11.略奪の作法と意外な同行者
「ひゃ──」
海に落ちる、と思ってアンナリーザは息を呑んで身体を固くした。ふわりとした浮遊感は一瞬のこと、けれど彼女は水面に叩きつけられることなく、別の船の甲板に着地させられていた。もっとも、裸足のままの彼女の足は床に触れることなく、少年の褐色の腕に抱えられたままだったけれど。それでも、跳躍の衝撃は彼女の身体にもはっきりと伝わってきた。身軽な少年にとっても一仕事ではあったのだろう、彼の腕がアンナリーザの腰をぎゅっと締め付けた。
(敵船が、こんなに近くに……!)
落下の恐怖に高鳴る心臓の音を聞きながら、大きく目を瞠るアンナリーザの前で、海賊たちが岩場を駆ける山羊のように彼我の船を行き来していた。二隻の船は、船舷を接して平行に並んでいた。《海狼》号のほうがいくらか大きく、その分甲板も高いから、その高低差を埋めるためにか何本かの縄梯子が欠けられていた。
《海狼》号から跳び下りて来る者は、積み荷の香辛料の袋や葡萄酒の樽を抱えたりかついだりしている。そして、こちらから再び《海狼》号に向かう者は、仲間を助けて支えたり荷物を受け取ったりしている。
(これが、海賊のやり方……)
知りたくも見たくもない光景を前に、アンナリーザはひたすら呆然としていた。だから、足の裏に木材を感じても、下ろされたことにしばらく気付かないくらいだった。でも、少年に肩を突かれれば、我に返らない訳にはいかない。
「お姫様。ほら、下。見て」
久しぶりに自分の足で歩こうとすると、上手く身体の均衡を取ることができなかった。アンナリーザはよろめくように船舷にすがりついて、言われるがままに海面に目を向けて──そして、喘いだ。
「なんてことを……!」
朝日に煌めく海面に、水母のようなものが幾つも浮いていた。波間に揺れてもがく、黒や茶や金のそれらは、人の髪だ。海賊たちは、水夫を海に突き落としたのだ。
恐怖と嫌悪と非難の眼差しを向けても、少年は肩を竦めるだけだ。言葉は通じているはずなのに、人ではない別の生き物と対峙しているかのよう。宮廷で甘やかされたアンナリーザと、法の外で生きる海賊では感じ方も考え方も何もかも違うのだ。
「だって、ほっといたら死ぬまで抵抗するだろ? 兵隊さんってやつはさあ。もう明るくなるし、この辺りに鮫はいない。船にしがみついてれば沈まないし、落ち着けば無事な奴らが助けてくれる。溺れ死ぬのはよっぽどの間抜けだけだ」
少年の悪びれない物言いに歯噛みしながら海面に目を凝らせば、落とされた者たちは手足も動かしている……と、思う。ならば確かにすぐに溺れる恐れは少ないのかもしれないけれど、だからといって海賊の慈悲だなんて感謝する機にはなれなかった。
「……そうやって追手の足を封じようというのね。悪辣だわ……!」
溺れた者を助けようとすれば、その分時間を取られることになる。そもそも彼らがしがみついていれば、迂闊に船を動かすこともできないのだし。きっと、《海狼》号以外の船でも同様のことが起きているはずで、船団が体勢を整えるころには海賊たちは水平線の彼方に消えていることだろう。
「賢いって言ってくれよ。マルディバルをあんまり怒らせるなって言われてるからさあ」
「怒らない訳ないでしょう……!」
反射的に怒鳴ってから、アンナリーザは思わず口を両手で覆った。少年の怒りを買うことを恐れた訳ではない。ううん、虜囚の立場を弁えて、ベアトリーチェの身も案じるなら、恐れるべきではあるのだろうけど。でも、それよりも──
(言われたって──誰に? 海賊に命じられる者がいるというの……!?)
