もかもが気品に満ちて洗練されていて──マリアネラを嫌うやり方さえ、そうだった。子供まで儲けた夫の愛人のことを、あの方は睨んだり夫に苦言を呈したりはしても、罵倒したり暴力に訴えたりすることはしなかった。軽蔑の眼差しは辛かったけれど、肉体への苦痛に比べれば何ほどのこともなかった。

 本当に高貴な方は、人を傷つけることなど思いつきもしないのだ。本当の王族とは、こうも忍耐強く理性的なものなのだ。そうと知って、マリアネラは感動さえ覚えたものだ。それをエルフリーデに伝えられたことは、ついになかったけれど。あの方は夫の愛人とは口も利きたくないという態度を崩さなかったし、侍女として仕えていた時も、マリアネラの言葉は拙すぎて心の中の半分も言い表すことはできなかった。


(王妃様がまだ生きていらっしゃったら……!)


 マリアネラにとって、イスラズールの王妃とはエルフリーデ以外にはあり得ない。彼女がその座を占めることなど考えるだけで恐ろしいし、ほかの姫君を迎えるのも受け入れ難い。少なくとも、レイナルドの伴侶としては。彼はまだマリアネラを気に入ってくれているけれど、正妻を差し置いて甘やかされる居心地の悪さは、もう二度と味わいたくない。

 ……だから、この二十年というもの、レイナルドが縁談を断られるたびに彼女は密かに安堵していた。彼女を王妃に、だなんて王の意向が通らないていどには、イスラズールにも道理が通用することにも。臣下の不服従やフェルゼンラングの差し金に怒り、大陸諸国からの侮りに憤る彼を宥める苦労はあったとしても。


 でも、状況は変わってきてしまっている。彼自身が再婚するにはレイナルドは年を取った。次の世代のことを考えなければならない時に来ている。そして彼はまたも無理を通すつもりでいるのだ。彼の後を継ぐ王についても、その妃についても。


(アンナリーザ姫は……きっととても驚かれるし怖がられるし、お怒りになる、かも……)


 亡きエルフリーデ以上の苦難に見舞われるかもしれない若い姫君のことを思うと、マリアネラは居ても立っても居られなくなる。何をどのように説明して慰めて、宥めれば良いのか──ずっと考えてはいるのだけれど、上手く行く場面がどうにも想像できなかった。何しろ彼女は愚かだし、大陸の()()()()()()姫君から見れば見下げ果てた存在なのだろうから。


 どうなることか、と。マリアネラが近い未来を思って目を伏せ、溜息を吐いた時──彼女の視界に人の形の影が落ちた。次いで、彼女を呼ぶ明るい若者の声がする。


「母上。またこちらでしたか」

「エミディオ……」


 顔を上げたマリアネラの前で微笑むのは、彼女の息子のエミディオだった。赤みがかった金の髪に、翡翠色の目。帯びる色も、背の高さも、意志の強さをうかがわせる眼差しも。父親のレイナルドによく似ている。だから不意に顔を見ると我が子ながら震えてしまうこともある。幸いに、彼は気付いていないようだったけれど。


「船が見えたら真っ先に王宮に報せが来ますよ。ここで待っていても日焼けするだけですよ?」

「ええ……そうよね……」


 父親に比べれば、彼女の息子の言葉遣いはやや丁寧だ。イスラズールでも王の権威というものが確立されつつあるから、非嫡出子とはいえ王の子の養育はそれなりに気を遣われているのだと聞いた。マリアネラにとっては、怒鳴ったり拳を振り上げなくても人がついてくるようになったのだ、と言われたほうが分かりやすい。それに、大陸からの品々を密かに、細々とであっても入手できるのはベレロニードを抑える王だけ。貴重な香辛料や酒の販路を手にしていることも、王の力を強化している。……今のところは。


(でも、この先はどうなるか分からないのでしょう?)


 エミディオは、イスラズール王の庶子ながら、次の王になるのだと父に言われたことを信じている。それは良くないのではないかと母は思っているのだけれど、夫や息子の怒りを買うことが怖くてマリアネラは言い出せないでいる。第一、彼女の考えはふんわりとぼんやりとしていて、何がどう良くないのか、これもまた上手く説明できそうにない。


「……姫君はきっと不安に思われるでしょうから。何と言えば良いか、考えていて……」


 息子が差し出した手を取って、曖昧に言い訳じみたことを呟くと、エミディオは明るく笑った。


「母上が心配することじゃないですよ。大丈夫、ちゃんと上手くやります。大陸の姫君は気難しいそうですけど」

「お姫様かどうかではなくて……妻になる人は、大切にしてあげて欲しいわ」

「そうですね。父上と母上を見習って仲良くしないと」


 もうだいぶ高いところにある息子の横顔を、マリアネラはまじまじと見上げた。彼女とレイナルドが夫婦ではないのはさておいて、仲良く見えると評されたのは驚きだった。


(私はずっと怖かったのに……)


 レイナルドの耳に入ることを恐れると、口に出すことはできなかったけれど。だから、息子は幸せな思い違いをしたままになるのだろうけれど。


 マリアネラは、エルフリーデのことが決して嫌いではなかった。尊敬していたし、レイナルドをわざわざ怒らせるような言動をするのが心配でならなかった。できる限り彼の気を逸らせてあげたいとさえ思っていた。きっと、あの方は喜びはしなかっただろうけれど。

 だから、亡くなった時は本当に悲しかった。我が子を置いて旅立たれる母のことも、母を知らずに育つ赤子のことも心から哀れんだ。でも、その悲しみは少なからずマリアネラ自身のためのものでもあったのを、愚かな彼女も気付いてしまっている。


 エルフリーデがいれば、レイナルドは彼女を守ろうとしてくれる。頑なで口うるさい──と、彼は評した──あの方に比べて、()()()()()()()()彼女を愛してくれた。──だから安心できていた。


(ごめんなさい、王妃様……)


 悲しませ憤らせ、妬ませたこと。常に悩みの種であったこと。あの方の存在そのものを利用して、盾にしていたこと。我が子を育てる幸せと喜びを奪ったこと。彼女はエルフリーデに対して幾重にも罪を犯していて、だから償わなければならない。


(ごめんなさい、アンナリーザ様……)


 それによって、また別の姫君が苦しむことになるとしても。彼女にはほかにどうすれば良いか分からないのだ。


「父上と姉上が待ってますよ。家族でのお茶会です」

「素敵ね、エミディオ」


 家族というなら、()()()()()いるのに。()の存在を、エミディオも知ってはいるはずなのに。ほとんど思い出すことはないらしい。それもまた、マリアネラの罪であり愚かさなのだろうけれど。


 静かに輝く海を一瞥いちべつしてから、マリアネラは息子のエスコートに従った。

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