アンナリーザの驚愕に、気付いているのかいないのか。少年は、辺りを見渡して──恐らく、船員の人数を確かめて──から、軽く頷いた。
「──皆、乗ったな!? 帆を上げろ! 離脱する!」
荒くれの海賊たちは、口々におう、と応えた。《海狼》号でもそうだったけれど、年若くても細身の体格でも、この少年が彼らの長ということらしい。
少年の号令に応じて、海賊たちは船の各所に散っていった。帆が張られ、舵が取られ──彼らの操作によって、海賊船は動き始める。はじめはゆっくりと──でも、巨大な船は、風と波に乗ればすぐに速さが出るのをアンナリーザはすでによく知っている。
《海狼》号と海賊船を結んでいた縄梯子も、回収された。こちら側へ巻き取られていくロープの塊を見ると、彼我の繋がりが断ち切られたかのようでアンナリーザの胸は不安と心細さに痛んだ。ベアトリーチェと支え合っていなかったら、立っていることもできなかっただろう。
「アンナリーザ様……!」
「……お父様もお兄様もきっと助けてくださるわ。貴女だって、価値がある人なのだから……!」
ふたりして手を取り合いながら、アンナリーザはこちらの船が《海狼》号から離れていくのを絶望の目で見た。この動きによって生じた波が、海に落とされた者たちを溺れさせることがないように切に願う。そう──何よりも犠牲者がこれ以上出ないように祈るべきであって、自身の無事を望むのは浅ましい。
(お父様たちが私を見捨てることはない……でも、マルディバルに報せが届くまでにどれだけかかるの!? そのころには、私たちはどこにいるの……!?)
ベアトリーチェに言い聞かせた声は、アンナリーザ自身の耳にもいかにも頼りなく弱々しかった。信じてもらえないであろう情けなさに目を伏せた──彼女の視界に、黒い影が過ぎる。飛ぶ鳥のような勢いで、けれどずっと大きい影。それは《海狼》号からこちらへと跳んだようだった。
「え……!?」
アンナリーザが目を上げたのと、甲板に彼が着地した衝撃が伝わったのは同時だった。離れつつある船舷を踏み切って、高さにも海にも怯まずに。銀の髪を朝の光に輝かせて、彼女の前に文字通り飛んできたのは。
ユリウス、だった。
「なんだ、こいつ……!」
「ゲルディーヴ! 撃って良いのか!?」
なぜ、だなんて思っている場合ではなかった。海賊の何人かが銃を構えたのを見て、アンナリーザは飛び出し、ユリウスを背に庇って両手を広げた。
「駄目……!」
海賊の首領の少年は、意外そうに目を見開いていた。お姫様にこんな勇気があるなんて思ってもいなかったのだろう。驚きの中にも、まだ面白がる表情が見て取れるのがやっぱり気に入らない。でも──交渉するなら彼に対して、なのだろう。
「こ、この方はフェルゼンラングのヴェルフェンツァーン侯爵のご子息です!」
船は、この間にも《海狼》号からどんどん離れてしまっている。帆の膨らみ方や雲の流れ方から、船の速度が窺える。ユリウスがあちらに戻る手段はもうない。海賊たちに対してそんな慈悲は期待できない。だから、虜囚としての彼の価値を認めてもらわなければならない。
「この方を傷つけては、貴方がたはフェルゼンラングの怒りをも買うことになるでしょう! だ、だから──」
「そう。無事に返せば父は身代金を弾むはず。……珍しい動植物の標本でもあればついでに買い取るだろう」
懸命に訴えるアンナリーザの震える声よりも、でも、無謀な跳躍を成し遂げたばかりのユリウスの声のほうがよほど落ち着いていた。彼の手がアンナリーザの肩に置かれている。そのわずかな重みの、なんと頼もしいことか。
「そういうことだから、私の同行も許していただきたいものだな……!」
背後の様子はもちろん見ることができないのだけれど。ユリウスの翠の目は、眼鏡越しに海賊たちを鋭く睨んでいるのではないかと思えた。




